血は、思ったよりも静かに流れていた。
ヘンリー・ユギ・チューダーは、倒れた石柱に背を預け、自らの脇腹を押さえていた。
指の隙間から、温かいものがじわじわと滲み出てくる。
致命傷ではないが。
「…浅い、か。」
自分に言い聞かせるように呟く。
傷は浅い。剣は滑っただけで、深く入ってはいない筈だ。
しかし、妙だった。傷の周囲が熱い。
止血のために巻いた布は、既に重く湿っている。
それとは別に違和感があった。皮膚の奥で、何かが広がっていくような、妙な予感。
その時だった。
気配を感じ、ユギは顔を上げた。
木々の影の中から何かが現れる。甲冑の重い足音はしない。
だが、そこに居るだけで異質な存在だと分かる。
月光の下に現れたのは、龍。
そう見えた。いや、龍の甲冑だ。
肩から背にかけて流れる白い龍の意匠。
一目で敵だと分かる。しかも、ただの敵ではない。
ユギの喉が、無意識に動いた。
「ローゼ──」
「言うな。」
声は低く、鋭い。言葉は断ち切られた。
男がゆっくりと歩み寄る。だが、その足取りに迷いはない。
そして、ユギを見下ろした。前髪の奥の瞳は、よく見えない。
「貴様は、俺を知らない。」
静かな声。
「そして俺は、貴様が誰であるかを問わない。」
奇妙な言葉だった。戦場で、名を問わぬ者など居ない。
しかし、本当に興味がないようだった。
ただ、生きているのか、死ぬのか。それだけを見ている。
男の手が動いた。小さな瓶が差し出される。透明なガラス、中に淡い液体。
「…何だ?」
ユギが問う。
「ここで死ぬか……飲むか、選べ。」
さらりと流れる言葉に、ユギは、瓶を見た。怪しい。あまりにも怪しい。敵が理由もなく薬の類を渡すなど、あり得ないのだ。
「……毒か?」
問いは、半ば冗談だった。
「毒か。…その傷が白薔薇にやられたものなら、じきに毒が回る。」
ユギの指先が、微かに止まる。男は続けた。
「それは解毒剤だ。」
何の感情も見えない。淡々と、事実を述べるだけのよう。
「信じるかどうかは、貴様の好きにしろ。」
そう付け加えたきり、男は動かない。ただ、そこに居て、見ている。
ユギは、瓶を受け取った。冷たいガラスの感触。
これを飲めば、生きるかもしれないし、毒かもしれない。
どちらにせよ、このままでは長くはないだろう。斬り捨てることも可能なのだ。
ユギは、男を見上げた。
「…何故。敵に、こんなことを…。」
沈黙。
しばらくして、男は言った。
「敵かどうかは…貴様が決めろ。」
それは、答えではなかった。
ユギは、瓶を見た。そして、栓を抜き、液体を口に含む。苦い、だが、飲み込んだ。
その瞬間、男の肩が、ほんの僅かに下がった気がした。
気のせいかもしれない。ユギは、息を吐いた。
「…もしそれが毒だったなら…その時は、俺が看取ってやる。」
月の下。龍の甲冑は、微動だにしなかった。
その夜。
赤薔薇の王子は、初めて、自分を殺さなかった白薔薇と出会った。
熱が引いていく。代わりに、深い水の底へ引き込まれるような感覚が訪れた。
ユギは一度、男を見た。
龍の甲冑。月光。動かない影。その姿を最後に、視界が暗く沈んだ。
目を覚ました時、最初に感じたのは温かさと柔らかさだった。
石ではなく土でもない。背にあるのは、きちんとした寝台の感触、見上げれば天井。見知らぬ模様。
ユギの意識が、一気に浮上する。
「……っ。」
身体を起こそうとして、脇腹の違和感に気付く。
痛みは殆どないが、鈍い重さがあった。
傷口には、きちんと包帯が巻かれていて、血は止まっているようだった。
ユギは周囲を見回した。狭い部屋、石壁、窓は小さくて高く、外から差し込む光は少ない。
最後に目にしたのは、壁に掛けられた紋章だった。
