
海馬瀬人にとって、アテムは生涯唯一の好敵手だ。
三千年前、古代エジプトの王だったという事実も、現在、冥界の王であるということも、その肩書きの一つに過ぎない。
瀬人は定期的に冥界を訪れ、アテムと決闘をする。
勝敗は重要だが、それだけが目的ではない。
時には言葉を交わすこともある。
大した内容ではない。
それは戦いの合間に生じる、必要最低限のやり取りに過ぎなかった。
冥界の環境は、相変わらず古代エジプトのままだ。
照明は火、記録はパピルス。
実用性という観点では、話にならない。
だから瀬人は、必要なものを次々に持ち込んだ。
火の代わりに照明を。
パピルスの代わりにタブレットを。
遊戯のもう一人として、少し前まで現世に居た名残だろう。
勿論アテムはそれらを、躊躇いなく使いこなす。
操作に迷いはなく、扱いも丁寧だった。
現代で過ごした時間が、まだ身体に残っているだけだ。
それは合理的な適応であり、特別な意味を持つものではない。
少なくとも、その時の瀬人はそう結論づけていた。
冥界を訪れた瀬人は、王宮の一室で妙な光景を目にした。
アテムが、タブレットを前にしている。
それ自体は、今ではもう珍しくない。
だが、その隣に置かれた表示が、瀬人の目を止めた。
充電残量
──100%
「……ずいぶん用意がいいな。」
瀬人の視線に気付いたのか、アテムは顔を上げると、こともなげに言った。
「途中でバッテリーが切れたら困るだろ?」
まるで当然の前提のような口ぶりだった。
瀬人は一瞬だけ眉を動かし、それ以上は追及しない。
「お前の使い方では、そこまで消耗は激しくないだろう。」
「分かってる。だが、念のためだ。」
念のため。
その言葉が、ほんの僅かに引っ掛かったが、瀬人はそれを切り捨てる。
アテムの言い分は合理的だった。
道具は、使える状態にしておく。
それだけの話だ。
「八十から九十%程度にしておけ。百%は逆にバッテリーを傷める。」
「そうなのか?」
「ああ。」
短いやり取りだった。
瀬人はそれ以上興味を示さず、歩き出す。
部屋の外には、神官たちが控えていた。
瀬人が出てきたのを確認すると、自然な動きで距離を取る。
気配は残すが、決して会話には入らない。
護衛というより、付き添いに近い。
瀬人は歩調を緩め、横目でそれを確認する。
神官たちは、まだ瀬人がアテムと共に居そうだと判断すると、静かに姿を消した。
アテムを一人にしない体制が、既に出来上がっている。
「……お前は、一人では行動できんのか。」
言葉は平坦だった。
挑発でも皮肉でもない。
事実確認に近い。
アテムは一瞬だけ視線を逸らし、それから、いつもの調子で肩を竦めた。
「王だからな。勝手に消えると、面倒なことになる。」
「そういう問題か。」
「そういう問題だ。」
答えは成立している。
理屈も通っている。
それでも瀬人は、胸の奥に微かな違和感が残るのを感じた。
護衛が必要なのは、王だから。
タブレットを充電するのは、合理的だから。
どれも間違っていない。
間違っていないからこそ、説明が整いすぎている。
瀬人はそれ以上何も言わず、歩みを進めた。
アテムは少し遅れて、その後を追う。
この時点では、まだ。
瀬人はそれを、アテムの「癖」だと判断していた。
遊戯として現代に居た頃の生活の名残。
王としての在り方。
それ以上でも、以下でもないと。
二週間後。
瀬人が夜の冥界を訪れた時、王宮は異様なほど明るかった。
回廊の先まで、灯りが途切れない。
火ではない。
瀬人が持ち込んだ照明が、規則正しく配置されている。
まるで現世の建造物のようだった。
「……随分と無駄が多いな。」
独り言のように呟くと、前を歩いていたアテムが振り返る。
「王宮だからな。王の通る道に灯りがあるのは当然だろ?」
理屈としては正しい。
瀬人はそれ以上言わず、周囲を見渡した。
