始まりの始まり

それはアテムの我儘だった


石の回廊に硬質な音。
しかし、瀬人の靴底が床を打っている筈なのに、響きは長く残らない。吸収されているのか、あるいはこの世界そのものが、音という現象を必要としていないのか。
どちらでもいい、そう思った。
ここは現世ではない。
物理法則がどれほど適用されるかなど、本質的な問題ではなかった。
重要なのは、ただ1つ。
存在するかどうかだ。
視線を上げると、回廊の先で、巨大な扉は既に開いていた。
まるで、到達することを前提としていたかのようだった。
瀬人は歩みを止めない。躊躇も、警戒もない。いつものように、自分の道を進み、王の間へ踏み込むだけ。
目当ての人物は、居た。
玉座に、金の装飾を纏った男。微笑んだきり、言葉は特にない。
だが、分かる。
その沈黙の輪郭を、海馬瀬人は知っている。
アテムは、ゆっくりと瞬きを1つ。眼差しは変わっていない。
瀬人は、互いに距離を測るように数歩手前で立ち止まった。
先に口を開いたのは、瀬人だった。
「遊戯から聞いた。お前が現れた…とな。」
声は平坦だった。
アテムの瞳が、僅かに揺れたように見えた。
「……そうか。」
短い応答。
それ以上の説明はなかった。
「だが、その時、俺は居なかった。」
責める響きはなかった。
ただの事実、アテムは否定しない。
「そうだ。」
沈黙が落ちる。
瀬人はアテムを見据えた。記録の中の像ではなく、そこに立っている。
「だから。今度は、俺が来た。」
アテムの視線が揺れ、目が細められる。
それが何を意味するのか、瀬人は解釈しない。ここに来た理由はただ1つ。
瀬人は腕を組んだ。
「始めるぞ。」
アテムの口元が、微かに動いた。
笑みではない。だが、否定でもない。
「──ああ。」
低く、応じる。その一音だけで充分だった。
空気が変わる。
王の間が、王の間として機能を取り戻す。
ここは、死者の世界ではなく、決着のための場所になる。
コートの裾が、存在しない風に揺れた。
アテムは一歩、前へ出る。
距離が縮まり、互いの視線が、完全に交差する。
逃げ場はどこにもない。そもそも、逃げるつもりなどない。
長い空白は、今、やっと同じ時間の上に置かれる。

光が弾けた。
白龍の咆哮が空間を引き裂き、応じるように黒の魔術師が杖を振り下ろす。衝突の瞬間、冥界の空そのものが軋んだ。
瀬人の声は鋭く、迷いがない。
アテムの声が重なる。
光と闇が噛み合い、相殺し、爆ぜる。
余波が石床を抉り、砂塵を巻き上げるようだった。
互いに一歩も退かない。
いや、退くという選択肢が最初から存在していない。
ライフポイントは既に残り僅か。
「まだだ!」
瀬人はカードを叩き付け、アテムも応じる。
実力は伯仲、攻防は止まらない。
そのまま三連戦。
そして、沈黙が落ちた。
アテムは、僅かに俯いた。呼吸が、乱れている。
冥界の王であっても、決闘の消耗からは逃れられない。
だが、瀬人は涼しい顔をして、再度デュエルディスクを構えた。
アテムは顔を上げた。呆れと、僅かな笑みが混ざった表情。
「…待て。少し、話さないか。」
瀬人の動きが止まり、予想外の提案に眉を顰める。
「話すことなどない。」
即答に、アテムは肩を竦めた。
「そう言うなよ。…休憩だ。」
瀬人は数秒、沈黙した。
「…いいだろう。」
アテムの目が、僅かに細められる。
「ただし、休憩後、もう一戦だ。」
瀬人の言葉に、アテムは一瞬、言葉を失った。そして、深く息を吐いた。呆れを隠さない。
「…お前は、本当に、それしかないんだな。」
瀬人は答えない。小さく息を吐いただけだ。
アテムは小さく笑った。
「変わらないな、海馬。」
その言葉に、瀬人は初めて、僅かに目を細めた。
「当然だ。」
アテムは玉座の階段に腰を下ろした。
瀬人は立ったままだ。
「座らないのか。」
「必要ない。」
即答。
アテムは窓から空を見上げた。変わることのない、冥界の空。
静寂が落ちる。
戦闘の熱だけが、まだ、2人の間に残っていた。

