
空が、白い。
雲ではなく、煙だ。とユギは理解した。理解しながら、迫る刃を躱し、返す手で相手の剣を弾く。手応えが腕に響くのが、もう何度目なのかも数えていない。
戦場は、朝から血の匂いが充満していた。
白薔薇が優勢だ、と伝令は言った。数でも地の利でもなく、今は勢いで押されている。
ランカスターの兵たちは懸命に持ち堪えていたが、ユギには見えていた。じりじりと後退する足、揺らぎ始めた隊列の端。どこかが、どちらかが崩れる前の形を、戦場は必ず持つものだ。
定石なら、ここで敵は必ず動く。だが、それを迎え撃つ余裕が足りない。
ジョーノが叫ぶ。
「王子、右翼が……!」
「見えている。」
短く返して、ユギは馬を寄せた。横から突かれた右翼の混乱は、既に収拾がつかない段階に入りつつある。
中央を保ちながら右を立て直す。言葉にすれば単純だが、今の手駒でそれをやるのはどうか。
出来ないとは言わない。言ったことがない。
ユギは剣を構え直した。疲労は脚の付け根から来ていた。重いのは鎧の重さではなく、積み重なった時間の重さだ。
もう、夜明け前から動いている。水は最後にいつ飲んだか。
それでも、そんなことは足を止める理由にはならない。
戦争を終わらせるまでは。
たった1つ。それだけが、今のユギを立たせていた。王位のためでも名誉のためでもない。
ただ、この血と煙の続く日々を、終わらせたかった。そのために生まれてきたのだと、いつからか信じていた。
右翼の悲鳴が大きくなる。
混戦の中心で、何かが変わった気配がした。ユギはそれを、音で先に感じた。
戦場の喧騒の中に、不釣り合いな静けさを持って動くものがいる。多くの兵が無意識に避けていく、その中心に。
白薔薇の紋章を帯びているが、何かが違う。味方の兵たちでさえ、その人物を中心に間合いを取っていた。
馬上から目を凝らす。
銀に近い白の鎧。長身。剣の運びに無駄がない。いや、無駄がないというより、必要なものしかない。
戦意とも殺意とも違う、温度が見えない。そんな、奇妙に冷えた動きだった。楽しんでいるのでも、使命感で動いているのでもない。ただ、邪魔なものを排除している。そういう動き。
あれは、誰だ。まさかあの男は。
考える間もなかった。右翼は、ついに崩れた。
崩れた右翼が、波のようにユギの側近を飲み込んだ。
ジョーノが叫ぶ声が聞こえた。王子、と。それだけ聞こえて、あとは喧騒に消えた。押し寄せる白薔薇の兵をユギは斬り、弾き、躱した。
気付いた時には、馬も、見知った旗も視界にない。
孤立している。
状況を把握するのに一瞬もかからなかったが、その一瞬が惜しかった。包囲が狭まる。白薔薇の兵が、半円を描くようにユギを追い込んでいく。
崖でも罠でもない。人の壁だった。統率が取れている。即席ではない、最初から狙っていた動きだ。
誰が、と思う間もなく、人の壁が割れた。
割れた中心から、あの白い甲冑が見えた。
馬ではなく、徒歩だった。これだけの混戦の中を、まるで散策するように歩いてくる。剣は鞘に収めていた。それがかえって、ユギの警戒を引き上げた。
「止まれ。」
ユギは言った。声は、思ったより落ち着いて出た。
男は止まらなかった。
距離が詰められる、10歩、7歩、5歩。
ユギは剣を構えた。疲弊した腕に、それでも力を込める。
相手の目を見た。青い目だった。遠くから見ていた時とは違う。近くで見ると、その目には感情というものがほとんどなかった。
敵意も、侮りも、昂りも。ただ、何かを見ている目だった。
それが、ユギを見て一瞬だけ色を見せた気がした。
気のせいかもしれない、睨み返すが、ユギを見ているだけだ。
剣を交えたのは、三度だった。
一度目、ユギは相手の剣筋を読んだ。読めた。しかし腕が、脚が、一瞬遅れた。疲労が判断と身体の間に、紙一枚分の齟齬を生んでいた。
二度目、体勢を崩された。何とか立て直す。
三度目はなかった。
力だった。技でも速さでもなく、純粋な力で押し切られた。剣を弾かれ、踏み込まれ、気付いた時には右腕を背後に捻り上げられていた。地面に近い体勢で、喉元に冷たい刃が当たっている。
動けない。
ユギは歯を食いしばった。終わりが来るかと思った。しかしそれより先に来たのは困惑だった。
殺さないつもりか。
この体勢で、殺せないはずがない。なのに刃は、ただそこにある。ユギの息を確かめるように。
やがて、剣を収める音がした。
「抵抗するな。」
頭上から声が降ってきた。低く、平坦で、しかしどこか面白がっているような響きがあった。
「殺しはしない。」
「……何故。」
ユギは絞り出した。腕が痛い。それより、理解できないことの方が痛かった。殺せば、一番の武功。そして全てが終わる。
だが、男は答えなかった。代わりに、僅かに力を緩めた。しかし、逃げられない程度に。
引き起こされて、正面から向き合う形になる。
近い。この距離で見ると、男の顔の造りが、戦場に不釣り合いなほど整っていることに気付いた。何故か、気付きたくなかった。
「お前の目的は何だ。」
捕虜になる前に、せめてそれだけは聞いておかなければならなかった。
情報か、それとも。
男の口元が、ほんの少し動いた。笑ったのかもしれない。笑ったとして、何が可笑しいのかユギにはわからなかった。
「…案ずるな。少なくとも、白薔薇の勝利ではない。」
