
冥界の書庫は、静かだった。
紙の匂いはしない。ここにあるのは記録であって、記憶であって、現世にあるような生の本ではない。それでもアテムは、棚の間を歩く度に、どこか懐かしさに似た感覚を覚えていた。
初めて海馬瀬人と出会った時も、彼は本を読んでいた。
ふと、そんなことを思う。
理由はない。意味もない。ただ、思い出しただけだ。
あれが、こうして生涯の好敵手に、ましてや恋人になるなど、当時の自分は知る由もなかった。
そんなこと、互いに知らなかったに違いない。
アテムはくすりと小さく笑みを浮かべ、棚に並んでいる記録の束を撫でた。
瀬人が冥界を訪れたある日、アテムは書庫の一角で彼を迎えた。並んで歩きながら、何気なく口を開く。
「初めて会った時、何の本を読んでいたんだ?」
「本?」
「ほら、緑色の…分厚い…。」
瀬人は、僅かに足を止めた。
記憶を辿るように、一度だけ瞬く。
「本など……」
言葉が途切れる。
ほんの一瞬の沈黙の後、瀬人は呼吸を整え、小さく息を吐いて続けた。
「掃いて捨てるほど読んだ。」
それ以上は、何も言わない。
アテムは、その相変わらずの台詞に、へえ、と小さく笑った。
それ以上は追及することも、深掘りすることもなく、その話題はそこで終わった。
現世に戻った瀬人は、海馬邸の書斎にいた。
仕事の合間、無意識のように視線を巡らせ、本棚の前を歩く。
棚の一角で、緑の厚い背表紙が目に入った。
冥界での会話が、遅れて蘇る。
「何の本を読んでいたんだ?」
あの問いに、もしも答えていたら。そう考えかけて、瀬人は思考を断ち切った。
緑の背表紙に、ほんの一瞬だけ視線を留める。
手を伸ばすことはない。
まるでそこには何もなかったかのように、瀬人は棚を閉じた。
冥界で過ごす時間は、思っていたよりも穏やかだった。
瀬人は相変わらず忙しなく、現世と冥界を行き来している。
仕事は忙しいらしいが、それでも来ると決めた日は必ず現れ、来たからには、いる時は徹底している。
触れ方も、抱き寄せ方も、相手を確かめるようでいて、迷いがない。
アテムはその腕の中で、時折、呆れたように息を吐きながらも、拒む理由を見失っていた。
そもそも、愛を拒む理由などない。
一時も腕を離さない瀬人にアテムが苦笑を浮かべる。
「相変わらず強引だな。」
そう言えば、瀬人は鼻で笑う。
「今更だろう。俺は初めからこうだ。」
否定も弁解もない。
ただ、自分はそういう人間だと宣言するだけだ。
瀬人が静かにアテムの手を取る。
軽い触れ合いだけで、互いの心拍や息遣いが自然に伝わる距離だった。視線を交わすだけで、言葉は必要ない。
瀬人の指が、アテムの背筋を辿る。
まるで新しい地図を書き換えるかのような、執拗さを伴って。
「……海馬、そんなに強く……。」
言葉を遮るように、瀬人の唇がアテムの項に触れた。
刻まれるのは、生の熱と、逃げ場のない支配。
アテムは僅かに肩を寄せ、息を詰める。
瀬人もまた体の向きを微かに重ね、その反応を逃さず見つめていた。小さな呼吸の乱れ、指先の緊張。その全てに即座に応じるように、手を添え、距離を詰める。
アテムは身をよじることも、拒むこともない。
ただ、その濃密な観察と行動に身を委ねていた。
瀬人は、アテムの肌のひとひら、呼気の一音さえも聞き逃さず、己の領土として静かに開拓していく。それは愛撫というにはあまりに傲慢で、しかし祈りというにはあまりに熱を孕んでいる。
「……もう……。」
限界を訴える声を、瀬人は慈悲のない口づけで塞いだ。
停滞も、躊躇も許さない。アテムの指先がシーツを掴み、その身体が与えられる感覚に溶け、弓なりにしなる。
露わになった喉元に、瀬人は自らの正解を刻み付けるように吸い付いた。
言葉を選ばずとも、視線と指の動きだけで伝わる。
──守り、甘やかし、蕩かす。
その意思を、アテムは受け入れる。
呼吸を乱しながら、僅かに笑う。
それだけで充分だった。
何一つ、特別なことはしていない。
ただ、互いの存在を丸ごと受け入れ、寄り添い、意識の中で重なる。その行為だけが、世界の輪郭を揺らしていく。
これは快感だけを目的としたものではない。
相手がここに在ることを確かめる、その事実そのものが圧倒的に尊い。
瀬人の手の温もり。