冥界には、近道がある。
何度も訪れている瀬人は、回廊の構造を把握していた。
灯りの少ない、壁と壁の隙間のような抜け道。
距離も短く、移動は早い。
だが、アテムはそちらを選ばない。
灯りの整った回廊を、迷いなく進んでいく。
「……そこを使えば早い。」
瀬人が何気なく指した先を、アテムは一度だけ見た。
そして、ほんの僅かに視線を逸らす。
「問題ない。」
短い返答だった。
足は止まらない。
瀬人は肩を竦め、それ以上は口にしなかった。
好みの問題だ。
王の動線として整えているのだろう。
そう判断するには、充分だった。
アテムの部屋に入ると、照明は全て点いていた。
影が、殆ど存在しない。
「ここもか。」
「明るい方が、いいだろ。」
そう言って、アテムは平然としている。
瀬人はそれを一瞥し、話題を切り替えた。
用があるのは冥界の照明事情ではない。アテムとの決闘だ。
大広間で決闘を終えた。
それで用件は済んだはずだった。
瀬人は帰ろうとした。
だが、その背に声が掛かる。
「海馬。部屋を用意させるから、泊まっていけよ。」
瀬人は振り返る。
「必要ない。」
「もう夜だ。明日の朝、いつもの場所まで見送る。」
「見送りなど不要だ。」
「それくらいはするさ。」
それだけで充分だと言わんばかりの声音だった。
理由は語られない。
だが、拒否を想定していないことだけは明らかだった。
瀬人は頭の中で予定を確認する。問題はない。
「……好きにしろ。」
「ここを使ってくれ。」
そう言って通された部屋も、明るかった。
瀬人はタブレットを開き、仕事を始める。
時間の感覚は現世と変わらない。
だが、冥界の夜は、どこか長い。
気付けば、日付が変わっていた。
ふと、視線を上げる。
アテムが、少し離れた場所でタブレットを眺めていた。
「お前は部屋へ戻って寝ろ。」
何気ない一言だった。
アテムは、画面に目を落としたまま答える。
「……ああ。うん……。」
それ以上、言葉は続かなかった。
アテムが部屋へ戻った後も、瀬人はしばらく仕事を続けていた。
集中が途切れ、ふと廊下を見る。
向かいの回廊。
アテムの部屋の灯りが、まだ点いている。
「……起きているのか。」
それなら、もう一戦やるのも悪くない。
瀬人は立ち上がり、部屋を出た。
扉の前で足を止める。
灯りは隙間から漏れている。
ノックはしなかった。
そのまま、扉を開ける。
そこには、照明を全て点けたまま、長椅子に横たわるアテムの姿があった。
パピルスが散らばり、タブレットは起動したまま、画面には途中で止まった資料が表示されている。
呼吸は穏やかで、深い。
眠っていた。
瀬人は足を止めた。
しばらく、その光景を見詰める。
灯りを落とさず、タブレットを手放さず、そして、眠っている。
「……。」
瀬人は何も言わず、扉を静かに閉めた。
どこも合理的ではない。
だが、異常とも言い切れない。
そのどちらでもない領域に、アテムが居る。
瀬人は部屋へ戻り、タブレットを開いた。
──照明の配置を見直すか。
そう考えたこと自体が、既に踏み込み始めていることには、まだ気付いていなかった。
夜、アテムは目を開けた。
いや、最初から眠ってはいなかった。
暗闇が、そこにある。
壁がある。
天井がある。
何も変わらない。
何も、動かない。
息を吸う。
吐く。
それだけが、自分が存在している証明だった。
数える。
一。
二。
三。
四。
五。
六。
七。
八。
九。
十。
百まで数える。
また、一に戻る。
繰り返す。
終わらない。
終わらないから、数える。
三千年。
数えた。
何度も。
正確な数は、もう分からない。
途中で分からなくなる。
それでも、また一から始める。
時間が、ない。
時間が、ありすぎる。
動けない。
声も出ない。
身体もない。
ただ、意識だけがある。
──いつ終わる?