耳元で、ユギにだけそっと囁いた。
ユギは男の目を見た。何かを探したが、何も読めなかった。青い目は静かで、しかし確かにユギを見ていた。戦況でも地図でも王位でもなく、ユギを。
「名を聞いておこうか。」
今度はユギが答える番だった。一瞬迷い、しかし迷う理由もないと思った。
「聞く必要があるのか。」
「いや。見当はついている。」
「……ユギでいい。」
王子、とは言わなかった。言う必要がない。
男は面白そうに目を細めた。
「セトだ。」
それが、始まりだった。
城は、静かだった。
ユギが想像していたものとは違った。
降伏を迫られることも、捕虜として晒される屈辱も、交渉の駒として値踏みされる冷たさもなかった。
セトの城は広くはなく、しかし整えられていた。ユギに与えられた部屋は南向きで、午後になると光が長く差し込む。
鎖も枷もない。ただ、外に出られないだけ。
セトに仕える者は少なく、ユギの世話をする人間も、必要最低限。
彼らはユギを、名前で呼ばなかった。かといって赤薔薇の王子とも呼ばなかった。
目を合わせず、静かに食事を運び、静かに去る。何者かを問われることも、何者かを告げられることもなかった。
自分が何者かを知っている人間が、この城にはいないのではないか。
そのことに気付いた時、ユギは妙な感覚を覚えた。解放感ではなかった。もっと不安定な、足場のなさに近いもの。
セトが現れるのは、夕刻が多かった。
扉を叩くことなく入ってきて、椅子を引いて座る。ユギの部屋と言っていたのに、まるで自分の部屋のように。
それがユギには腹立たしかったが、どう腹を立てればいいのかが分からなかった。
敵として怒鳴りつければいいのかもしれないのだが、しかしセトは最初からユギを敵として扱っていない。
「食事は。」
2日目の夕刻、セトが短く確認をする。
「取っている。」
「睡眠は。」
「……何故そんなことを聞く。」
セトは答えなかった。代わりにユギを見た。戦場で見たのと同じ目だった。何かを、ただ見ている目。
3日が経った。
セトは毎日、夕刻に現れ、短い言葉を置いていく。
ユギの体の具合を確かめるような問いや、どうでもいいような話、それから、ユギの答えを待つような沈黙。
ユギはその沈黙が、一番扱いに困った。
7日が経った。
夕刻、セトがいつものように現れたとき、ユギは先に口を開いた。
「まさかとは思うが、俺を懐柔しようとしているつもりか。」
言ってから、我ながら直接的すぎたかと思った。しかしセトは表情を変えなかった。少しの間ユギを見て、それから口を開いた。
「近いが惜しい。…口説いている。」
あまりにも迷いがなかった。
ユギは返す言葉を失った。敵だと言おうとした。お前は白薔薇に加担しているのだ、と。
しかしセトは、白薔薇に忠誠を持たないと最初に言っていた。ならばユギを敵と呼ぶ理由も、セトには最初からないことになる。
「……意味が分からない。お前には、俺が寝返るメリットがない。」
「…そうか。」
「そうか、じゃない。俺が白薔薇に与する筈がないと、分かっている筈だ。」
「いい、時間はある。」
セトはそれだけ言って、その日は去った。
10日が経つころには、ユギは、セトが部屋に来るのを待つようになっていた。
そのことに気付いて、ユギは自分に腹を立てた。待っている理由がない。
話し相手が他にいないせいだ。それだけのことだ、と、自分に言い聞かせた。
セトは口説くとは言ったが、実際にすることは穏やかだった。
ある夜は、ただ同じ部屋に座っていた。セトは何かを読んでいて、ユギは窓の外を見ていた。
言葉がなくても、苦ではなかった。それが一番、ユギには不思議だった。
時折、ユギの手を取った。
唐突ではなかった。話しながら、自然な動きで、テーブルの上に置いてあったユギの手に、セトの手が重なった。ユギは振り払わなかった。
初めは勿論振り払っていた。今も、振り払うべきだったのかもしれない。
しかしその手は、ただそこにあった。温かくて、重くて、何かを言うわけでもなく。
ユギは窓の外を見たまま、動かなかった。
「そう緊張するな。」
返す言葉は、なかった。
別の夜は、髪に触れた。後ろから、梳くように。ユギは振り向かなかった。振り向いたら、何か取り返しのつかないことになる気がした。根拠はなかったが、そう思った。
強張った体を緩めるように、息を吐く。
「何故、誰にも言わない。」
ある夜、ユギは聞いた。
「何を。」
「俺を捕えたことを。俺を手中にしていれば、交渉の材料になる。白薔薇にとっても、俺の仲間にとっても。それどころか…。」
ユギの首でもってこの戦争を終わらせることだって可能だ。
セトはしばらく黙っていた。
「必要がない。」
「俺の価値を知らないわけじゃないだろ?」
「知っている。」
「なら……」
「お前の価値は、俺が決める。」
静かな声だった。しかし有無を言わせない重さがあった。
ユギは言葉に詰まった。王子としてなら、怒るべきだった。しかしセトの言葉には、侮りがなかった。値踏みも、打算も。少なくともユギには、感じられなかった。
ただ、ユギを見ていた。
ユギ、として。
ある朝、ユギは言った。
「この城では手狭だ。」
いつしか、セトは朝食をユギの部屋で取るのが習慣になっていた。向かいに座って、ユギの言葉を聞いて、少しの間だけ動きを止めた。