白薔薇。
ユギの喉が、微かに鳴る。
「…白薔薇の、砦…?」
捕らえられたのだ、そう理解するのに時間はかからなかった。
あの男だ。
解毒剤を渡し、眠らせ、ここへ運んだ。
騙された。いや、敵なのだから、当然だ。
生かしたのは、尋問のためか、あるいは、見せしめか。
ユギは自分の指先を見た。動くが、微かに痺れている気がする。完全には戻っていないのだろう。
その時、扉が開いた。音は静かだったが、反射的に顔を向けた。
入ってきたのは、あの男だった。龍の甲冑はないが、あの男だと分かる。
クリスチャン・セト・ローゼンクロイツ。名乗らない男。
長身。無駄のない動き。そして、冷たい青い瞳。セトは、ユギの様子を一瞥した。
「目が覚めたか。」
それだけ。やはりそこに感情は見えない。ユギは、セトを睨んだ。
「…捕虜にするためか。」
「いや。」
即答だった。
「なら……」
「解毒剤は」
セトが言葉を被せた。
「正真正銘の解毒剤。眠ったのは鎮痛の副作用だ。」
ユギは、自分の手を見た。
「…まだ、少し痺れている…。」
「当然だ。毒は完全に回る前だった。回復には時間がかかる。」
その口調は、医師のようだった。だが、医師ではなく、敵の将。
ユギはセトを見た。
「何故、生かした。」
敵を救う理由など、ない。
「落ち着け。殺さない。拷問にもかけることもない。」
静かな声だが、淡々としていて、優しさも、安心させる意図も感じられない。
ユギは眉を寄せた。
「…なら、何故ここに連れてきたんだ。」
セトは、少しだけ沈黙した。
「まだ、決めていない。」
その言葉は、刃よりも冷たかった。
利用するためではない。ただ、決めていない。
セトは、踵を返した。
ユギは、思わず呼んだ。
「…お前は、何を、考えているんだ?」
セトは止まるが、振り返りはしない。
長い沈黙の後、セトは口を開いた。
「貴様には、関係のないことだ。」
扉が閉まる。
音が静かに響く。ユギは、1人になった。白薔薇の砦の中で。
敵に救われ、敵に生かされ、敵に、まだ決められていないまま。
噂は、扉の外からやって来た。
直接誰かに告げられたわけではない。
だが、この砦の石壁は薄い。廊下を行き交う兵の声は、意図せず零れ落ちる。
「…本当らしい。」
「例の“お気に入り”だ。」
「ローゼンクロイツ卿が囲っている。」
お気に入り。
その言葉が、引っかかった。誰のことかなど、考えるまでもない。
この部屋に閉じ込められている者など、他にはいない。
ユギは自分の腕を見た。包帯は薄くなり、傷口は閉じ始めている。
まだ完全ではないし、動かせば痛みはある。
だが、指先の痺れは殆ど消えていた。
今なら逃げられる。その考えは、自然に浮かんだ。
ユギは夜を待った。足音が遠のく、見回りの交代の隙。
窓は高いが、不可能ではない。
ユギは包帯を締め直し、歯を食いしばって窓枠に手をかけ、身体を引き上げる。
脇腹が軋むが、止まれない。
やっと、外気が触れた。久しぶりの外の匂い。砦の外壁を慎重に降り、地面に立つと、ユギは、振り返らず、走った。
だが。
「どこへ行く。」
門の手前で、背後から声がした。ユギの体が止まる。
振り返るまでもない聞き慣れた声。
龍の甲冑ではない。だが、夜の中でも、その存在は変わらない。
「…追う理由があるのか。」
セトは答えた。
「なくはない。」
距離が消え、セトの手が、ユギの腕を掴む。乱暴ではないが、力は強い。
振り払おうとするが、完全ではない体では無駄だった。
「外は…ある男を白薔薇が血眼になって探している。生死は問われていない。」
ユギの呼吸が止まる。
「その男…某国の王子は、既に死んだことになっているがな。」