答えはない。
終わりは、ない。
永遠に、このまま。
気付くと、アテムは自分の腕を強く掴んでいた。
爪が食い込み、痛みが走る。
痛い。
痛みがある。
ここに、ある。
今、ここに居る。
息を吸う。
吐く。
一。
二。
三。
数える。
もう、数えなくてもいいはずなのに。
それでも、やめ方が分からなかった。
少し間が空いて、数週間後。
次に瀬人が冥界を訪れた時、アテムは開口一番、珍しいことを言った。
「決闘より先に、照明を見てくれないか。」
瀬人は一瞬、眉を寄せる。
「……照明?」
「ああ。一度だけ、点滅したんだ。」
それだけだ、と言わんばかりの口調だった。
瀬人は何も言わず、回廊を見回す。
照明は全て正常に稼働している。
配線、電圧、制御系統。確認した限り、問題はない。
「異常はない。」
「そうか。」
アテムはそれで納得した様子だったが、視線だけが、灯りの列を追っていた。
「一瞬だけだ。ほんの、刹那。」
「点滅の周期は?」
「覚えていない。」
瀬人は小さく息を吐く。
一瞬の点滅など、環境ノイズの範疇だ。
「それで、決闘が出来ないほど気になったわけか。」
皮肉ではなく、事実確認だった。
アテムは一拍置いてから答える。
「……集中できなかった。」
その言葉が、僅かに残った。
だが、瀬人はそれを分析しない。
「ならば、対策を取る。」
踵を返す。
「今は帰る。照明を替える。」
「今からか?」
「最短だ。放置すると、お前がまた気を取られる。」
それだけの話だった。
勝負の前に雑音がある状態など、論外だ。
数時間後。
夜。
再び冥界に現れた瀬人の手には、新しい照明装置があった。
点滅耐性を強化し、冗長構成を取った仕様。
現世でも過剰と言われる水準だ。
「……仕事が早いな。」
「必要だからな。」
設置は短時間で終わった。
回廊の灯りは、より均一に、より強く、冥界を照らす。
「以前のものより性能を上げている。これで良いだろう。」
瀬人はそう言って立ち上がる。
「他に気になる点は。」
アテムは少し考え、首を振った。
「……いや。」
だが、歩き出した瞬間だった。
「そこを曲がれば近いだろう。」
瀬人が指した先は、灯りの少ない細い回廊だった。
壁と壁の間を抜ける、影の多い道。
その一言で、アテムの足が止まる。
本当に、ほんの一瞬。
だが、完全に止まった。
瀬人は振り返らない。
ただ、足音が消えたことだけを認識する。
「……。」
数拍の沈黙。
瀬人は、それ以上待たなかった。
「好きにしろ。」
それだけ言って、明るい回廊をそのまま進む。
少し遅れて、アテムが付いてくる気配がした。
距離は保たれている。
だが、離れすぎてもいない。
瀬人は歩きながら考える。
点滅が問題だったのではない。
照明そのものでもない。
暗さだ。
だが、それを口に出すことはしない。
今はまだ、確証がない。
その日から、瀬人は冥界に居る時間を増やした。
「現世は煩わしい。」
それが理由だった。
会議。
書類。
調整。
雑音。
全てが、最短で済まない。
その点、冥界は静かだ。
邪魔が入らない。
「……ここは、仕事が進む。」
端末を開く。
当然の行為だった。
アテムは、
それを少し離れた場所から眺めていた。
「……お前、何をしに来ているんだ。」
「仕事だ。」
「冥界で?」
「問題でもあるのか。」
即答だった。
アテムは一瞬言葉に詰まり、それから小さく息を吐く。
「……呆れたぜ。」
それ以上は言わなかった。
瀬人は滞在に必要なものを持ち込んだ。
照明の追加。
通信中継装置。
簡易サーバ。
環境制御装置。
冥界は、静かに変わっていく。
「この文明加速装置め。」
アテムが呟く。
「最適化と言え。」
