この頃、アテムはよくセトに見詰められていた。
何か言いたいことがあるようには見えない。
ただ、ほんの少し、面白そうに見詰めるのだ。
アテムは冥界に還り、また、王として過ごしていた。
天候も安定している、戦もない。
時々、嵐のような戦闘狂が訪れるだけだ。
大声で言い合いながらも純粋にゲームに興じ、それが終われば執務をこなす。
そんな、刺激と安定が調和した日々だった。
白熱した闘い、夢中になってカードを操り、挑発し、罠にかかり、やり返す。
いつもと同じ、楽しい時間だった。
デュエルディスクを装着したままアテムが緩く首を傾ける。
「もう、戻るのか?」
「帰る。」
言いながら、瀬人は既に背を向けていた。
「たまには饗されていけよ。」
「そんな暇はない。」
過去、アテムが何度声を掛けても瀬人がそれに応じたことはない。
決闘が終わるとすぐに現世へ戻る。
「だから3戦で止めておけば良かったんだ。」
瀬人が顔だけ、振り返る。
「それで、お前と話せと言うのか?」
「うん。そういう事になるかな?」
「…俺にお前の暇つぶしに付き合えとでも?」
今度こそ、瀬人が大広間を出ていく。
アテムは慌てて追い掛け、王宮の回廊から瀬人を見送った。
それから執務室へ向かって歩き出すと、セトと出くわした。
相変わらず、口元に薄っすらと読めない微笑を浮かべていた。
「セト。」
セトの目はアテムの様子をチラリと確認して、窓の向こう、瀬人が向かった方向を見た。
「どうかされましたか?」
「お前なら、どうすればティータイムに付き合う?」
いつもの視線がアテムに向けられる。ほんの少し、面白そうな視線。
「…私にあなたの暇つぶしに付き合えとでも?」
アテムがデュエルに駆り出されている間、大抵の仕事は王として生きた経験のあるセトに回る。
そして、アテムが戻る頃には全てが片付いている。
セトがどのような王だったのかを、アテムは知らない。ただ、恐ろしく仕事が早い。
アテムはデュエルディスクをそっと外した。
「いや、その…。」
「責めてはいませんよ。王が楽しそうで何よりです。」
セトからはネガティブな感情は微塵も感じられない。
「だが、ゲームだけして返すのもな…と思うんだ。」
「それで現代の子が満足しているのなら、良いのではないですか。」
瀬人は決闘をしに来ているだけだ。セトの言葉は正しい。
「それはそうなんだが。」
セトの目が微かに細められる。
「あなたも随分と……」
「ん?」
「……いえ、良いことです。実に……ふふ。」
そう言って、小さく笑いながらセトは行ってしまった。
かつてなら、その言葉の続きを求めただろう。
今は、聞かずに済ませてしまう自分がいる。
「どういう意味だよ。」
ぽつりと零れたアテムの独り言は、風に溶けた。
夜の王宮の一室。
窓の外は穏やかな夜風に揺れる木々の影。アテムは椅子に腰掛け、肩を僅かに落として呟いた。
「まただ。海馬がすぐに帰るから、きちんと客人扱い出来ないんだ。」
セトは向かいの椅子に座り、微かに笑みを浮かべる。何か言うでもなく、ただその瞳でアテムを見詰めるだけだ。月光が彼の輪郭を柔らかく照らし、静かな時間が流れる。
アテムは肩をすくめ、視線を逸らす。
「やっぱり、上手くいかないものだな。」
セトの笑みは薄く、しかし確かに面白そうだった。言葉はなくとも、存在だけで互いの心を確かめ合う。夜の静寂に紛れ、柔らかい熱が漂う。
部屋の空気は甘く、けれどどこか落ち着いた、恋人同士の夜。言葉よりも、目と仕草で伝わるものが確かにあった。
「では……」
「ん?」
セトの口元には、冷徹さと、微かな愉悦が混ざり合った笑みが浮かんでいた。
青い瞳が僅かに細められる。
「…捕らえてみますか?」
「は?」
アテムが眉を顰めると、セトは肩を竦めた。
「冗談です。」
そう言って、わざとらしく声を潜める。
「お前が決闘を覚えて海馬と闘えば、その間に用意が出来るか…。セト、決闘を覚えないか?」
「既に会得していますよ。デュエルディスクも持っています。」
「いつの間に…。」
呆れたように言うアテムに、セトは指先で顎を軽く撫でながら答えた。