アテムの視線。
呼吸の、僅かなずれ。
それら全てが、理解と受容を確かめるための、静かな儀式だった。
瀬人の行為は、アテムという王の「無私」を焼き、ただの「瀬人の恋人」として再定義していく。
絡み合う指先、混じり合う吐息。
その熱情は、アテムの心を愛という名の悦びに繋ぎ止める。
執拗さは、暴力ではない。ただ、ひたすらに甘い。
2人だけの呼吸と間合いに合わせた、ただの愛情表現だった。
だからこそ、溺れる。
「過去」の全てを、今この瞬間の肉の熱が塗り替えていく。
アテムは、瀬人に抱き締められる度に、己の魂が彼の色彩と混ざり合っていくのを感じていた。
それがどれほど甘美な蜜であることか。
その夜も、身体を重ねたあと、2人は並んで横になっていた。
瀬人にとって、アテムを抱くという行為は、単なる愛欲の発露ではない。それは、実体のない「記憶」に過ぎない男を、無理矢理にでも「肉体」という檻に引き戻し、今この瞬間の生に繋ぎ止めるための儀式だ。
瀬人は天井を仰いだまま、唐突に言う。
「俺は判断を誤らない。」
甘い余韻の中に、唐突に差し込まれる言葉。
アテムは一瞬だけ瞬いたが、すぐに肩を竦めた。
「またそれか。」
「事実だ。」
瀬人は迷いなく言い切る。
「お前がここにいる現実についても、後悔はない。選択として、最善だ。」
それは、断言だった。
慰めでも、取り繕いでもない。
アテムは、瀬人の胸元に額を寄せ、小さく笑った。
「断定するな。たまには、少しくらいは謙虚に揺らげよ。」
「揺らぐ必要がない。」
そう言いながら、瀬人はアテムの髪に指を差し入れる。
その仕草は、言葉とは裏腹に、驚くほど丁寧だった。
「勿論…こうして関係を結んだ判断も、正しかった。」
その声音は低く、静かで、甘い。
肯定という名の確信を、疑いなく差し出してくる。
アテムには至高の愛の告白に聞こえた。己を選び、次元を裂いてまで会いに来た男の、迷いのない肯定。
アテムもまた、心の中で、同じ言葉を反芻する。この瞬間を「良かった」と噛み締め胸の奥が満たされるのを感じていた。
この関係が始まったことも、今ここにある温もりも。
関係を結んだのは戦いの儀の前夜だ。
せめて生涯の好敵手にはきちんと別れを告げようと、デッキを組んだ後に瀬人の部屋を訪ねた。
「……何の用だ。決戦を前に、遊戯と傷の舐め合いでもしていたのではないのか。」
冷ややかな声。瀬人はディスプレイのブルーライトを浴びながら、視線すら動かさない。アテムはその背中に、孤独な高みにのみ身を置こうとする者の峻烈な気高さを見た。
何から切り出して良いか悩んだ。ただ、いきなり別れの言葉は口にできなかった。
「あぁ。デッキを組み終えて。…海馬、礼を言わせてくれ。記憶の世界では助かった。お前が居なければ、俺達は負けていた。」
「ふん。礼など無価値だ。『勝手にしろ』と言ったのは貴様の方だ。俺はただ、俺の認めた宿敵を、得体の知れぬオカルトに奪われるのが不快だったに過ぎん。」
瀬人がゆっくりと椅子を回転させる。その瞳は、感謝や感傷といったものは切り捨てた者の目。弱さを一切含んでいなかった。
いつもの素直でない言葉にアテムは苦笑する。
「…そうだったな。だが、救われたのは事実だ。」
「俺はオカルトに巻き込まれただけだ。」
「今ではもうオカルトではないだろ?」
「…今更、何が起ころうと…、貴様に関わると碌なことが起こらん。何度、世界を滅亡させるつもりだ。」
少し前にも、ドーマによって世界はリセットされる寸前だった。
あの時にも、瀬人は口では協力的ではなかったものの、アテムに手を貸した。
「訂正しておくが、俺が滅亡させようとした訳じゃない。」
「…違いない。」
対峙もした。共に闘いもした。
生涯の好敵手。
だが、明日闘う相手はこの男ではない。そして、もう闘うことは出来なくなるかもしれない。
「お前とこうして、ゆっくり話せて良かった。」
アテムは苦笑し、一歩歩み寄る。2人の距離が、運命の境界線を越えるように縮まった。
「だが、明日…俺は相棒と戦う。勝っても負けても、俺はもう、ここには居られないに違いない。冥界へと至る扉が開かれるだろう。」