瀬人は即座に返す。
「暮らしやすくなったのは事実だけどな。」
「お前の為ではない。」
答えは、迷いなく返された。
「放置すると、不具合が出る。」
それだけだった。
そんなやり取りの合間にも、決闘は挟まれた。
作業の区切りに一戦。
配線を替えた後に一戦。
処理待ちの間に一戦。
「……お前、働くか闘うかの二択しかないのか。」
「効率がいい。」
「俺の予定は考慮しないのか。」
「後で聞く。」
聞くとは言ったが、守るとは言っていない。
そして、朝。
瀬人はアテムの部屋を訪れた。
照明は微かに残されている。
ベッドの上で、アテムは眠っていた。
「……アテム。」
反応はあるが、起きない。
瀬人は迷わず、窓から明かりを入れた。
朝の光が、薄く差し込む。
「まだ寝るのか?」
声を掛けると、アテムは眉を顰めて目を開ける。
「……おはよう……誰のせいだと思っている。」
「何の話だ。」
低く、掠れた声。
「お前だ…。俺にも公務がある…のに…。」
アテムは半身を起こし、小さくあくびをかみ殺しながら、軽く瀬人を睨む。
「お前のせいで、昨夜は何度決闘をしたと思っているんだ。」
「覚えていないのか。」
「覚えているから言っているんだ。」
瀬人は腕を組む。
「よし、起きたな。もう準備は出来ている。その公務の前に一戦だ。」
「本気か…。勝手すぎるだろ。」
「今さらだ。」
アテムはしばらく黙っていたが、やがて小さく笑った。
「…本当に、お前は王宮に向いていないな。」
「褒めているのか。」
「呆れているんだ。」
アテムは小さく息を吐き、ベッドを降りる。
その動きは、もう怯えてはいなかった。
ただ、眠いだけだった。
アテムは、毎朝同じことをする。
目を開ける。
照明を確認する。
点いている。
手を動かす。
動く。
声を出す。
「...おはよう。」
出る。
窓を開ける。
外が見える。
光がある。
これで、やっと
「今日も、終わっている。」
と確認できる。
封印は、解けた。
それは事実だ。
でも、確認しないと
信じられない。
瀬人が冥界を拠点の一つとして使い始めてから、しばらくが経った。
照明の配置、電源系統、作業導線。
必要な最適化は、既に完了している。
その動作確認を終え、瀬人は端末の表示を閉じた。
「もう支障はないはずだ。今後、同じ件で時間を取られることはない。」
淡々とした報告だった。
その言葉の途中で、アテムの足が止まる。
瀬人は気付かない。
視線はまだ、端末の数値を追っている。
静寂が落ちる。
灯りは一定の強さを保ったまま、影だけが、僅かに揺れていた。
「……海馬。」
呼ばれて、瀬人は顔を上げる。
「何だ。」
アテムはすぐには続けなかった。
何かを選んでいるような、短い沈黙。
やがて、
「……お前は、意識だけで時間を数えたことはあるか?」
唐突な問いだった。
瀬人は答えない。
答える必要のある種類の問いではないと判断したからだ。
アテムは、視線を灯りへ向けたまま、続ける。
「俺には、あるんだ。」
声は低く、だが、揺れてはいなかった。
「俺として生きた十六年とは別に……。」
一度、言葉が切れる。
「何もできず、動けず、ただ意識だけがあった時間がある。」
灯りが、瞳の奥で反射している。
「……三千年分だ。」
瀬人は、その言葉を訂正しなかった。
誇張ではないと理解したからだ。
「……それは、今も続いているのか。」
問いは短かった。
評価も、同情も、含まれていない。
純粋な確認だった。
「続いていない。」
アテムは即答した。だが、そのまま言葉は終わらない。
「……だが。」
呼吸が、僅かに深くなる。
「終わってもいない、とも言える。」
静かだった。