「手狭だと?」
「そう言った。」
「おおよそ捕虜が言う言葉ではないな。」
言葉の内容とは裏腹の、楽しそうな声だった。
「捕虜扱いしたことがあるのか、お前は。」
セトはユギを見た。ユギも見返した。互いに引かなかった。こんなことは、通らないと分かっていた。
常識的に考えれば、通るはずのない要求。
この部屋の光に飽きていたからだけではないが、それでも言わずにいられなかった。
セトの口元が緩い弧を描いた。
「面白い。2日待て。」
2日後、セトは本当にユギを連れ出した。
夜明け前に出発した。目立たない馬で、目立たない格好で。セトの従者も、案内の兵もなく、2人だけだった。
ユギは最初、罠を疑った。人気のない道で始末するつもりかと思った。
しかし、セトは前を向いて馬を進めるだけだった。
やがて、城壁が見えなくなった。
夜明けの光の中に、街が現れた。
大きくはない。しかし確かに、人が生きている街だった。パンを焼く匂い、石畳を踏む足音、遠くで誰かが笑う声。
ユギは、いつからか、こういうものから遠ざかっていた。戦場と城の往復の中で、人が普通に生きている場所の質感を、忘れかけていた。
「ここか?」
「俺の隠れ家がある。広さはないが、城よりは"手狭"ではないだろう。」
皮肉ではなかった。セトに皮肉を言う習慣がないことは、もうわかっていた。
隠れ家は、街の端の石造りの家だった。目立たない。看板もなく、飾りもない、街並みに紛れた普通の家。中は小さかったが、清潔で、窓から街の屋根が見えた。
「ここには誰かいるのか?」
「いや、俺以外は来ない。」
ユギはその言葉の意味を、すぐには考えないことにした。
街での朝は、城とは違った。
セトは市場に行くことを止めなかった。代わりに、隣に並んで歩いた。甲冑も紋章も何もない、ただの男2人として。
ユギは最初、その状況の奇妙さに慣れなかった。誰かがユギを見ても、そこに王子を見ない。セトを見ても、白薔薇の将を見ない。
ただの、2人だった。
青果を売る老人が、セトに話しかけた。旅の人かと聞いた。セトは短く、そうだと答えた。確かに嘘ではない。セトはどこにも属していないのだから、どこにいても旅の人だ。
パンを買った。屋台のもので、温かかった。当然のような顔で、セトがユギに渡す。
ユギがそれを受け取る。こちらも当然のような顔で。
石畳の上で、それを並んで食べた。
何でもない時間だった。なのに、ユギは不思議と言葉が出なかった。
セトも黙っていた。街の音が、2人の間を満たしていた。
昼過ぎに、子供が走ってきてユギの脚にぶつかった。転びかけた子供をユギは反射的に支えた。子供はユギを見上げて、それから走って行った。些細な出来事だったが、セトがそれを見ていた。
「何だ。」
「いや。」
セトは前を向いた。しかしその横顔が、僅かに緩んでいた。
初めて見た表情。戦場でも城でも見たことのない、何かが少し解けたような顔。
似ている、とユギは思った。
何に似ているのかは、分からなかった。ただ、そう思った。
夕方、川沿いを歩きながら、ユギはセトに尋ねた。
「お前は、何かを探しているのか?」
セトの足が、一瞬だけ止まった。止まって、また歩き出した。
「何故、そう思う。」
「戦争の勝利が目的ではないと言った。ならば目的は別にある。お前の動き方を見ていれば分かる。何かを探している人間の動き方だ。」
セトはしばらく黙っていた。川の音だけが聞こえる。
「答えないのか。」
「……お前は、よく見ているな。」
「答えになっていない。」
「そうだな。」
それだけ。否定はしなかった。この男は必要なことしか言わないのだから、かなり肯定に近いのだろう。
何かを探している。
自分も、何かのために戦っている。戦争を終わらせて、王になる。その一点のために今日まで生きてきた。
セトも、同じように何かのために生きている。
その"何か"が、違う。
ユギはそれを、川を見ながら感じていた。言葉にはしなかった。ただ、分かってしまったことは、何かを決定的にした。
別に、それで何か問題があるわけではない。小さく息を吐いた。
その夜、隠れ家に戻って、セトが火を熾した。小さな暖炉の前に並んで座っている光景は城での夜と似ていたが、違った。
壁がなかった。ユギの中の、最後に残っていた何かは、既に街の空気の中で少しずつ溶けていた。
「セト。」
セトが振り向く。
「明日も、街に出るのか?」
セトはユギを見た。それから、短く言った。
「出る。行くだろう?」
ユギは小さく頷いた。
3日目の夜だった。
市場で買った葡萄酒を空けた。セトは酒に強かった。ユギもそう弱くはなかった筈だったが、慣れない穏やかさの中にいるせいか、酔いが早かった。
暖炉の火が、小さくなっていた。
ユギは火を見ていた。セトは何も言わなかった。この男はいつも、ユギが話すまで待っている。それが分かってからは、沈黙が苦ではなくなった。
「不思議だ。」
ユギは言った。独り言のような声だった。
「何がだ。」
「戦が、遠い。」
本当に遠かった。戦場の喧騒も、赤と白の旗も、ジョーノの声も、ここには届かない。石畳と川の音と葡萄酒の匂いの中に、戦の影がなかった。
「忘れたいか?」
「忘れられるとは思っていない。」
ユギはセトを見た。