アテムの言葉に、瀬人の眉間に鋭い皺が寄った。瀬人にとって、アテムが「いなくなる」ことは、倒すべき絶対的な頂点が消えることを意味する。それは自己の存在意義すらも揺るがしかねない、あってはならない「虚無」だった。
「貴様、俺以外のデュエリストに負けるつもりか。」
還る、還らないの話ではなく、そう言って不機嫌を顕にした。
瀬人が立ち上がる。その威圧感は、神さえも踏み越えようとする者のそれだった。
無論、アテムも負けるつもりなどなかった。だが、いつか冥界へ還ることは運命づけられたことでもあった。
「負けるつもりはない。それでも、いつかは還る日が来る。だから…。」
「ならば、俺が新たな楔を打ち込んでやろう。冥界の安らぎなど、貴様には似合わん。頑丈な鎖で、その魂を縛り付けてやる。」
「…何を、するつもりだ。」
困惑するアテムの唇の間際で、瀬人は不敵に、そしてこの上なく美しく微笑んだ。
「愛している。」
沈黙。
船内の音が消えたようだった。
呼吸を忘れた。アテムの目が見開かれる。
その言葉は、求愛ではなく、支配の宣言だった。アテムという存在を、自らの「力への意志」によって永遠に所有するという誓い。
「……そして貴様も、同じはずだ。俺という高みを知った貴様の魂が、凡庸な死に満足できるはずがない。」
アテムは言葉を失った。激しい拒絶の裏にある、狂おしいまでの肯定。
瀬人が求めているのは、安らかな愛ではない。互いを高め合い、破壊し合い、永遠に繰り返される闘争の中でしか味わえない、至高の生命の輝きだった。
瀬人は続けた。
「俺は判断を誤らない。お前を選んだ。」
否定は出来なかった。いつからか、アテムにとって瀬人は、好敵手というだけでは処理できない感情を齎す存在となっていた。
そんな相手からの愛の言葉に、動揺するなと言うのが無理な話だ。
「海馬…。お前は本当に…傲慢な男だ。」
アテムは小さく息を吐き、微笑を返した。その瞳には、宿命に抗おうとする男への、深い敬愛と共鳴が宿っている。
「勝ち残れ、アテム。貴様を倒し、その魂を完全に手にするのは、この俺だ。」
瀬人の腕がアテムを引き寄せる。
明日、世界が分かたれるとしても。この瞬間に交わされた魂の契約は、あらゆる理を超えて、2人を繋ぐ永遠となった。
冥界で王として過ごす日々は、いつしか「役目」から「日常」に変わっていた。
裁き、命じ、見届ける。
死者の嘆きも、祈りも、もう胸を抉るほどではない。
それでも、ある瞬間だけ、唐突に過去が立ち上がる。
──あの時。
玉座の傍らで、アテムはふと手を止めた。
視線の先には、かつてと同じように並ぶ魂たちがいる。
違うのは、彼らがすでに死者であるということだけだ。
もっと、救えたのではないか。
思考は、静かに忍び寄る。
責める声ではない。叫びでもない。
ただ、淡々とした問いだった。
3000年前、王として選び続けた選択。
最善を尽くした筈の判断。
それでも、失われたものは確かにあった。
次こそは。
誰にも聞かせず、アテムは心の中でそう決める。
次があるなら、守る。
その決意は、誓いというより、癖のようなものだった。
王であった者が、自然と身に付けてしまった思考回路。
その日の後、瀬人が冥界を訪れた。
現世の匂いを僅かに纏ったまま、瀬人はいつも通りの調子で言う。
「相変わらずだな。ここは。」
「俺はもう、慣れたぜ。」
短く返すと、瀬人は満足そうに口角を上げた。
しかし、スッと目を細める。
「…顔色が悪いな。」
「本当によく見てるな。…昨夜は遅くまでやることがあって、少し頭痛がするんだ。」
瀬人は薬のシートを取り出し、アテムの手に押しつけた。
「痛むのなら早く言え。」
「…ありがとう。」
アテムは小さく礼を言い、
錠剤を二粒飲み込んだ。
2人で並んで歩きながら、瀬人は冥界へ来るために行ったことを、まるで業務報告のように語る。
次元理論。量子干渉。オカルト。
常人なら一笑に付すような話を、瀬人は現実として実行してきた。
「無茶だと思われただろうな。」
アテムが言うと、瀬人は即座に否定する。
「無茶ではない。必要な手順だ。」
迷いがない。
「俺は俺のやり方でやるまでだ。理解出来ない者が理解する必要はない。」
言葉は冷静で、淡々としている。
だが、その根底には、揺るぎのない確信があった。