あの時、自分は死ぬ筈だった。今、逃げることは不可能だ。
セトは、ユギを連れ戻した。
抱えることもなく、引きずることもなく、共に歩かせた。
部屋に戻されて、扉が閉まる。ユギは、セトを睨んだ。
「…何故だ。」
何故、生かした。
何故、守る。
何故、閉じ込める。
「守っているわけではない。」
ユギの胸が、微かに揺れる。
「貴様を生かしたのは…気まぐれだ。」
落ちる言葉は、あまりにも空虚だった。
「俺の目的は、戦でも、国でもない。」
セトの瞳は、どこか遠くを見ていた。
ユギは、セトの中に、空白を見た。
「探しているものがある。それが見つかれば、去る。」
セトは、淡々と続けた。
「見つからなければ、別の場所へ行くだけだ。」
この砦も、この戦争も、この国も、全てが通過点。
セトは、どこにも居ない。どこにも属していない。
そして、今の自分も同じだ。その気まぐれの中に、置かれているだけなのだから。
セトは、扉に手をかけた。振り返らない。
「次は、命はないだろう。」
扉が閉まり、独り、残された。
もう分かっていた。自分は、捕虜ではなく、守られている。理由も、意味もなく。
ただ、セトの、気まぐれによって。
傷は、殆ど癒えていた。
包帯は既に外され、残るのは薄い痕と、時折思い出したように疼く違和感だけだった。
窓から見えるのは、白薔薇の砦の内側だけ。
空は、同じなのに、遠くまで行けない。赤薔薇、自分の居るべき場所へ戻らなければならない。
方法は常に考えていた。
夜の見張りの数、門の構造や外壁の高さ。
逃げること自体は、おそらく出来る。だが、逃げた先に、戻る方法があるのか。それを考えると、足が止まった。
戦況は、セトに尋ねれば教えてくれた。隠しもしなかった。
「大きな動きはない。小競り合いが続いているだけだ。」
ある時、セトはそう言った。
勝ちもせず、負けもせず、ただ、消耗だけが続く戦争。
ユギは、それを聞く度に、胸の奥が締め付けられた。
自分が居ない場所で、戦いは続いている。
自分は何をしているのだろう。ただ、ここで守られているだけで。
ある日。
セトが言った。
「見つかりそうだ。」
それだけで、何のことか分かった。
ユギは、無意識に息を止めた。
「…そうか。」
声は思ったよりも平静だった。
「見つかったら…俺を…どうするつもりだ?」
セトは、僅かに目を細めた。
「好きにすればいい。」
あまりにも簡単に言ってのけられた言葉に、ユギは言葉を失った。
その言葉は、あまりにも自由だった。だが、そんなものは、ない。
ユギは知っている。自分は、赤薔薇の王子であり、戻らなければならないのだ。
戻って、戦わなければならない。そこに、個人の意思など、存在しない。
それなのに、何故か、胸の奥で何かが、静かに揺れた。
セトは、それ以上何も言わなかった。
その言葉は、あまりにも自然に落ちてきた。
「…戻りたいか?」
ユギは、一瞬、意味を理解出来なかった。
言葉通りに受け取ればいいのか、それとも。
「…俺は…戻らなければならない。」
セトの瞳が、わずかに揺れて、細められる。
「そうか。…望むのなら…明日の夜に戻してやる。」
空気が静かに張り詰めた。
疑う理由はいくらでもある。だが、他に手立てはない。あの晩と同じ。
ここを出て戻ることも、生きるも死ぬも、セトを通さなければ出来ない。
ユギは、ゆっくりと頷いた。
翌日の夜。
砦は静まり返っていた。
セトは、何も言わずユギを馬に乗せた。そして、自分も後ろに乗る。鎧の硬さと、生身の体温が、背中越しに伝わる。
門が開いた。白薔薇の砦を出る。夜の風が頬を打つ。
どこへ向かっているのか、ユギは聞かなかった。聞かなくても分かっていた。