「試しに要求してみたらくれました。レベル8だそうです。」
肩を揺らし、小さく笑う。
その笑みは、どこか楽しんでいるようでもあった。
「…しかし、あまりに現代の子を案じられると…妬きますよ?」
声は低く、柔らかい。
だが、その奥にある軽い戯れを、アテムは聞き逃さない。
振り返り、セトの青い瞳を覗き込みながら、くすりと唇を綻ばせた。
「嘘だな。ちっとも妬かないくせに。」
ほんの一瞬、視線が交差する。
セトは観念したように、短く笑った。
その瞳に宿る熱は、もはや「助言者」のものではなかった。
「さあ、どうでしょうね。」
セトの指先が、アテムの項に残る熱をなぞる。それは静かな、しかし抗い難い侵略の合図だった。
「あなたの思考を占めるのは、あの不遜な男ではなく、私であるべきなのは、確かですがね。」
「そういう事は一度でも嫉妬してから言えよ。」
「…何とでも。」
セトは、寝台に横たわるアテムの金の前髪を、慈しむように一房指に絡めた。その青い目には、揺るぎない知性と、愛しい存在を完全に掌握している者の余裕が湛えられている。
セトの指先が、アテムの喉仏のラインをゆっくりと、羽毛のような軽やかさで辿る。
急ぐ必要などない。この夜も、アテムの心も、すべては自分の領地であると確信している者の、残酷なまでの優雅さ。
「さて…客人の足止めの策は、これで充分。……ここからは……。」
セトの手が、アテムの胸元を捲り上げ、熱を帯びた肌へと直接触れる。
アテムは、セトの指が触れる場所から、意志とは無関係に熱が広がっていくのを感じた。
王としての矜持も、瀬人への懸念も、セトが注ぎ込む濃厚な情愛の前に、蜜のように溶けていく。
「……あ、……セト…。お前のせいで、その…俺は、いつも……。」
「あなたが今、ただ悦びに身を浸している。それの何が問題なのです。」
セトはアテムの額に優しく触れ、それから、吸い付くような深い口付けでアテムの言葉を奪った。
アテムの指が、セトの青い衣を掴み、強く引き寄せる。セトの落ち着いた鼓動が、アテムの早まる拍動を包み込み、調律していく。
「もっと……蕩けてください。あなたの思考を、言葉を、その熱も。」
セトの指先は、まるで思考をなぞるように、迷いなく次の場所を選び取っていく。
触れられる度に、アテムの内側から、王として積み上げてきた均衡が音もなく崩れていった。
「……ほら。」
囁きは低く、命令ですらない。
それでも、アテムの身体は抗う術を忘れ、教えられるままに熱を差し出してしまう。
支配されていると理解するより先に、それが“正しい”と錯覚してしまう。
その瞬間を、セトは決して逃さなかった。
黄金の肌が、一箇所ずつ丁寧に、そして確実な悦楽をもって暴かれていく。
アテムは、その支配が心地よく、同時にたまらなく抗い難いものであることを悟り、甘い吐息と共に、自らセトの腕の中へと沈み込んでいった。
夜明け前の王宮は、まだ眠りの名残を抱いていた。
薄青い光が高窓から差し込み、重ねられた寝台の上に、静かに影を落とす。
アテムは目を覚まし、まず気付いた。
自分の呼吸が、他者のそれと自然に重なっていることに。
背後から回された腕。
逃がす気のない位置にありながら、力は入っていない。
けれど、解こうと思えば即座に阻まれる。その確信だけが、確かにあった。
「……朝か。」
掠れた声に、背後で微かな気配が動く。
「はい。あなたが起きる少し前から。」
セトの声は、夜の延長線にある低さを保っていた。
眠っていたはずなのに、完全に油断していたわけではない、と告げる響き。
アテムは小さく息を吐き、枕に顔を埋めるようにして呟く。
「……結局、海馬のことは何も考えられなかったな。」
「でしょうね。」
即答だった。
愉悦を隠しもしない声音に、アテムは苦笑する。
「作戦会議とか、場を用意するとか……そういう話だった筈だが。」
「用意しましたよ。」
セトの指先が、昨夜の名残をなぞる位置に軽く触れる。
それは確認であり、所有の再宣言でもあった。
「あなたが余計な思考を手放すための場を。」