「海馬。」
アテムが呼びかける。
瀬人は振り返らない。ただ前を向いたまま、短く言う。
「過去など、俺の未来の設計図には不要だ。」
その背中は、相変わらずで、まっすぐで、孤独で、眩しかった。
「俺は判断を誤らない。」
アテムは、その言葉を聞きながら、なぜか胸の奥が静かになるのを感じた。
否定したいわけではない。
不快でもない。
むしろ──
強い。
そう思った自分に、微かな驚きを覚える。
後悔を語らない人間。
もしも、を口にしない人間。
瀬人は、選び、決め、前に進む。
過去を振り返らない。
──理想だな。
その感想は、羨望に近かった。
アテムは、自分が王として選び続けてきた無数の分岐を思い出す。
あの時、ああしていれば。
もし、こちらを選んでいれば。
それでも理解している。
「もしも」など、どこにもないことを。
だからこそ、瀬人の在り方は、眩しく映った。
それはただ、静かに血に溶け込んでいった。
冥界の王宮は、夜と呼ぶにはあまりにも静かだった。
月も星も届かない回廊に、時間だけが沈殿している。
アテムは独り、玉座の縁に指先を掛け、3000年前の記憶や、記憶戦争をなぞっていた。
勝利よりも先に浮かぶのは、倒れ伏した神官たちの背中。
守りきれなかった民の祈り。
破壊された国。
王として選び、王として切り捨てた無数の可能性。
「もしも──」
その言葉は、喉の奥で止まる。
アテム自身が、誰よりも理解しているからだ。
もしも、などない。
王とは、選ばなかった未来を抱えて生きる存在だ。
その覚悟を、アテムは3000年前に引き受けた筈だった。
それでも。
今の彼の傍には、その理を、あまりにも簡単に踏み越えてしまう男がいる。
海馬瀬人。
判断に迷わず、決断に躊躇せず、選んだ道を一切振り返らない男。
「俺は判断を誤らない。」
その言葉を、瀬人は誇示するでもなく、ただ事実として語る。
後悔という概念が、瀬人の辞書には存在しないかのように。
それは、アテムにとって救いだった。
瀬人が「今」を肯定する度に、アテムの存在もまた、無条件に肯定される。
過去を問われない。
選択を責められない。
ここにいること自体が、正解として扱われる。
あのように、生きられたなら。
瀬人の思想は、あまりにも明快で、あまりにも強い。
「もしも」を許さず、「今」を切り捨てない。
選択の結果を、全て自分のものとして前に進む。
アテムは知っている。
自分は、同じようには思えない。
3000年前の戦いを、「あれで良かった」と言い切ることは出来ない。
犠牲を、最善だったと断じることも出来ない。
それでも、瀬人の姿を見詰める度に、胸の奥で何かが軋む。
羨望。
理想。
そして、僅かな自己嫌悪。
瀬人の揺るぎなさが、アテムの中に沈めていた悔恨を、静かに掘り起こしていく。
忘れた振りをしていた「王としての後悔」が、泥のように濁り、形を持ち始める。
自分は弱いのだろうか。
瀬人の潔癖なまでの自己肯定は、責める言葉を一切持たない。
だからこそ、アテムには逃げ場がなかった。
許されている筈なのに、赦されない気がする。
肯定されているのに、自分だけが自分を裁いている。
その夜、アテムは初めて、3000年前の夢を見る。
倒せたかもしれない邪神。
救えたかもしれない神官。
選ばれなかった、無数の世界。
瀬人は、夢の中には現れない。
だが彼の声だけが、はっきりと残る。
──もしも、などない。
冥界の王宮に、足音がひとつ、静寂を裂いた。
「……何を考えている。」
背後からかけられた声に、アテムは思考の底から引き上げられる。
振り返ると、そこに瀬人がいた。
視線は鋭く、しかし焦点は正確で、アテムの内側の揺らぎを逃がさない。
「何でもない。」
反射的にそう答えかけて、アテムは息を止めた。
嘘をつく理由が、見当たらなかった。
「……いや、正直に言おう。」
アテムは小さく息を吐き、自嘲気味に口角を上げる。
「『もしも』のことを考えていた。3000年前、俺がもっとうまくやれていれば、と。」
瀬人の眉が、僅かに、だがはっきりと動いた。
嫌悪ではない。拒絶でもない。
それは、理解不能なものに向けられるものだった。
一歩踏み出し、アテムの肩をそっと抱く。