やがて、馬が止まる。
最初に出会った場所だ。血と、毒と、選択の、始まりの場所。
セトが先に降り、ユギを下ろした。
距離が生まれる。夜は静かだった。セトはユギを降ろすとあっさり背を向けた。
「仕掛けるのなら…俺が去ってからにしろ。」
低い声。一歩、歩き出す。
「潰されたくなければな。」
付け加えたのは忠告、或いは、最後の保護か。
セトはこのまま去るのだ、と分かった。これで、終わりなのだと。
ユギは動けなかった。
自分の戻らなければならない場所へ戻れる。それなのに、胸の奥が痛んだ。
──このまま、名前も呼ばずに別れるのか。
それで、いいのか。
違う。
違う、と、思ってしまった。
喉が、勝手に開いた。
「ローゼ──」
呼んではならない筈の名を、呼びかけた。
その声は、夜の中で、あまりにもはっきりと響く。
その瞬間だった。
風が止まったように思えた。セトの姿が、目の前にあった。
速い、などという言葉では足りない。振り返り、一歩で間合いを詰め、その指先が、ユギの口元に触れていた。
「──」
全てを言わせず、言葉を封じるように。
冷たい指先。力は、込められていない。
しかし、もう片方の手は、剣の柄に、添えられていた。
抜ける距離、斬れる姿勢。
青い瞳が、ユギを見下ろす。
逃げ場はない。
殺せる距離。
殺される距離。
「俺は……セトだ。」
空気が、凍った。
セト。
白薔薇軍の、龍の将、ローゼンクロイツの名だ。
ユギの胸の奥で、何かが、音を立てて崩れた。
そうだ。敵なのだ。
知ってしまえば、もう、知らないふりは出来ない。
名前を知るということは、刃を向ける理由を得るということだ。
赤薔薇の王子と、白薔薇の龍。出会えば、殺し合わなければならない。
セトの指先は、まだ、唇に触れている。
剣の柄に添えられた手が動けば、全ては、終わる。
ユギは息を止めた。逃げることも、抗うことも出来ずに、ただ、その瞳を見詰めた。
指先は冷たいはずなのに、触れられているそこだけが妙に熱を持っている。
ユギは、その手を見た。剣を握る手とは違う、静かな手。そっと、その指先に触れ、ゆっくりと自分の口元から外した。
セトは止めなかった。ただ、見ている。
「…その名は…呼んでいいのか?」
ユギは、息を整えながら問う。
問いは、静かだった。しかし、刃よりも危うい確認だった。
セトの瞳が、わずかに細まる。
剣の柄に添えられている手は、まだそこにある。だが、抜かれてはいない。
「…俺が誰であるのかを、知らないのなら…問題無い。」
その言葉は、許しなのか線引きなのかは、分からなかった。
ただ、今は、呼ぶことを許されたのだと、それだけは理解した。
「……セト。」
やっと、名を呼んだ。音にした瞬間、何かが現実になった。
龍でも、将でも、敵でもない。セト、という、ひとりの名。
セトの瞳が、わずかに、揺れた。それを見て、ユギは少しだけ考えた。
「…俺は、ユギだ。」
それだけを告げた。
夜の中に、2つの名だけが残った。
セトは、しばらく何も言わなかった。ただ、見ていた。その名を、その存在を、確かめるように。
そして、ゆっくりと、剣の柄から手を離した。それは、確かに1つの選択だった。
夜は、まだ、終わっていない。
「ユギ。」
名を、呼ばれた。
その声は、低く静かで、だが、確かに自分だけを指していた。
ユギは息を止めた。ゆっくりと顔を上げると、見上げた先にセトがいる。龍の甲冑を纏ったままだが、今は、剣を握ってはいない。
セトは、しばらく無言で、何かを確かめているようだった。
やがて、唇が、わずかに動く。
「…来たいか?」
問いは、短かったが、その意味はあまりにも広かった。