沈黙は、長く続かなかった。
「話は何だ。」
瀬人は立ったままだ。
腕を組み、視線は既にアテムではなく、決闘の空間が再び展開されるであろう位置を見据えている。
アテムは、その露骨な態度に、苦笑した。
早く終わらせたいのだ。そして、次を始めたい。
アテムは数秒、考えた。
話したいことなど、本当はなかった。言葉が必要だったわけではない。
ただ、戦いの外で、同じ時間を共有していることを、少しだけ、確かめてみたかっただけ。
アテムは視線を上げた。
「……先日。」
瀬人の目が、僅かに動く。
「現世で、世界が闇に飲まれかけた。そして、お前は、闘った。」
アテムは続けた。
「最初から。」
あの時の光景が、アテムの脳裏に蘇る。
崩壊する世界、歪む次元。
それでも、最初から最後まで、抗い続けていた男。
アテムは、静かに言った。
「礼を言う。」
瀬人の眉が、僅かに顰められた。
「……礼?」
予想していなかった言葉だった。
「ああ。世界は守られた。」
瀬人は、一瞬、無言になった。
そして、短く、吐き捨てるように言った。
「勘違いするな。貴様のためではない。」
アテムは、僅かに目を細めた。
瀬人は続ける。
「世界が消えれば、決着を付ける場所も消える。俺の前で勝手は許さん。」
当然の理屈のように言うのだ。
アテムの口元に、微かな笑みが浮かんだ。
「…そうか。」
否定はしない。
「話はそれだけか。」
アテムは、頷いた。
「ああ。」
「ならば…続けるぞ。」
アテムは、一瞬、目を閉じて、小さく笑った。
──やはり、この男は。
呆れと、そして、僅かな安堵が、胸の奥に混ざる。
アテムは立ち上がった。
「ああ。望むところだ。」
空気が変わる。
休戦は終わった。
再び、決闘者に戻る時間だ。



光が、消えた。
最後の衝突の残滓が、冥界の空気に溶けていく。
勝敗は、決していた。
瀬人の場に残る白龍。
アテムの場には、もう何もない。
静寂。
長い、静寂だった。
アテムは、息を整える。
胸の奥が熱い。
疲労だった。冥界に在っても、決闘は魂を削る。
瀬人は動かない。
勝利の余韻に浸ることもなく、ただ、アテムを見ている。
「……こう、なのるか。」
確認のように言う。
アテムは、小さく頷いた。
「そうだな。」
結果は、受け入れられている。
瀬人は腕を組んだまま一度視線を逸らし、戻した。
「先ほどの話だが…1つ、答えろ。」
アテムの眉が、微かに動く。
命令に近い声音だったが、アテムは黙って聞いた。
「礼なら、何故、あの場で言わなかった。」
瀬人の目が、真っ直ぐにアテムを射抜く。
静かな問いだが、逃げ場はなかった。
「何故、何も言わずに消えた。礼を言うつもりがあったのなら。その時に言えばよかった筈だ。」
一歩、瀬人が近付く。
アテムは、言葉を失った。
あの時、現世に立っていた。
遊戯がいて、瀬人はいなかった。
だが、待てば良かった。
──言えなかったのではない。
──言わなかったのだ。
答えられない。
しかし、瀬人は待っている。逃げも、誤魔化しも、許さない沈黙。
アテムは視線を逸らした。
珍しいことだった。決闘の最中ですら、逸らさなかった視線を。
言葉が、見付からなかった。
何故、言わなかったのか。
その答えは、ある。
あるが、それを口にしていいのか。逡巡が生まれる。
「答えられないのか。」
責める響きはない。
アテムは、僅かに、首を振った。
「…違う。」
声が、僅かに、低くなる。
答えはある。
言うべきか、言わないべきか。
瀬人は合理で動き、非合理を理解しない。
だが、それでも、いや、だからこそ。
アテムは、息を吸った。まだ、言葉にはならない。喉元で、止まっている。
視線が、瀬人へと戻る。
その赤い瞳の奥には、迷いが存在していた。
冥界の王の顔ではない。答えを隠した、ただ1人の男の顔だった。