強くもなく、逃げられない程でもない。
それでも、アテムを逃がさないには充分な力。
「無意味な仮定だ。」
即断だった。
切り捨てるようでいて、断罪ではない声音。
「だが、あえて答えてやる。」
瀬人はアテムを見下ろす。
そこにあるのは、揺るぎない確信。
「仮にこの人生を、お前の記憶の世界でのあの戦いも、この別離も、あらゆる苦痛を含めて──。」
言葉を区切り、瀬人は続ける。
「何度でも、永遠に繰り返すとしても、俺はお前を選び続ける。」
そして、迷いなく言い切った。
「その全てを、間違いではないと言える。」
アテムの胸が、どくりと鳴った。
それは、疑いようのない愛の言葉だった。
条件も、留保もない。
過去も、未来も、選択の結果すらも、全てを抱き締める宣言。
「…そうか…ありがとう。」
そう返した言葉は、確かに本心だった。頬には赤みが差し、唇には微かな笑みさえ浮かんでいた。
瀬人の言葉は熱烈で甘い。
いや、甘いというより、強い。
強すぎて、包まれているように錯覚してしまうほどに。
だが。
瀬人が現世へと戻り、王宮に再び独りきりになったとき。
アテムは、書庫の椅子に腰を下ろし、無意識のうちに、同じ癖を繰り返していた。
もしも──
思考が、そこで止まる。
間違いではないと言えない。
瀬人の言葉を、肯定出来ない自分がいる。
あの惨劇を。
救えなかった命を。
王として選び、切り捨てた無数の未来を。
それら全てを「もう一度、永遠に繰り返してもいい」とは、どうしても思えない。
指先が、震え始める。
全てを肯定する、ということは。
修正も、救済も、やり直しもないまま、あの地獄を受け入れろということだ。
それは──
アテムは、漸く理解する。
瀬人の言葉は、祝福だった。愛だった。
だが同時に、王としての自分を、完全に切り裂く刃でもあった。
個としてのアテムは、救われた。
だが王としてのアテムは、その言葉に息を奪われる。
瀬人は間違っていない。
愛は本物だ。
ただ──価値観が、致命的に違う。
その夜、アテムは震えながら、初めて願ってしまう。
もしも、瀬人のように、肯定できる王であれたなら、と。
その願いこそが、静かに、だが確実にアテムを切り裂いていた。
冥界の空気は、いつもより重く感じられた。
瀬人が次元を越えて降り立った瞬間、違和感があった。
王宮は静かだ。
だがそれは、整然とした静けさではない。
何かが、抜け落ちた後の空白だった。
「アテム。」
呼びかけても、返事がない。
瀬人は足を進め、書庫の奥で、漸く姿を見つけた。
そこにいたのは、王冠を戴く冥界の王ではなかった。
書架にもたれるように座り込み、視線を落としたまま、
まるで重力そのものに押し潰されているかのような少年。
「……アテム?」
声を低くして呼びかけた、その瞬間。
瀬人の思考が、一気に過去へ跳んだ。
──数日前の会話。
──「もしも」を口にした声。
──そして、自分が言い切った言葉。
『永遠に繰り返しても、間違いではないと言える。』
凍りつく。
理解は、瞬時だった。
触れさせた。
あれは、瀬人の中で"禁書"にした筈だった。
絶対にアテムに触れさせないと決めたもの。
だから何の本を読んでいたのか、という問いは、はぐらかした。
その本も海馬邸の書斎に置いたままにしてある。決して触れさせないために。
アテムの過去と、アテムの性質に対して、最悪の組み合わせだからだ。
瀬人にとっては、他人の思想など毒にも薬にもならない。
だが、アテムにとっては毒にしかならない。
責任を引き受け、悔いを抱き、「もっと救えたのではないか」と考え続ける王に対して、"あれ"の“肯定”は、救済ではない。
それは──
「悔やむ自分を否定しろ」という命令になる。
瀬人は、初めて自覚する。
自分が与えたのは、愛の言葉ではなかった。
愛の言葉の裏には潜んでいるものがあった。
思想だった。
しかも、調合を誤ったもの。
それを冥界に持ち込んだのは、瀬人自身の行動や言動だった。
このままでは壊れると直感した。
迷いはなかった。
既に、言葉で説明する段階ではない。
「アテム!」
瀬人は駆け寄り、崩れかけていた身体を、力任せに引き寄せる。
拒絶される可能性など、考えなかった。