どこへ、とは、言わない。砦か、戦場か、それとも、もっと、遠い場所か。
ユギは、答えなかった。代わりに、何故か胸の奥が、また痛んだ。
唇を開きかけて、閉じた。
「…行くことは、出来ない。」
ようやく、それだけを答えた。
セトの瞳が、わずかに、細まる。
「出来ない、か。」
繰り返す声に、感情は殆どない。だが、その視線は鋭かった。
言葉ではなく、その奥を見ている。ユギは視線を逸らさなかった。逸らせば、何かを認めてしまう気がした。
セトには見えていた。ユギが、どれほど多くのものに、縛られているのかが。
名を伏せ、立場を隠し、願うことさえ、自分に許していない。
雁字搦めだった。見えない鎖に、全身を絡め取られている。
そのように、生きてきたのだ。
セトは、何も言わなかった。ただ、ユギを、見ていた。鎖の中に立つ、その姿を。
セトは、まだユギに掴まれていた手を見下ろした。細い指だった。剣を握る者の指ではない。
剣よりも、別のものを持つためにあるような指だった。その手を、掴み返す。
ユギの肩がびくりと揺れる。
セトはそのまま、ユギの指先を持ち上げる。そして、ほんの一瞬、そこへ口付けた。
触れたか触れていないか分からないほど、軽いものだった。
だが、確かに口付けだった。ユギの指先が熱を持つ。心臓が大きく跳ねた。
セトは何も言わず、その手を離し、そのまま背を向けた。龍の甲冑が、月光を弾く。
一歩ずつ、遠ざかる。その背を見て、ユギは、はっとした。
まだ、言っていない。
「待ってくれ。」
声が出ていた。
セトの足が止まった。だが、振り返りはしない。
ユギは言葉を探した。戦場で拾われ、毒から救われ、匿われ、そして、戻された。
理由もない、見返りもない。それを、まだ言っていない。
「……ありがとう。」
声は、少し震えていた。それでも、セトには確かに届いた。
沈黙が落ちる。
数秒か、或いは、もっと長い時間。
振り返るったセトの顔には、僅かな笑みが浮かんでいた。
「……気まぐれだ。」
低く、そう言った。
それだけを残して、今度こそ、セトは夜の中へ去っていった。
赤薔薇の陣営へ戻った時、誰もユギを責めなかった。
責める暇など、なかったのだ。戦況は拮抗していた。失われた者の数も、疲弊も、限界に近付いていた。
ユギは、何も語らなかった。
再び剣を取り、再び戦場へ立つ。その手は、もう震えてはいなかった。
戦は長くは続かなかった。
均衡が唐突に崩れた。白薔薇の動きが鈍った。守りが遅れた。まるで、中心を失ったように。
ユギはセトが去ったのだと悟った。
理由など分からない。それでも分かった。あの男は、もうここには居ないことが。
そして、勝機は来た。赤薔薇は攻勢に転じた。押し返し、突き崩し、奪い返す。戦線は決壊した。
勝利は、赤薔薇のものとなった。
歓声が上がり、誰もが安堵した。終わったのだ、と。
ユギは、やっと剣を下ろした。
その時、ふと、視線を感じた。はっとして振り向くが、誰も居ない。
風が草を揺らすだけ。それでも、確かに感じた。見られていた。
ユギは、歩き出した。丘の上、崩れた石壁、焼け跡。無意識に、探していた。だが、どこにも居ない。
龍の甲冑も、あの瞳も、あの声も。どこにも、居ない。
分かっていた。それでも、探していた。探して、そして、やっと気付いた。
──また会いたい。
その言葉が、胸の奥で自然に形になった。
立ち止まると、風が前髪を揺らす。
あの時、触れられた場所が、まだ熱を持っている気がした。
また、会いたい。
理由はない、必要もない。
ただ、会いたい。
そう思うと、胸の奥が軋んだようだった。
鹿は、森の奥へ逃げた。
矢は外れていた。ユギは弓を下ろし、息を吐く。