「ただ、今は遠い。それだけだ。」
セトはユギを見ていた。いつもの目だった。しかし今夜は、その目の中に何か違ったものがあった。戦場でも城でも見たことのない、もっと近いところにある何か。
この色を、どこかで見た気がした。
セトが手を伸ばした。
ユギの頬に、触れる。
城でも触れられたことはあった。髪に、手に。しかしこれは違った。
違う、とユギは思った。距離がなかったから。
暖炉の明かりの中で、セトの顔がすぐそこにあった。
振り払わなかった。
振り払う理由が、心の中に見当たらない。
セトがゆっくりと動いた。いつもそうだった。この男は何に対しても急がない。自分の速度で、確かめるように。ユギが嫌だと言えば止まると分かる動き方で、近付いて来た。
ユギは目を閉じなかった。
セトの目を見たまま、動かなかった。
初めて会った時の目の色、見間違いではなかったのか。そんなことを考えていた。
唇が、触れた。
柔らかかった。それだけを思った。戦場で人を斬る手を持つ男が、こんな風に触れることが出来るのかと、どこか遠くで思った。
そして、離れた。
「口説いている」と言っていたのをぼんやり思い出す。
セトが動いたのは、ユギがセトの襟を掴んだ後だった。
引き寄せた手の意味を、セトは間違えなかった。ゆっくりと、しかし確かに、応えた。
それからしばらくして、セトが少しだけ離れて、ユギを見た。問うような目だった。
ユギは頷かなかったが、目を逸らしはしなかった。
それで充分だったらしかった。
セトの唇が、再び重なった。今度は深く、ゆっくりと。
ユギの口内に舌が滑り込み、絡みつくように探る。息が混じり、熱が伝わる。
ユギは無意識に手を伸ばし、セトの肩に指を食い込ませた。この男の体温が、こんなにも心地よいものだとは思わなかった。
セトはユギの反応を確かめるように、唇を離さず手を動かした。
外套の下、ユギの服の裾から手を這わせ、素肌に触れる。指先が腹部をなぞり、ゆっくりと上へ。
ユギの胸に到達し、胸の飾りを軽く撫でる。ユギの体がびくりと震えた。甘い疼きが広がり、息が乱れる。
「ん……。」
小さな声が漏れた。セトはそれを聞き逃さず、指の動きを優しく繰り返す。親指で円を描くように、軽く摘む。
ユギの体が熱くなり、腰が自然に浮く。セトの目が細められ、満足げにユギを見詰める。やはり言葉はなかった。その代わりに、触れる手が全てを語っていた。
セトはユギの体をベッドに優しく導き、座らせた。部屋の灯りが柔らかく、2人の影を長く伸ばす。
セトの目はユギを捉え、言葉なくその視線で許可を求める。
ユギが僅かに頷くと、セトの手が動き始めた。全てがゆっくりで、まるで大切な宝物を扱うようだった。
セトは、ユギの前に、静かに膝をついた。見上げてくる目が、戦場のそれとも城のそれとも違った。何かに集中している目だった。ユギだけを映している目だった。
手が、ユギの脚に触れた。
ダブレットの前紐を緩める。布が緩んで、前が開いていく。セトの指が縁をなぞった。
それだけで、ユギの息が変わった。
次にポインツを解いた。
ホーズとダブレットを繋ぐ紐を、腰の周りから1つずつ解いていく。セトの指がユギの腰に触れるたびに、温もりが伝わった。
最後の一本が解けた瞬間、ユギが顔を逸らした。
それからダブレットを脱がせた。
布が滑るように落ちた。セトはそれを床に置いて、ユギの肌に目を向けた。
見られている、落ち着かない。値踏みなどではない、もっと違う何か。セトの唇が、引き寄せられたようにユギの肩に触れた。
ユギの喉が、思わず小さく動いた。
コッドピースの紐に、セトの指が伸びた。
結び目を1つずつ解いていく。ユギの反応を確かめながら、止まりながら、また続ける。
殻を、一枚ずつ剥いでいくように。
布地が外れた瞬間、ユギは目を閉じようとした。しかし、閉じることは出来なかった。セトが、ちょうどその瞬間にユギを見上げたからだ。
不意に、目が合ってしまった。
セトは何も言わなかった。ただ、手をユギの腰に当てた。それが温かかくて、ユギの中の何かが、少し解けた。
ガーターに指を伸ばした。
指が膝の裏に触れる。ユギの体が小さく震えた。セトが手を止める。そして震えが収まるのを、急かさずに待った。それからゆっくりと、紐を解いた。
ホーズに指をかける。
そして右脚から、布をゆっくりと下ろした。指が脚の輪郭をなぞるように滑る。ユギは息を整えようとして、整えられなかった。左脚も同じように、丁寧に、床に置いた。
最後に、ブレーを外した。
セトの手が止まった。止まって、ユギを見た。全部を見た。
見られることの意味を、ユギは初めて知った。恥ずかしいとは違った。もっと根のある、深いところが揺れるような感覚だった。
セトが体を近付けた。
抱き締めるように。覆うように。耳元で、低く、静かに囁いた。
「美しい。」
それだけだった。
飾り気のない言葉だったが、この男が嘘を吐かないことは、もう知っていた。だから、その言葉は、真っ直ぐにユギに届いた。
ユギは目を閉じた。
セトの体温が、全部だった。暖炉の火が小さく燃えていた。街の夜が、静かに続いていた。
ここから先は、言葉ではなかった。
セトの手が、ユギの顎に触れ、上を向かせた。
逃げ場をなくすように、しかし強引ではなく。ユギは逃げなかった。