今、必要なのは理解でも納得でもない。
体温だ。
腕の中で、アテムの身体が微かに震えているのが分かる。
思考が、凍結している。
言葉を噛み砕く力すら、残っていない。
瀬人は、腕の中の震える背中を見つめながら、かつて一読して放り出した緑の背表紙の文言を反芻する。
完全に一致していた。
それは、戦慄だった。自分がアテムに与えてきた愛の告白も、魂への執着も、全てがあの本の頁に整然と並んでいた。
自分がアテムの傷口を塞ごうと重ねた手のひらが、実はその傷をさらに広げる腐食剤であったという事実。
瀬人の傲慢なまでの自己肯定こそが、王として悔恨に殉じようとするアテムを、呼吸もできぬほどに追い詰めていたのだ。
「……大丈夫だ。」
何が大丈夫なのか、説明しない。
出来ない。
だから、ただ抱き締める。
逃げ場を塞ぐように、しかし壊さぬように。
物理的にも、精神的にも、離さないという意思そのものとして。
瀬人は悟る。
ここで語れば、また刃になる。
ここで思想を与えれば、さらに毒が回る。
だから、何も教えない。
何も肯定しない。
何も切り捨てない。
ただ、ここにいる。
「……俺のものだ。」
独占の宣言ではない。
管理でも支配でもない。
──責任の言葉だ。
禁書を与えたのは、自分だ。
ならば、その副作用が抜けるまで、抱き締め続けるのも、自分の役目だ。
瀬人は、腕に力を込める。
思想で殺したのなら、肉体で繋ぎ止めるしかない。
瀬人は、自らの唇を噛み締めるように閉ざした。今、何かを囁けば、それはアテムを永遠に否定する呪文になるだろう。
だから、自らの思想をすべて腕の力に変えて、アテムを閉じ込める。
体温だけが、唯一、あの忌々しい緑の本に記されていない、意味を持たない事実だった。
思想で壊したのなら、思想を使わずに、止めるしかないのだ。
その夜、冥界の書庫で、王は何も考えず、ただ、誰かの腕の中で、呼吸を取り戻していった。
冥界の王としての務めは、滞りなく果たせていた。
裁きも、調停も、采配も。
アテムは王として、相変わらず正確だった。
誰の目にも、揺らぎは見えない。
だが、王冠を外した瞬間、思考は別の顔を持つ。
──肯定せよ。
それは声ではない。
命令ですらない。
いつの間にか、思考の前提条件として、そこに在る。
救えなかった民。
失われた臣下。
別の手を選べなかった、無数の分岐。
王であった以上、それらは「仕方なかった」で済ませてはならない。
全てを肯定することは、惨劇を許すことだ。己の手についた血を許すことなど出来はしない。
次はより良い道を選ぶべきだと、願ってしまうのが、アテムという存在だ。
だが、その願い自体が、裁かれる。
──それでも肯定せよ。
──修正不能な過去を含めて、選び直すな。
人生は繰り返せない。
だからこそ、この人生を繰り返すなら、あの時は違う選択をするのに、と、思ってしまう。
繰り返せないからこそ、自分によって、自分が赦されない。
神は沈黙している。
救済は、用意されていない。
正解も、与えられない。
それでも生きろ。
それでも肯定しろ。
逃げ場のない思考の円環。
それは誰かに罰される地獄ではない。
自分自身が、自分を裁き続ける地獄だ。
アテムは、それを言葉に出来なかった。
言葉にすれば、また思想になる。
思想になれば、さらに絡め取られる。
だからアテムは、選ぶ。
何も考えず、
何も選ばず、
ただ、そこに在る温度に身を預けることを。
瀬人の腕の中。
強くも、優しくもない、逃げ道のない抱擁。
守られているというより、思考が、これ以上崩壊しないための応急処置の包帯。
それと同時に、アテムは、瀬人の腕の中で、己の希薄さを突きつけられる。
瀬人の放つ「生」の圧力は、死者への無言の詰問だ。
アテムは目を閉じる。
赦されないことも、肯定出来ないことも、今は、置いておく。
考えられないからではない。
考え続ければ、壊れると知っているから。
この地獄に名前を付けるなら、それは「呪い」だ。
そして、その呪いを生んだ思想の主が、今も、離れずにここにいる。
それだけが、唯一、円環の外側にある事実だった。
瀬人は、抱き締める腕の力を、ほんの僅かだけ緩めた。
逃がすためではない。
言葉を、届かせるためだ。