冬を越えたばかりの森は静かだった。護衛は離れた位置にいる。
不意に、風が止まった。いや、風の流れが変わった。
ユギの指先が、微かに強張る。
この感覚を知っている。ユギはゆっくりと振り向いた。
居た。
木々の隙間、影の中に。
時間が、遡る。
あの夜へ。
あの指先へ。
あの名へ。
思考より先に、身体が動いていた。
一歩、また一歩と。枯葉が足元で音を立てる。
去らない。
消えない。
幻ではない。
ユギの喉が開く。
「ローゼ──」
「言うな。」
低い声が重なった。あの時と同じ。セトは、既に目の前に居た。
やはり速い、見えなかった。
そして、同じように、指先は、ユギの口元に触れていた。
だが、剣に添えられた手は、なかった。
「……。」
ユギの瞳が揺れる。
「その名は、今は、必要ない。」
指先が離れる。だが、今度は、ユギは止まらなかった。息を吸い、まっすぐに、その名を呼ぶ。
「……セト。」
声も、体も、震えていた。願っていた時間が、今、目の前にある。
セトは答えない。ただ、見ている。
あの時と違い、去ろうとはしないだけ。
ユギが、もう一歩、近付く。
「本当に…会えた。」
言葉が、うまく形にならない。
セトの瞳が、ほんの僅かに、柔らいだ。
「…会いたかったのか?」
セトの問いは、低く、静かだった。
ユギには、逃げる理由がもう無かった。
胸の奥にずっと置いていた言葉を、そのまま取り出す。
「…会いたかった。」
声は、小さかった。だが、迷いはなかった。
セトは、何も言わない。ただ、見ている。あの夜と同じように。
「…来たいか?」
あの時と同じ問い。だが、今度は、ユギはすぐに答えた。
「行きたい。」
その瞬間、風が止まった気がした。セトの瞳が、瞬く。
しかし、ユギは続けた。
「…だが、行けない。俺は、ここに居る。」
それは、鎖ではなかった。自分で選んで、立っている場所だった。
長い沈黙の後、セトが息を吐く。
「…そうか。」
その声に、失望はない。理解だけがあった。そして、踵を返す。
「俺は行く。」
その背を見た瞬間、ユギの身体が、勝手に動いた。
「待ってくれ。」
呼び止めていた。あの夜と同じように。だが、今度は違う。
「…もう少し…この国に居ないか?」
引き止める理由など持たない。
それでも、言った。セトが止まる。振り返らない。だが、去らない。
「…理由は?」
ユギは、少しだけ笑った。自分でも、驚くほど穏やかに。
「…会えたばかりだ。」
それだけだった。それが、全てだったから。
やがて、セトが、ほんの僅かに、顔を横へ向けた。
「…少しだけだ。」
それを聞いて、ユギはまた笑った。
王が消えたと気付いた者は居なかった。
正確には、気付いても、口にする者はいない。
王都は、戦後の復興と新しい秩序の整備で慌ただしい。
王が数日、公務に姿を見せない理由など、誰もが都合よく解釈した。
休養、祈り。或いは、次の政の準備。
誰も、森の外れの小さな宿に居るとは思わない。
王都から半日ほど離れた街道沿い。商人と旅人だけが通り過ぎる場所。
ユギは、外套のフードを深く被りながら、木の扉の前で一度だけ立ち止まった。
不思議なほど、躊躇はなかった。扉を押すと、軋む音がしたが、中は静かだった。
セトは窓辺に居た。背を向けて立っている。
「…来たか。」
低い声。それだけだった。
ユギは答えなかった。代わりに外套を外した。布が肩から滑り落ちる音が、小さく部屋に落ちた。
セトが振り返る。その瞳が、わずかに細まる。
それは、驚きではなく、確認だった。
ユギは、数歩近付いた。
「…ここに、居てもいいのか。」
ユギが、静かに問う。セトは、少しだけ肩を竦めた。
「好きにすればいい。」
あの時と同じ言葉。だが、意味は違っていた。