また、唇が触れた。
最初の時より深かった。セトに任せればいい。どこへ向かうかを知っている動き方だった。ユギは自然と、それについていった。
体重をかけられ、背中がベッドに触れる。
暖炉の火が、静かに燃えていた。
セトは急がなかった。
常にそうだった。戦場でも、城でも、この街でも。この男は自分の速度を持っていて、それを誰かに合わせることをしない。
しかし今夜は違った。ユギに合わせていた。ユギの息を聞きながら、ユギの体の強張りが解けるのを待ちながら、進んだ。
触れられるたびに、ユギは自分の輪郭を知った。
普段は感じない場所に、感覚があった。セトの手が触れた場所だけが、熱を持った。その熱が、少しずつ広がった。
怖くはなかった。
それが、ユギには少し意外だった。元より、捕えられた夜から、この男を恐れたことはなかった。
しかし今夜は別の意味で怖くなるかと思っていた。何故かは分からない。だが、セトの触れ方は、最初から最後まで、ユギを置いていかなかった。
置いていかない、という触れ方があることを、ユギは知らなかった。
セトが何かを囁く。
言葉ではなかった。言葉にならない、低い声だった。しかしユギには届いた。意味ではなく、音として。この男の声が、こんな風になることを、初めて知った。
ユギは小さく身を震わせて目を閉じた。
セトの体温が今の全てだった。重さが、あった。確かな重さが。これは夢ではないと、体が知っていた。
石畳の街の夜に、暖炉の火を明かりに、セトとユギがいる。それだけが、今の全てだった。
互いに、どこか似ている。そう思った。
目的のために生きている。それだけが同じだった。目的は違う。戦争が終わればユギはここに根を張る。セトはどこかへ行く。それは分かっていた。分かった上で、今夜ここにいた。
だから全部、本物だった。
セトが露わになった下肢に触れる。内腿を撫で、徐々に中心へ。ユギのそこはすでに熱を帯び、僅かに湿り気を帯びていた。
「触れても?」
セトの声は低く、囁くように。
もう触れている、そう思ったが、ユギは頷くしかなかった。セトの指が、優しく中心を包み込む。ゆっくりと上下に動かし、指先で先端を撫でる。
「んっ……」
ユギは体を震わせ、甘い感覚が全身を駆け巡るのを感じた。息が途切れ、指は縋るようにセトの髪を掴む。
セトはさらに指を進めた。
ユギの脚を広げ、その周囲を優しく撫で、緊張を解す。
「あ…ゃ……っ」
セトは、ユギの体が固くなるのを感じ取った。そして、唇で耳朶を甘噛みしながら囁く。
「力を抜け。痛くはしない。」
指先にオイルを纏わせ、ゆっくりと挿し入れる。ユギの温かさが締めつけるのを感じ、セトは静かに待つ。
息が整うと、徐々に侵略が深くなっていく。
体が熱く溶けて、声が漏れる。セトの指が、敏感な所をなぞるたびに、腰が震えた。
そっと窺ったセトの表情はどこか柔らかく、ユギは目を逸らした。
セトの指は、ユギの内側を優しく探りながら、敏感な場所を的確に射抜いていく。もう一本、指が加わり、優しく広げるように動く。
ユギは体が火照り、熱いとすら思っていた。
内壁は、知らず、指を締めつけるように呼応する。同時に、セトのもう片方の手がユギを包み込む。温かい。
内と外から、指先が、ユギの感覚を鮮やかに昂らせる。
「は……あっ……」
ユギの声は震え、腰が無意識に揺れた。息が乱れ、視界がぼやける。セトは止まらず、しかし優しく続け、ユギの身体を限界まで追い詰めた。
2つの感覚が重なり、ついに頂点に達した。ユギの体はびくびくと震え、白い熱が溢れ出す。その余韻で、ユギは肩で息をして、胸を激しく上下させていた。
セトは指をゆっくりと引き抜き、ユギの体を優しく撫でた。汗ばんだ額に唇を寄せ、髪を梳くように。ユギの目を見つめ、低い声で囁く。
「まだバテてもらっては困るぞ。」
その言葉に、ユギは頰が熱を持ったのを感じた。この男の声が、こんなにも甘く響くとは思わなかった。
撫でる手が、背中を滑り、腰を支える。ユギはふっと息を吐き、緊張を解いた。
その瞬間を逃さず、セトは自分の体を重ねる。自身の熱を、ユギの最奥へと、ゆっくりと押し進めた。
セトの熱が、思いの外、熱い。
「はぁっ……ぁっ…!」
ユギの内側はセトを迎え入れ、包み込むように締めつけた。セトの動きは慎重で、ユギの反応を確かめながら、深くまで埋めていく。
セトは、深く埋まったところで、一瞬静止した。ユギの内壁が熱く脈打つのを感じ、セトの息も僅かに乱れる。
ユギの瞳を捉え、ゆっくりと引き抜き、再び内壁を弄ぶ。動きは穏やかだが、確実で、ユギは体を震わせる。
「ん……んんっ……っ」
ユギの声が漏れる。セトの熱がゆっくりと入る度、ぴりぴりとした快感が背中を駆け上がり、抜かれる瞬間には甘い喪失感が混じり、それがまた満たされる。
快楽が途切れず、ユギの体は溶けるように熱くなった。
腰は自然に動く。迎え入れる方法を知っているようだった。
セトはリズムを保ち、時には角度を変えて敏感な所を狙う。慈しむようでいて、反応を楽しむような、不思議な目だった。
ユギの息は途切れ途切れで、思わず指をセトの背中に食い込ませ、爪は跡を残す。汗が混じり、部屋に湿った音が響く。ユギの体が限界に近付き、快感は頂点へと積み重なる。