「アテム。ひとつだけ、覚えておけ。」
低く、しかし明確な声だった。
命令でも、慰めでもない。
「“それ”は俺の思想だ。お前が背負うものではない。」
アテムの身体が、僅かに強張る。
胸の奥で絡まり続けていた何かを、正確に指し示されたことに、遅れて気付いた。
言葉にしていない呪い。
名付けることすら出来なかった、思考の前提。
瀬人には、それらが見抜かれていた。
「王であるお前には、“肯定”の義務などない。お前が持つのは、“悔やむ権利”だ。」
断定だった。
否定ではない。上書きでもない。
「救えなかったと悔やむことを、捨てるな。お前は俺ではない。お前がお前である限り、その痛みを手放す必要はない。」
アテムは、何も答えられなかった。
反論も、同意も、出来ない。
ただ、胸の奥で何かが軋む音がした。
「考えなくていい。」 一拍置いて、瀬人は続ける。 「考えてもいい。」
矛盾しているようで、それは正確だった。
「それでも俺は、ここに来る。」
約束ではない。
未来の保証でもない。
事実の提示だ。
その言葉通り、瀬人は来た。
一度や二度ではない。
思考が沈み、
悔恨が浮上し、
再び呪いが形を取りかける度に。
すぐに「考えない」ことなど、出来はしない。
あの重みは、そんなに都合よく手放せるものではない。
それでも。
崩れそうになる思考も、
砕けかけた身体も、
瀬人がそこに在れば、再び形を取る。
救われるわけではない。
赦されるわけでもない。
ただ、壊れきらずに、在り続けられる。
同じ思想を背負わない。
同じ答えを持たない。
それでも、隣に立つ。
それが、瀬人の選択であり、アテムに与えられた、唯一の余白だった。
瀬人は、来続けた。
特別な理由を語ることもなく、決まった時間を設けるわけでもなく、ただ、来るべき時に現れた。
冥界の王宮に、書庫に、静かな回廊に。
アテムが沈黙していようと、思索に沈んでいようと、変わらない。
ある時、瀬人は唐突に口を開いた。
「勘違いするな。」
それは叱責ではなかった。
確認だった。
「“それ”に正解はない。許しも、救済もない。」
言葉は冷たいほど明瞭で、余計な装飾を一切持たない。
「だが、意味は作れる。」
瀬人は、アテムを見なかった。
まるでこの言葉が、説得でも慰めでもないことを示すように。
「誰かが与えるものではない。俺が与えるものでもない。お前自身が作るものだ。」
一拍、沈黙が落ちる。
アテムは、その続きを待ってしまった。
──それでも生きろ。
──それでも肯定しろ。
だが、瀬人は何も言わなかった。
その沈黙で、アテムは理解した。
言われないことの意味を。
生きろ、とも。
肯定しろ、とも。
瀬人は、決して命じない。
その部分だけは、各々の領分だからだ。
呪いの核は、最初から瀬人の思想であり、瀬人自身が引き受けるべきものだった。
「……随分、乱暴だな。」
アテムが、ようやく口を開いた。
意味を作れと言われても、何をもって、どこから始めればいいのか。
だが、瀬人は肩を竦めるだけだった。
「知ったことか。」
瀬人は、わずかに視線を逸らした。
冥界の回廊に落ちる光を、意味もなく追う。
本当は、これ以上"それ"に触れる気はなかった。
再び言葉を重ねれば、また余計なものを渡す。
それでも──
「……お前が俺に初めて会ったあの日に…俺が読んでいた本について、知りたがっていたな…。」
「…本…?覚えてないんじゃ…。」
「履いて捨てる程読んだが、覚えている。」
瀬人は視線を合わせない。
アテムの声は震える。
「"それ"には…何が、書かれていたんだ?」
何故、瀬人が隠したのか、今更になってそれを口にするのか。アテムには朧気ながら解っていた。
「…"俺"にとっては、"あれ"はただのアルファベットの羅列に過ぎなかった。」
アテムは、すぐに言葉を返せなかった。
視線が揺れ、何かを掴み損ねたまま、息をひとつ落とす。
──そんな筈がない。
そう言い切れるほど、自分の中は整理されていない。
「…"お前"に、とっては…?俺には……」
声にした瞬間、それがひどく重たい言葉だと気付く。
続きを繋げれば、何かが決定的に壊れる予感があった。
見詰めて続きを待つが、瀬人は内容を語らない。