アテムは返事の代わりに、ゆっくりと寝返りを打ち、セトを見上げる。
朝の光の中で見るその青い瞳は、夜よりもずっと冷静で、それでも、完全に満ち足りていた。
「……相変わらず、理屈がずるい。」
「理に適っているだけです。」
そう言って、セトは額に軽く口付ける。
深くもなく、求め合うでもない。
ただ「ここに戻ってきた」という合図のような、穏やかな接触。
「次も、現代の子はすぐに帰るのでしょうね。」
「ああ。」
「では尚更……」
腕が僅かに締まり、離さないという意思だけが伝わる。
「…それに荒らされた夜のあなたは、私が引き受けるとしましょう。」
アテムは一瞬目を閉じ、それから小さく笑った。
「…本当に、妬かないんだな。」
「必要がありません。」
迷いのない肯定。
「あなたが戻る場所が、ここだと分かっている限りは。」
朝の光は、2人を等しく照らしていた。
夜の熱はもう過去のものだが、その余韻は確かに、互いの内に根を張っている。
王としての顔を取り戻す前の、ほんの短い時間。
アテムは再び目を閉じ、セトの腕の中で、もう一度だけ深く息を吸った。
この静けさもまた、策のうちなのだと知りながら。
大広間ではいつものように、光と音と怒号がぶつかり、決闘の余波が砂塵となって舞い落ちていた。
瀬人は、闘いが終わり、デュエルディスクを収めると同時に、踵を返そうとした。
「また来る。」
いつも通り、嵐のように去ろうとする瀬人。しかし、その足が不意に止まる。
「お席が整いました。」
影から音もなく現れた侍従が、深く頭を垂れる。
鼻腔を突いたのは、侍従が纏う微かな芳香。それは、厳選された数種の薬草と花を黄金比でブレンドし、蜜で煮詰めたような、深く重厚な茶の香りだった。
瀬人が視線を向ければ、大広間に隣接する回廊の一角に、異様な光景が広がっていた。
そこには、整った席が用意されていた。
テーブルの上には一点の曇りもない茶器が並んでいる。そして、果実や菓子の山。
驚くべきは、その「完璧さ」だ。
カップから立ち上る湯気は、この乾燥した空調の中でも揺らぐことなく、最も香りが開く温度であることを誇示している。
傍らに添えられた菓子を、瀬人は見たことはないが最上級のものだとは分かる。
そして、配置の一つ一つが、黄金比に基づいた完璧な構造美を成していた。
「…一杯ぐらい…たまには付き合えよ。」
アテムが、少し苦笑しながら、そして楽しげに微笑む。
瀬人は、鋭い視線をその茶席へと向けた。
全てが、異様なほど整っていた。
「古代の亡霊か…。」
瀬人にとって2人の仲などは瑣末なことだったが、この茶席に込められた「計算」だけは無視できなかった。
茶器の配置、温度、そしてタイミング。すべてが瀬人の行動パターンを読み切った上で、最短かつ最上の効率で提供されている。
「…ふん、小賢しい。」
瀬人は吐き捨てた。だが、その足は用意された椅子へと向かっていた。
ここで背を向けることは、この完璧なホスピタリティに「敗北」することを意味する。プライドが、それを許さなかった。
「15分だ。それ以上は、俺のスケジュールにはない。」
不機嫌そうに腰を下ろした瀬人に、アテムは満足げに頷き、その向かい側に座る。
かくして、アテムは海馬瀬人が冥界を訪れるようになって約1年。やっと「客人をもてなす」ということに成功したのだった。
アテムの喜びこそが、彼の最高の報酬である。そのために客人をもてなすなど、セトにとっては造作もない遊戯に過ぎなかった。
瀬人が去り、侍従が下がり、香りだけが残る。
アテムがほっと息を吐いた、その背後。
「……良かったですね。」
振り返ると、いつの間にかセトがいる。
音も気配もなかった。
「客人を引き留め、それでいて無理に縛らず、満足させて帰す。」
アテムは苦笑する。
「大袈裟だ。」
セトは、ほんの僅か、愉しそうに目を細める。
「だが、とうとうあいつをきちんと茶の席に…」
アテムの言葉を半分も聞かず、セトはさらりと言う。
「あなたは、随分と、真面目になりましたね。」
不意打ちに、アテムが目を丸くする。
「真面目?どういう意味だ?」