暫しの思案の後、アテムは口を開いた。
合理ではない。証明もできない。だが、偽りでもない。何より、言わなければ解放してもらえないのは確かだ。
「……お前なら、来ると思ったからだ。」
瀬人の目が、細まる。
「また、こうして会えると思った。」
それだけを言った。
瀬人は、数秒、アテムを見ていた。
「それだけか?」
納得したのか、或いは、評価する必要すらないと判断したのか。どちらとも取れる声だった。
そして、瀬人は背を向けた。長いコートの裾が、静かに翻る。
迷いのない足取りで、王の間の出口へ向かう。
アテムは、その背中を見た。
止められない。その理由がない。
決闘は終わった。決着は付いた。目的は、果たされている。
だが、アテムの足は自然に動いた。瀬人の後を追う。
一定の距離を保ったまま、静かに。
回廊へ出ると、王宮の衛兵たちが即座に気付いた。
「王!」
敬礼と共に、1人が前へ出る。
「お供いたします。」
当然の申し出だった。
冥界の王が、王宮の外へ出る。ならば、護衛は必須だ。
「いや、不要だ。」
衛兵が顔を上げる。
アテムは、視線だけで制した。それ以上付いてくるな、と。
衛兵は動きを止めた。
「……は。」
それ以上は何も言わない。
アテムが前を向くと、瀬人の背中が、回廊の先にある。
遠くはないが、近くもない。追えば間に合う。アテムは、その背を追った。
王としてではない。ただ、1人の決闘者として。
瀬人は、振り返らない。
アテムが付いてきていることに、気付いているのか、いないのか。
どちらでもいいと、思っているのか。
やがて、王宮の外へ続く門が見えてくる。外の空気が、流れ込んでいた。
瀬人の歩みは、止まらない。追うアテムも、止まらない。
その距離だけが、変わらず、2人の間に在り続けていた。



王宮の外れ。
冥界の空は、相変わらず深く、底がない。
その境界に、瀬人は立っていた。足元には、異質な装置がある。
冥界に似つかわしくない、現世の理論で構築された機構。
淡い光が、低く脈打っている。
アテムは、数歩後ろで止まった。
「…また、来るか?」
瀬人の手が、一瞬だけ止まるが、振り返りはしない。
数秒の沈黙の後、
「お前の思い通りになると思うな。」
そう冷たく、言い放つ。
拒絶にも、否定にも聞こえる言葉。
だが、アテムは、仄かに笑った。
「…俺は、また来ると信じている。」
静かに呟く。
瀬人の肩が、ほんの僅かに動いた。
だが、迷いなく装置の電源系統へ手を伸ばす。
配線を確かめ、接続を調整する。
「お前が現世に来い。」
作業を続けたまま、簡単なことのように言う。
アテムは、答えなかった。出来ないと、知っているからだ。
あの時は、例外だった。
奇跡に近い、一度きりの干渉。
意志だけで、越えられる境界ではない。
だが、それは瀬人も同じだ。
この装置が、本当に現世へ帰還させる保証は、どこにもない。
ここへ来ることは出来た。だが、帰れるかどうかは、まだ、証明されていない。
それでも、瀬人の手は止まらない。
アテムは、その背中を見つめて、小さく、呟いた。
「…もう少し、居てもいいんだぜ?」
風に紛れるほどの声。
引き止めるには、あまりにも弱い言葉。
瀬人の手は、止まらなかった。
「用は済んだ。」
即答だった。
装置の光が強まるり、起動準備が、整っていく。
瀬人は、一度だけ空を見た。
冥界の空。果てのない闇。
そして、再び前を向く。
アテムも、それ以上は何も言わなかった。
ただ、見送る者としてそこに立っている。
光が、境界を開こうとしていた。





冥界の空気は、変わらない。
時間の流れが曖昧なこの場所において、「数週間」という単位が、どれほどの意味を持つのかは分からなかった。
だが、瀬人にとっては、確かに数週間だった。
転移の光が消える。
足元に広がる石床、王宮の外縁。
問題なく再現出来た。瀬人は周囲を見渡す。
前回と同じ座標。そこに誤差はない。
その時、複数の気配が動いた。
衛兵だった。だが、武器は構えない。警戒の色はなく、むしろ、確認の色だった。
「…来訪者。」
1人が呟く。
そして、瀬人を見て、小さく頭を垂れた。
「お待ちしておりました。」
瀬人の眉が、僅かに動く。
──待っていた?
衛兵は続ける。
「王より、部屋を用意するよう仰せつかっております。」
瀬人は、視線だけで、先を促した。
案内されたのは、王宮の内部。
前回は通らなかった回廊。そして、1つの扉の前で止まる。
「こちらです。」
扉が開かれる。
内部はきちんと整えられていた。
簡素だが、明らかに「誰かが使うための部屋」だった。
瀬人は、無言で室内を見た。既に、存在を前提として用意されている。
「貴様らの王はどこだ。」
短く問う。
「謁見の間に。」