ただの一冊の本。しかし、自分にとっては致命的な何かだということだ。
「そうだ。ただ、"そういったもの"に触れたところで…意味を作るかどうかは、お前の自由だ。」
理解を促さない。
逃げ道も与えない。
アテムは、答えを探そうとして、やめた。
今はまだ、その問いを抱えるだけで精一杯だった。
瀬人の言葉は、突き放すようでいて、放棄ではない。
主語を、返している。
アテムは、胸の奥に、微かな変化を覚えた。
絡みついていた思考の輪が、完全に外れたわけではない。
だが、その中心にあった「肯定せよ」は残るものの、命令はしない。
瀬人に、取り上げられたのだと分かった。
呪いの一部を。
救われた、とは思わない。
赦された、とも思えない。
それでも。
意味を作る場所が、ようやく自分の内側に戻ってきた。
瀬人は、また現世へと戻る。
次に来るかどうかも、予告しない。
だが、来るだろうという確信だけは残る。
それで充分だった。
正解はない。
救済もない。
それでも、意味を作る余地は、確かにここにある。
アテムは、その余白を、初めて「自分のもの」として、静かに見詰めた。
冥界の夜は、変わらず静かだった。
だが、以前のような圧迫感はない。
思考の中で、ぐるぐると回り続けていた命題は、もうない。
命じられもしないし、拒まれもしない。
アテムは、書庫の奥で瀬人と並んでいた。
「……それでも。」
ゆっくりと、言葉を選ぶ。
「それでも、俺は『もしも』を思うんだ。」
瀬人は、遮らない。
「3000年前、同じ場面でも、違う手を選べたのではないかとな。次こそは、もっと救えたのではないかと。」
言い終えてから、アテムは瀬人を見た。
拒絶されることも、正されることも、もう恐れてはいない。
瀬人は、少しだけ考えるような間を置いた。
「……そうか。」
それだけだった。
「“それ”がお前にとって意味があるのなら、そうなのだろう。」
否定でも、慰めでもない。
ただの受容。
「俺とお前は、イコールではない。」
瀬人は、淡々と言った。
「俺は『もしも』を切り捨てる。そして、お前は、『もしも』を抱える。それだけの話だ。」
どちらが正しいかなど、測る必要はない。
アテムは、静かに息を吐いた。
「ある。」
短く、だが確かな声で。
「意味は、ある。今は……冥界の王だから。」
王である限り、同じ場面に立てば、違う選択をする可能性を考え続ける。
それは、悔恨ではない。
責務だ。
瀬人は、その答えに、ほんの僅かに口元を緩めた。
「ならば、それでいい。」
アテムは、微笑んだ。
言葉は、もう要らなかった。
ただ、抱き合った。
依存でも、庇護でもない。
互いに違うまま、立っていることを確認するように。
やがて、瀬人は現世へ戻る。
書斎は、相変わらず整然としていた。
棚の奥、緑の背表紙が、まだそこにある。
瀬人は、一瞬だけ視線を向けた。
瀬人にとって、あの緑の本に記された他人の思想など、ただのアルファベットの羅列でしかなかった。
だが、それはアテムを内側から焼き尽くす劇薬になるだろうと直感した。だから隠した。
それでもアテムは"それ"を見つけて、触れてしまった。
瀬人が"それ"であろうとしたのではなく、彼そのものが"それ"の雛形であったという事実。
手に取るも、開かれることはない。
本は、暖炉の中へ放り込まれる。
紙が燃え、思想が、灰になる。
否定でも、拒絶でもない。
ただ、必要がないからだ。
瀬人は、炎を見つめながら、呟いた。
「…"あれ"は、俺の思想だ。」
アテムに回った毒は、本の中に書かれた思想ではない。
灰は、静かに崩れ落ちる。
暖炉で灰になったのは、紙に刷られたインクの記号に過ぎない。
冥界では、アテムが王として歩いている。
もしもを携えたまま、選び続けるために。
現世と冥界。
思想と在り方。
2人は等しくはない。
だが、並び立つことはできる。
それだけで、充分だった。
作中で触れられる「緑の本」は、遊戯王DMで社長が読んでいた
ニーチェ『Also sprach Zarathustra』
本文中で説明はしていませんが、気になった方は、原典に触れてみてください。
…彼は、他人に指図される男ではないので、ドイツ語の復習でもしていたのだと思ますが。
※瀬人≠ニーチェ