灯りの音だけが、微かに空間を満たしている。
「暗いと。」
アテムは言う。
「時間が、分からなくなる。」
呟くように。
それだけだった。
説明は続かない。
続ける必要がなかった。
瀬人は、しばらく何も言わなかった。
やがて、
「そうか。」
それだけを言った。
理解した、とも、理解できない、とも言わない。
ただ、受け取ったことだけを示す言葉だった。
アテムは、気付かないうちに詰めていた息を、ゆっくりと吐いた。
灯りは、変わらず、そこに在った。
瀬人の中で、全ての違和感が照合される。
過充電。
全灯。
明るい回廊。
従者。
恐怖ではない。
生存反応でもない。
──終わっていない記憶だ。
「海馬、ひとつ頼みがある。」
決闘が終わった夜、アテムがそう切り出した。
「何だ。」
「俺と一緒に、暗い場所に行ってくれないか?」
瀬人は目を細める。
「……理由は?」
「試したい。」
「何を。」
アテムは、少しだけ間を置いてから答えた。
「一人ではないと分かっていれば、暗闇に耐えられるかどうか。」
瀬人は、それ以上は聞かなかった。
「……分かった。」
冥界の地下。
最も深い回廊。
光は、ひとつも届かない。
瀬人は最後の照明装置に手を掛ける。
「消すぞ。」
「ああ。」
灯りが消える。
完全な暗闇。
境界が消える。
距離が消える。
自分の身体の位置さえ、曖昧になる。
隣に、居るはずだった。
「……っ。」
息を呑む音。
呼吸が、乱れる。
「点けるか?」
瀬人は言う。
「待ってくれ……海馬……。」
声が、暗闇の中で揺れる。
「ここに居る。」
瀬人は動かない。
位置も、距離も、変えない。
「苦しいのならやめろ。」
命令ではなく、確認だった。
「……やめない。」
息が、浅い。
「……海馬。」
呼ばれる。
手探りで、何かを求める気配。
何も掴めないはずの暗闇で、何度も繰り返してきた動き。
瀬人は、その手を取った。
指が触れる。
体温がある。
確かな、重さがある。
「俺はここに居る。」
暗闇は、変わらない。
だが、孤独は変わる。
「数えろ。」
瀬人は言った。
「十までだ。」
アテムの手が、僅かに強くなる。
「……一」
声は、まだ揺れている。
「二」
呼吸が、続く。
「三」
止まらない。
「四」
戻らない。
「五」
ここにある。
「六」
ここに居る。
「七」
指が、縋る。
「八」
離れない。
「九」
終わりがある。
「十」
沈黙。
「……点けるぞ。」
光が戻る。
輪郭が、世界に戻る。
アテムは、まだ手を離していなかった。
離す理由が、すぐには見つからないようだった。
瀬人は、何も言わない。
「……十五まで数えるか?」
アテムは、小さく頷いた。
再び、灯りが消える。
暗闇。
手は、既にそこにある。
「一」
今度は、少しだけ、声が安定していた。
数は、続く。
終わりがあることを、知りながら。
今度は、十五まで。
次は、二十まで。
何度も、何度も。
暗闇の中で、アテムは数を数え、瀬人は隣に居る。
「この文明加速装置め。」
瀬人は、壁際に増設された照明と、整えられた導線を一瞥した。
評価でも非難でもない、事実確認。
「何度教えたら分かる。最適化と言え。」
アテムは肩を竦める。
否定する気も、誇る気もない口調だった。
「暮らしやすいのは確かだが…。」
一拍。
「お前の為ではないと言った。」
瀬人は即座に返す。
「放置すると、不具合が出るものがあるだけだ。」
それだけだ。
感情は含まれない。少なくとも、本人の認識では。
アテムは一瞬だけ黙り込み、それから小さく息を吐いた。
「…相変わらずだな。」
瀬人は答えない。
「どうせ…決闘のためだろ。」
言い換えのように、アテムが言う。
「…それ以外に何がある。」