セトはそれには答えず、相変わらず面白そうな顔をして出て行った。
アテムが執務室へ戻ると、やはり仕事は既に片付いていた。
執務の合間、アテムは1人、回廊の端に立っていた。
風は穏やかで、砂の匂いも薄い。
瀬人が去ってから、どれほどの時が経ったのかは分からない。
──随分と、真面目になりましたね。
不意に、その言葉が胸の奥で形を持つ。
音ではなく、感触として。
アテムは眉を僅かに顰めた。
褒められた覚えはない。
叱られた記憶もない。
ただ、淡々と告げられただけだ。
「……真面目、か。」
かつての自分は、違った。
ゲームに夢中になり、挑発に笑い、勝利に無邪気に喜び、全力で遊んだ。
何より、時折サボる。
それは今も変わらないし、悪いことだとは思わない。
サボること以外は。
思わない、が。
客人を迎え、時間を測り、相手の矜持を傷つけぬ距離を計り、満足と退路を同時に用意する。
それを「楽しい」ではなく、「当然」として行った自分がいた。
胸の奥で、何かが静かに沈む。
そのとき、気配がした。
振り向くより先に、視線を感じる。
セトが、そこにいた。
何も言わない。
咎めるでも、微笑むでもない。
ただ、最初から知っていたと言わんばかりに、見詰めてくる。
──ああ。
アテムは、ようやく理解した。
あの言葉は、忠告でも皮肉でもない。
確認だ。
王として、役割を自覚した者への、静かな認証。
アテムは、ふっと息を吐いた。
「……セト、そういう事かよ。」
セトの口元が、ほんの僅かに緩む。
それは勝利の笑みでも、恋人のものでもない。
見届けた者の、満足だった。
セトが見詰めていた理由。
──変わったのは、行動ではない。
変化を、覚悟が定着したかどうかを、測っていたのだ。
そして今、その答えは、アテム自身の胸の中に、確かにあった。
「もう壺に隠れてサボったり、そんなことはあんまりしていないぜ?」
「こっそり『猫動画』というものを眺めているのは知っていますがね。」
アテムは一瞬だけ視線を逸らし、それから、苦笑した。
それでも、逃げるためではなく、戻るために。
「それは……。」
「何にせよ、楽しそうで何よりです。」
その言葉に、もう“試す”響きはなかった。
「アテム。」
呼ばれた声は、いつもより低く、要件だけを告げる響きだった。
反射的に顔を上げると、そこには瀬人が立っている。デュエルディスクも構えていない。闘志も、挑発もない。
その代わりに、彼は無言で、ひとつの箱を差し出した。
ずしりと重い。
両手で受け取った瞬間、アテムは僅かに目を瞬かせた。
「……これは?」
瀬人は答えない。ただ、いつものように腕を組み、視線を逸らしたまま言う。
「返礼だ。借りは返した。俺は帰る。」
それだけ言って、もう踵を返そうとする。その様子に、アテムは思わず笑った。
「待て。せっかくだ。今日はこれを食べよう。」
箱の留め具を外すと、中から現れたのは現世の菓子だった。冥界ではまず見ない、精巧で、しかし実用一点張りの詰め合わせ。瀬人らしい選び方だ、とアテムは思う。
瀬人は一瞬だけ眉を顰めたが、やがて溜息混じりに言った。
「……15分だけだ。それ以上は付き合わん。」
「充分だ。」
そう答えたアテムの声は、どこか誇らしげだった。
その頃、執務室。
セトは書類に目を落としたまま、すべてを把握していた。
遠く、大広間の気配。
菓子の封が切られる音。
そして、珍しく落ち着いた空気の中で交わされる、短い会話。
唇の端が、僅かに持ち上がる。
──良かったですね。
声には出さない。
だが、かつて夜に告げた言葉が、今、ゆっくりと効いているのを知っている。
「真面目になりましたね。」
あの時、面白そうに見詰めた理由。
それは、過去と未来を見ていたからだ。
客人を迎え、時間を区切り、席を用意し、返礼を受け取り、共に食す。
礼節はありながら、しかしアテムが最も不得手だった行為。
3000年前なら考えられなかった行動。
それを、今は自然にやってのけた。
面白い。
現世がアテムを変えたのだろう。
セトは筆を進めながら、満足そうに思うのだった。