謁見の間。
玉座の前。
そこにアテムは、立っていた。
瀬人が入ると、アテムの表情が、僅かに動いた。
ほんの一瞬。だが、確かに緩んだ。しかし、それはすぐに消えて、王の顔に戻る。
「海馬。来たんだな。」
いつもの声。
瀬人は、数歩分、距離を詰めた。
「俺の部屋が用意されていた。…何故だ。」
少しだけ黙って、アテムは口を開いた。
「…言った筈だ。また来ると、信じていると。」
静かに、それだけ。
だが、瀬人は、それだけではないと知っていた。
瀬人は、アテムを見た。
先ほどの、あの一瞬の表情が全てだ。王ではない、ただの1人の男の顔。
「……そうか。」
それだけだった。
アテムは、そっと視線を逸らした。
誤魔化している。自分でも、分かっている。だが、それ以上、言葉は続かない。
沈黙が落ちる。
それは、前回とは違う沈黙だった。




白龍の光が、夜の帳に呑まれて消えた。
決闘盤の残光が、ゆっくりと石床から消えていく。
気付けば、王宮の外は、暗くなっていた。
冥界に明確な昼夜があるのかは分からない。
だが、少なくとも今は、光が退いている時間だった。
「…続けるぞ。」
瀬人は当然のように言う。
だが、「待て。」
またもアテムが制した。
瀬人の眉が顰められる。
「今日はもう遅い。泊まっていけよ。」
間を置かず、瀬人は答える。
「必要ない。」
「ある。」
即答だった。
瀬人が目を細めるが、アテムは続ける。
「決着は、万全の状態で付けるべきだ。」
決闘者としての理屈だった。
瀬人は沈黙する。
数秒。
「…いいだろう。」
その答えに、アテムの目が、僅かに光る。
「ただし、明日の朝、一戦だ。」
条件付き。あくまで目的はそこにある。
アテムは、息を吐いた。呆れと、そして、どこか諦めたような笑み。
「…ああ。望むところだ。」
──やはり、この男は。最後まで、これなのだ。

夜。
瀬人の部屋。
冥界で用意された空間。
瀬人は、装置の調整をしていた。帰還経路の安定化。座標の再計算。再現性の確認。
その時、扉が控えめに叩かれた。顔を上げる。
「アテムか、入れ。」
扉が開く。
やはりアテムだった。
瀬人は何も言わない。アテムも何も言わない。
ただ、そこに立っていて、用件を告げる様子はない。
切りの良い所で作業の手を止め、アテムを見た。
「…まさかとは思うが……。」
アテムの肩がぴくりと強張る。
瀬人は続ける。
「用もないのに来たのだろう。」
核心だった。アテムは、理解した。
──気付かれているのだ、と。
数秒、沈黙して、諦めたように小さく笑った。
「お前には誤魔化せないな。……ここは、少し静か過ぎて……寂しかったんだ…。」
冗談のように軽く、強がりのように。そして付け加える。
「お前なら、きっとここに来るだろうと思ったし…。」
しかし、それらは、隠していた全ての、正直な答えだった。
瀬人は、黙って聞いていた。表情は変わらない。
「……お前の事情のために俺を巻き込むな。」
冷たい言葉。拒絶の形。だが、怒りはなかった。
アテムは、笑みを崩さない。
「ああ。気を付ける。」
素直に頷くが、守る気のない約束だった。
暫し、沈黙の時間を共有した。
アテムは、扉の方へ向かう。
「…邪魔をしたな。」
手を掛ける。
開く前に一瞬だけ止まった。
そして振り返らないまま、「明日だ。」とだけ言った。
「ああ。」
瀬人が短く答えると、扉が閉まる。
瀬人は、再び装置へ視線を落とした。だが、しばらく手は動かなかった。
冥界の夜は、静かだった。



空は、昨日と同じ色をしていた。
変わらない筈の世界で、それでも、何かが違っていた。
瀬人は装置の前に立つ。
帰還のための準備は、既に整っている。
アテムは、少し後ろに立っていた。
前回と同じ距離で、それ以上は近付かない。
約束の決闘はした。もう、ここに留まる理由はない。
それでも、アテムは、口を開いた。
「…また、来るか?」
以前と同じ問いだった。
だが、その意味は、もう、同じではない。
瀬人の手が、装置の最終確認を終える。振り返らないまま、答えた。
「信じたいものを信じればいい。」
アテムの目が、ほんの少し見開かれる。そして、隠し切れないほどに明るくなる。
「…そうか。次は、宴の用意でもしておく。」
「不要だ。」
呆れたような、溜息混じりの声。
装置の光が強まり、境界が開き始める。
瀬人は、一度だけ視線を上げた。
冥界の空を見て、前を向く。光がその姿を呑み込み、消える。場に静寂が戻った。
アテムはその場所に立ったまま、しばらく動かなかった。
何も言わず、追うこともなく、そこに立っている。
やがて、小さく息を吐いた。
冥界の空は、変わらず、静かだった。
だが、2人の間には、確かに、何かが残っていた。
言葉にする必要のない、何か。
次に、繋がる、何か。
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