やがて、ユギの体がびくびくと震える。熱が溢れて、二度目の絶頂を迎えた。
声が抑えきれず、喉から甘い叫びが零れる。セトは動きを止めず、ユギの余韻を優しく追いかける。
「……いいか?」
低く、吐息を混じらせたような声だった。
ユギは目を開き、コクリと頷いた。それで伝わる。
セトの動きが速くなる。数回深く突き、自身を解放する。
体の奥に、熱いものが広がった。
セトの体がユギに覆い被さるように重なる。息を整えながら、セトはユギの髪を優しく撫で、静かな余韻に浸った。
どのくらいの時間が経ったか、分からなかった。
ユギはセトの腕の中にいた。天井が見えた。暖炉の火は小さくなっていた。街の音が、遠くに聞こえた。誰かが笑う声、風の音、川の流れ。世界は続いていた。何事もなかったかのように。
しかしユギの中では、何かが変わっていた。
変わった、という感覚ではなかった。むしろ、何かがやっと定まった感覚だった。長い間揺れていたものが、今夜初めて静かになった。
"何か"を知った。
それを、初めて自分のものとして持った。探していたわけではなかった。迷っていた時間は長かったかもしれない。しかし今は、ただ知っていた。知ってしまった。
セトの手が動いた。髪を梳くように。城でされたのと同じ動きだった。しかし今夜は、間に何もなかった。
おかしかった。おかしい、と思いながら、何がおかしいのか言葉にならなかった。
捕虜が、捕えた男の腕の中にいる。それがおかしいのだろうか。しかしユギにはもう、自分が捕虜だという感覚はなかった。
セトも、捕えた男の顔をしていない。初めからそうだった。
ただ、隣にいただけだ。
「セト。」
呼ぶが、返事はなかった。しかし、手は止まらなかった。聞こえているということだった。
「お前は……」
言いかけて、止めた。
「何だ。」
「……何でもない。」
続ける言葉がなかった。名前を呼んだだけで充分だった。この夜に、この男の名前を呼べたこと。それだけで。
暖炉の火が、最後の明るさで揺れた。
街の夜が、深くなっていった。
どこか似ている男の胸。
目的が違うことを知りながら、それでも今夜だけは、ただここにいた。
朝、先に目が覚めた。
窓から光が入って来る。街の朝の陽は、城のそれより柔らかかった。理由は分からない。同じ空の下にあるはずなのに、ここでは光の質が違うような気がした。
セトはまだ眠っていた。
ユギはしばらく、その顔を眺めていた。普段は何かを見ている目が閉じられると、随分違う顔に思える。年相応の、ただの男の顔だった。
この顔を知っているのは、今この瞬間、自分だけなのだと思うと何とも言えない気分になる。だから、何も思わないようにした。
起き上がり、窓を少し開けた。石畳の上を、パン屋の少年が駆けていく。昨日も見たその少年は、毎朝走っているのかもしれない。
これが、普通の朝というものか。
ユギには縁遠いものだった。物心ついた時から戦の気配の中にいた。剣の持ち方を覚えるより先に、ランカスターの名を背負うことを覚えた。
普通の朝を、こんな風に窓から眺める時間を、持ったことがなかった。
だから、これは本物だ。
本物の朝で、本物の光で、本物の静けさ。そしてこの部屋にいる男も、ユギにとっては、本物だった。
ただ。
理性は、静かに告げていた。
"お前はイギリスを離れることができない。王になるまでは、この地に根を張らなければならない。それがお前の目的であり、お前がお前である理由だ"
"そしてこの男は、去る"
どこへ、とは知らない。何のために、とも知らない。セトがここに留まる男でないことだけは、もう分かっていた。
だから、そのことには、触れない。触れても、何も変わらない。変えられない。ならば触れずにいた方がいい。
セトも、触れなかった。
それが分かっていた。あの男も知っている。知った上で、それでも今ここにいるのだから。
4日目、市場でセトが足を止めた。
香辛料を売る店の前だった。セトは店主と短いやり取りをして、小さな紙包みを買った。
「それは何だ?」
「俺の生まれた地方では、簡単な薬にするんだ。」
故郷がどこなのかは言わなかった。ユギも聞かなかった。
ただ、この男にも故郷があるのだと思った。
当たり前のことだった。しかし戦場で初めて見た時から、セトはどこか場所を持たない男に見えていた。
どこにも根を張らない、どこへでも行ける、そういう男。それが今、小さな紙包みを持って隣を歩いている。
「この街で美味いものを知っているか?」
セトが聞いた。
「俺が聞きたい。お前の隠れ家なんだろ?」
「俺はいつも1人だったからな。」
それだけだった。それだけだったが、ユギには重かった。1人だった、と言ったこと。
「あそこはどうだ?」
ユギは川沿いの小さな店を指した。昨日通りがかったときに、良い匂いがした店だった。
「お前が決めるのなら、そこでいい。」
2人で入って、2人で食べた。店の女将が愛想よく話しかけてきた。冗談めかして夫婦かと尋ねられた。
ユギは答えに詰まった。間違っても、女の格好はしていない。
セトが先に答える。
「旅の連れだ。」
女将は笑って、それじゃあ仲良しね、と言って去った。
ユギはセトを見た。セトは料理を見ていた。
旅の連れ。