ユギは、小さく笑った。
その日から、ユギはそこに居た。
朝、2人は街へ出た。
王都とは違う小さな街。石畳は不揃いで、市場は素朴で、誰も2人を知らない。
触れないが離れもしない距離で並んで歩く。パンを買い、果物を分け、川沿いを。
ユギは、こんな時間が存在していいのだろうかと、何度も思った。
セトは、何も言わない。だが、去らない。それだけで充分だった。
夜。
宿の部屋は、1つしかない。
初めから分かっていた。ユギは窓辺に立っていた。外は暗い。
振り返ると、セトが居る。あの夜と同じように。違うのは、剣がないことだ。
ユギは、ゆっくりと近付いて、手を伸ばす。そして、触れるか触れないかの距離で、止まる。
セトは動かないが、拒まない。ユギの指先が、セトの頬に触れた。温かい。生きている。それを確かめるように。
セトの手が、ユギの手首を取る。
だが、今度は、口付けるためではなかった。引き寄せた。
距離が消えて、息が、混ざる。
ユギの瞳が、揺れる。
逃げない。逃げる理由は、もう無いのだから。
セトの指が、ユギの髪に触れる。
そして、唇が、重なった。
それは、奪うものではなかった。確かめるものだった。
ユギの手がセトの背に回ると、セトの腕がユギを抱き寄せる。
強く。だが、閉じ込めない強さで。そのまま、寝台へ導く。
夜は、静かだった。
急がない。求めるより先に、触れることを選んだ。
触れる度に、ここに居ると、互いに教え合うように。
言葉は、必要なかった。
ユギは、その腕の中で、目を閉じた。
どこでもない場所で。
誰でもないユギとして。
数日間。
誰も知らない時間。
世界から切り離された、小さな生だった。
しかし2人は、この時間が永遠ではないことを知っていた。
だからこそ、一瞬も、手放さなかった。
扉の外で、馬が小さく嘶いた。その音で、終わりが近いのだと分かった。
朝はまだ浅い。空は白く、街は眠っている。
背後で、革の軋む音。振り返らなくても、セトが、旅支度を終えたのだと分かる。
「…行くのか。」
問いは、問いの形をしていなかった。
「ああ。」
短い返答。それ以上は、続かない。
ユギは、頷くしかなかった。これは、初めから決まっていたことだから。
セトは留まる者ではない。探していたものを見つけたのかもしれない。
それが何なのかは、知らない。
ただ、数日間だけ、自分の隣に居たことだけを知っている。それでいい。
セトが扉へ向かい、手をかける。その瞬間、ユギの喉が、勝手に動いた。
「…また…。」
言葉が止まる。
また、何だ。
また、いつ。
また、来るのか。
また、会えるのか。
問う資格などない。だが、言葉は戻らない。
セトが、振り返り、青い瞳が、まっすぐに、ユギを捉える。
「…会いたいのか?」
静かな声だった。
試すでもなく、拒むでもなく、ただ、その奥にあるものだけを、掬い上げるような。
ユギは、息を止めた。
あの夜とは違う。もう、知らないふりは出来ない。
唇が、開く。
「…会いたい。」
声は震えていた。だが、それは確かに、ユギ自身の言葉だった。
セトが、瞬く。そして、満足そうに、笑った。
それは、初めて見る、隠さない笑みだった。
「そうか。」
低く、吐息のように落ちる声。そして、
「…お前が望むなら。」
それだけを、答える。
約束ではない。
誓いでもない。
セトが扉を開けると軋む音と同時に光が差し込む。そして、去った。
ユギは追わなかった。
もう、知っているからだ。
願った。
そして、それは、届いたのだと。
窓の外で、馬の足音が、遠ざかっていく。
ユギは、その音が消えるまで、動かなかった。
指先には、まだ、あの体温が、残っていた。