瀬人が、ようやく顔を上げる。
視線が合う。
ほんの一瞬。
だが、その間に言葉にしなかったものが、全て行き交う。
理解していること。
干渉しないこと。
それでも、離れないこと。
アテムは、わずかに口元を緩めた。
「なら、行こうぜ。」
「ああ。」
暗闇で数を数えてから、アテムは、時折、瀬人の部屋に居るようになった。
声を掛けるわけでもない。
用事があるようでもない。
気付くと、椅子の脇や、ソファの端に腰を下ろしている。
そして、そのまま眠ってしまうこともあった。
灯りは、落とされている時もあれば、点いたままの時もあった。
どちらでも、問題はなかった。
夜半、腕に重みを感じて、瀬人は視線を落とす。
アテムが、眠ったまま、瀬人の服の袖を掴んでいる。
強い力ではない。
だが、無意識に離すまいとしている形だった。
瀬人は、しばらくそれを見ていた。
振りほどく理由はない。
意味を考える必要もない。
ただ、そのまま、手を伸ばす。
アテムの身体を引き寄せ、腕の中に収める。
拒まれることはない。
灯りを落とす。
暗闇が来る。
それでも、数は始まらなかった。
夜は、ただ、夜だった。
瀬人が冥界で夜を過ごす時、アテムの定位置は、いつの間にか、その腕の中になっていた。
静かな夜だった。
冥界の灯りは、最低限に落とされている。
影はある。
闇もある。
だが、それは、排除すべきものではなかった。
瀬人は端末を閉じる。
作業を終えた、というより、続ける必要がなかった。
理由はなかった。
アテムが、すぐ傍に居た。
触れてはいない。
だが、距離は、触れることと同じ意味を持っていた。
「……海馬。」
呼ばれる。
瀬人は、視線を向ける。
それだけで、充分だった。
アテムが、一歩近付く。
袖に触れる。
掴む。
許可を求めるような力ではなかった。
確認だった。
瀬人は視線を落とす。
アテムの肩、喉、呼吸の動き。
どれも、もう知っているものだ。
「どうした…今日は、冷えるのか?」
逃げ道を作るような一言。
それでも、アテムは笑わない。
「そうだ。」
瀬人は、何も言わない。
ただ、拒まない。
それだけで、答えになった。
夜は、静かに続いた。
「…行くか。」
瀬人の声は低い。
問いではなく、確認。
アテムは答えない。
ただ、指に力を込める。
それで充分だった。
灯りは落とされない。
だが、もう意味はない。
夜は、ここから先を知っている。
朝の光が、天井を薄く染める。
瀬人は目を覚ましていた。
腕の中に、重みがある。
アテムは眠っている。
呼吸は、深く、安定している。
指は、まだ、瀬人の服を掴んでいる。
無意識の形だった。
離れる理由を、必要としていない形だった。
瀬人は、そのまま、動かなかった。
起きる必要がなかった。
アテムが、小さく息を吐く。
僅かに、身を寄せる。
暗闇を、探してはいない。
ただ、そこに居る。
それだけだった。
しばらくして、アテムの指が緩む。
目が、ゆっくりと開く。
「……朝か。」
「まだだ。」
瀬人は答える。
時計は見ない。
時間は、測る必要がなかった。
アテムは、何も言わず、再び目を閉じる。
数は、数えられなかった。
数える必要が、なかった。
夜は、終わっていた。
それでも、終わらせる理由はなかった。
夜が明ける頃も、アテムはまだ瀬人の腕の中にいた。
体温だけが、そこに在った。
そんなある日、瀬人は気付く。
アテムが、灯りの少ない回廊を歩いている。
ほんの数歩分。
影の中。
足は、止まらない。
瀬人は何も言わない。
アテムも、何も説明しない。
それで充分だった。
冥界の夜は、相変わらず、静かだった。
そして──
以前よりも、明るかった。