嘘ではない。正確でもないが、嘘でもない。今この瞬間、自分たちはそういうものだった。どこかへ向かっているわけではなく、どこかから来たわけでもなく、ただここにいる2人。
それが、今だけ許されていた。
5日目の夜、セトが名を呼んだ。
「ユギ。」
それだけだった。何かを続けるわけでもなく、ただ呼んだ。
「何だ?」
セトは答えなかった。ただ、ユギを引き寄せた。
ユギは抵抗しなかった。セトの肩に頭を預けて、暖炉の火を見た。小さくなっていく火を、黙って見ていた。
これが、幸福なのだろう、とユギは思った。
この感情に、その名前をつけていいのかどうか迷って、しかし他に言葉がなかった。幸福だった。ただそれだけだった。理由を並べる必要もなかった。温かくて、静かで、隣にこの男がいた。それだけで。
充分だと知っているから、それ以上を望まなかった。
だから今夜は、ただここにいた。
ただ、心の底から、ここにいた。
城に戻って、7日が経った。
まだ、手の中には街の感触があった。石畳の硬さ、パンの温かさ、川の音、セトの外套の重さ。目を閉じると戻れる気がした。戻れないと分かっていても。
セトは城でも変わらなかった。夕刻に現れ、隣にいて、ユギに触れた。しかし何かが、少しずつ違っていた。
言葉にはしなかった。しかし分かった。セトの目が、時折遠くを見ていた。探している目が、何かを掴みかけているか、あるいは手の届かない場所にあると知ったか、どちらかだろう。
どちらであっても、意味は同じだった。
この男は、もうすぐ去る。
ユギは何も言わなかった。言えることがなかった。引き止める言葉を持っていなかった。引き止める権利もない。
最初から知っていた。目的が違うと、あの最初の時に告げられていたのだから。
セトの目的は、戦争の終結ではない。ならばセトの行き先は、ユギとは違う場所にある。
たった1つの些細な差が、夜明けの光の中では酷く重かった。
8日目の朝、扉が開いた。
朝食以外で朝にセトが来ることはなかった。だからユギは顔を上げた。
セトが立っていた。外套を着ていた。旅装だった。
ユギは、すぐに理解した。
何も聞かなかった。聞く必要がなかった。セトの顔を見た瞬間に、全て分かった。目的が、この地では果たせないのだと。
だからセトは去る。それだけのことだった。理由は告げられない。告げられないのではなく、告げる言葉を、この男は持っていないのかもしれない。
セトはユギの前まで来た。
いつもより近かった。あるいはいつもと同じ距離だったかもしれない。ただ今日は、その距離が、いつもと違う重さを持っていた。
ユギはセトを見た。
セトもユギを見た。
あの目だった。戦場で初めて見た目。何かをただ見ている目。しかし今は、揺れていた。僅かに、しかし確かに。ユギは初めて、セトの目が揺れるのを見た。
セトが口を開いた。
「ユギ。闘いに戻る時間だ。」
──ヘンリー・ユギ・チューダー。
声には出さなかったが、その言葉がそこにあった。確かにあった。捕えられた夜から一度も呼ばれなかった名前が、この朝だけ、空気の中にあった。
ユギは、何か言おうとした。
言葉が、なかった。
なぜ捕えたのかと聞こうとした。何故、こんな風に扱ったのかと。何故、街に連れ出したのかと。何故、名前で呼んだのかと。何故──。
何故、と聞いたとして。
答えが返ってきたとして。
それで、何かが変わるのか。
変わらない。行き先は、最初から違った。
セトはどこかへ行き、ユギはここで戦い続ける。
王になるまで、この地を離れない。それはユギが選んだことだった。誰かに与えられた役割ではなく、ユギ自身が選んだ目的だった。
だから引き止めない。それは、目的のために生きているこの男の、その在り方を否定することだ。それだけはしたくなかった。
セトがもう一度、口を開いた。
「お前の未来に光があるよう。」
ユギは喉が、動かなかった。
光があるよう、と祈られた。その未来に、この男はいない。それをセト自身も知りながら口にするのだ。
セトの手が、一度だけユギの頬に触れた。
街の夜と同じ触れ方だった。確かめるような、しかし今度は確かめた後に離れると分かっている触れ方だった。
離れた。
セトが踵を返した。
ユギは、その背中を見た。
セト、とその名を呼ぼうとした。しかし声にならなかった。声にしたら、何かが崩れる気がした。
何かを見詰めて遠ざかっていく背中。その時間を、姿を、崩したくなかった。
カツン、とユギの足元で1つだけ音が鳴った。踏み出した足の先で、既に扉は閉まっていた。
鍵の音はしなかった。
ユギはしばらく、扉を見詰めていた。
なぜ捕えられたのか、分からなかった。なぜ解放されたのかも、分からなかった。セトの目的が何だったのか、最後まで知らなかった。
それでも、分かっていることがあった。
あの街の朝は、本物だった。石畳も、パンの温かさも、川の音も。セトの手の重さも、触れた唇も、名前を呼ばれたことも。幸福だと思ったあの夜も。
全部、本物の──だった。
誰も奪えない。
たとえセトがどこへ行っても、何を探していても、ユギの知らない目的のために生きていても、あの時間は、確かにあった。
ユギはセトが持って来た剣を取った。
鎧を着けた。
扉を開けると、城の廊下に光が差していた。朝の光だった。街の光より硬い、戦の匂いのする光だった。
教えられた抜け道は頭に入っている。ユギは歩き出した。
闘いに戻る時間だった。
どこか似ていたあの男の背中を、胸の中に置いたまま。
ユギは王になった。
長い戦いだった。セトが去った後も、白薔薇との戦は続いた。
セトという異質な重さを失った白薔薇は、しかしそれでも強かった。ユギは戦い、負け、立ち直り、また戦った。ジョーノが隣にいた。仲間がいた。それでも夜明け前の1人の時間に、ユギはいつも同じ場所へ戻った。
石畳の街。川の音。パンの匂い。
もう少しだけ、とユギは思った。
もう少しだけ戦えば、終わる。もう少しだけ耐えれば、夜明けが来る。その「もう少し」を、ユギはセトの言葉のように胸に置いた。
セトが言ったわけではなかった。しかしあの男ならそう言うと、何故か思った。目的のために生きているあの男なら、もう少しだけ、と言って歩き続けるはずだと。
だから歩いた。
悲哀や喪失感のようなものはあった。忘れたわけではなかった。目を逸らしてもいない。
ただ、1人で朝の陽の中に居ると、あの別れさえも美しく思えた。
美しく思えるから、悲しみが遠くなった。
遠くなった分だけ、前へ進めた。
人はきっとそうやって強くなるのだと、信じることにした。忘れるのではなく、美しいまま、胸の奥へしまって持っていく。
季節が変わっていく。じきに冬が来るだろう。
戦の煙でも、白薔薇の白でもない。ただの雪が、世界を静かに染めるだろう。その前に、もう少しだけ進むのだ。
そうして、ユギは、王になった。
即位から数ヶ月が経った頃。
ユギは視察に出た。王としての視察だった。民の暮らしを見て、街の様子を確かめる。当然の務めだった。
随行の者たちを連れて、いくつかの街を回った。
その街に着いたのは、昼過ぎだった。
何でもない街だった。大きくもなく、小さくもない。石造りの家が並び、川が流れて、市場がある。
随行の者たちが先に立ち、ユギが馬から降りた。
石畳に、足が触れた、その瞬間だった。
何故か、思いのほか、動けなかった。
覚悟していなかった訳ではない。視察の街の1つとして、頭の中に、地図としては持っていた。
あの街だと、分かっていたから。
だが、その上で来た。来られると思っていた。王として、務めとして、それだけのこととして。
ユギは、詰めていた息を吐いた。何も、変わっていなかったから。
変わらなかった。石畳が、同じだった。
当然のことだ、石は変わらない。
しかしこの硬さが、あの朝の硬さと同じだったのだ。
足の裏から、奔流のように全部が戻ってきた。
パンを買った。並んで歩いた。子供が走ってきてユギの脚にぶつかった。川の音を聞いた。
お前は何を探しているのかと聞いた。答えは返って来なかった。
旅の連れだ、とセトは言った。女将が笑った。
暖炉の火が小さくなっていった。それから、それから──。
全てが、流れ込む。
「陛下。」
随行の者が声をかけてきて、顔を上げた。
「何でもない。続けよう。」
ユギは一歩、踏み出した。王として、真っ直ぐに。
しかし、足裏には石畳を打つ感触が響き、目は街を見てしまっていた。
市場の前を通った。
香辛料の店があったが、セトが立ち止まった店かどうかは、もう分からない。
だが、似たような店が確かにそこにあった。それだけで、胸の中で何かが動いた。
川沿いに出た。
水の音がした。同じ音だった。季節が違っても、川は同じ音で流れていた。ユギは、しばらく川を見詰めた。随行の者たちは、少し離れて待たせた。
待っているのだ、と素直に理解した。
言葉にならない感覚だった。こんなにも、待ち侘びているとは思っていなかった。
セトが戻ると思っていたわけではない。
どこにいるかも知らない。生きているかも知らない。何かを探し当てたかも、まだ探しているのかも。
知らないのに、全部、知っている。
この街を、ユギは、待っていた。
この街が、丸ごと大切な季節だった。
何者でもなかった数日が、石畳と、葡萄酒と、暖炉の火と、セトの体温が、王になる前の、ユギがただユギだった時間が、丸ごと。
ユギは空を見上げ、目を細めた。全身で感じていた。もう、そこかしこに、溢れていたから。
──居た。
街の全部に、セトが居た。
いないのに、居たのだ。
ユギは川に視線を戻し、それから、少しの間だけ目を閉じた。
「お前の未来に光があるよう」、とセトは言っていた。
光はあった。光の中で王になった。
戦争を終わらせた。そして今、民が普通の朝を生きている。パン屋の少年が走っている。女将が笑っている。それらは、確かにユギの選んだ未来だった。
セトの祈りが、届いたのかもしれなかった。祈りが光なら、光は──。
そこまで考え、小さく息を吐く。目を開けると澄んだ秋の空。
川が流れていた。空が高かった。もうすぐ冬が来る。
つい、「もう少し」だけ、と思った。
もう少しだけここにいたかった。
しかし王には務めがある。随行の者たちが待っている。民が、街が、この国が、ユギを待っている。
それがユギの選んだ行き先だった。
セトの行き先とは、違う。
最初から違った。それでも交わった時間があって、交わったことは本物で、本物だったから今でもここに溢れている。
ユギは踵を返した。
そしてまた一歩目を踏み出す。王として、真っ直ぐに。
どこか似ていたあの男への想いを、大切な季節の光の中に、そっと置いたまま。
