飲んだくれと理性

酒は飲んでも飲まれるな


挿絵

夜風がグラスの縁を撫でる。
薄い琥珀が、灯に揺れるたび、アテムの睫毛に小さな影を落とした。
瀬人はその横顔を横目で見ながら、無言でワインを傾ける。
今宵もまた、2人は理由もなく杯を重ねていた。
「…お前、強い酒は向かないだろう。」
「そうか?気分がいいだけだ。」
アテムは笑って、空になったグラスをまた差し出す。
瀬人は短く息を吐き、瓶を取り上げながらその手を押し留めた。
「もうやめておけ。これ以上は理性が溶ける」
「理性?お前のか、俺のか?」
挑むような微笑。
瀬人の指先が、グラスの縁からアテムの手首へと、ほんの僅かに触れた。
その一瞬の接触が、空気を変えた。
アテムの眼差しが揺れる。
それは酔いか、あるいは別の熱か。
「…子供のような真似をするな」
瀬人は呟き、空いたグラスを遠ざける。
けれど、その声にあるのは叱責ではなく、宥めるような低さ。
「少し、休め。…お前が冷めるまで、ここにいる」
その言葉に、アテムは何か言いかけて、結局黙った。
沈黙が落ちる。
時計の針の音が、夜の底を刻む。
瀬人の肩越しに見える月が、2人の距離を測っているようだった。


沈黙の中、グラスの音だけが響く。
アテムは視線を伏せ、それからゆっくりと瀬人を見上げた。
「…なぜ、お前は手を伸ばさない。」
その問いは、まるで無防備な囁きのように夜気へ溶けた。
瀬人の眼差しが微かに揺れる。
しかし次の瞬間には、氷のように澄んだ声が返る。
「酔っぱらいは眠れ。」
それだけ。
その一言で、距離が再び戻る。
アテムは唇を噛んだ。
思い通りにいかないこの男の理性が、癪であり、同時に愛しくもあった。
わかっていた。試したいわけではなかった。ただ、ほんの一度でいい。その心の奥を見たいと思った。
アテムは最初から知っていた。
瀬人は決して軽い気持ちで触れない。
だからこそ、酔わせて、理性の隙を見たかった。
けれど。
いつも先に酒に飲まれるのは、自分の方だった。
霞む視界の中で、瀬人の姿が柔らかく滲む。
その指が、空になったグラスを静かに取り上げる。
その仕草すら、酷く優しい。
「…海馬。」
「寝ろと言った。」
「…なら、お前が先に目を逸らせ。」
微笑が、挑発とも哀願ともつかぬ形で浮かぶ。
瀬人は答えず、ただアテムの頬に触れる風を遮るように、幕を閉めた。
夜が、2人の輪郭を包み込む。
触れぬまま、確かに惹かれ合う距離の中で。

やがて、アテムの瞼が静かに落ちた。
途切れた呼吸が、眠りの深さを物語る。
瀬人は、しばらくその寝顔を見つめていた。
月明かりが薄く頬を照らし、髪に銀の光を落とす。
瀬人の指が、思わずその一房をなぞった。
柔らかな感触。温もり。
理性を越えてもなお、触れてしまう衝動。

「…俺まで理性を失ったら、お前はもう戻れない。」

囁く声は、夜に吸い込まれた。
その意味を知る者は、眠るアテムの他にはいない。



夜が明ける。
カーテンの隙間から差し込む朝の光が、2人の影を淡く溶かした。
瀬人はまだ帰らなかった。
机の上のグラスに残る琥珀色が、夜の名残を語っている。
やがて、アテムが目を開けた。
柔らかく光を見つめながら、微笑む。
「…いい夢を見た気がする」
その声に、瀬人は視線を上げる。
表情はいつも通り無機質だが、声だけが僅かに揺れていた。
「それは結構なことだな。」
短く言い、瀬人は立ち上がる。
朝の空気が冷たく、現実へと戻るための線引きを突きつける。
アテムが身を起こす頃には、瀬人の背はもう扉の前にあった。
振り返らずに告げる。
「次は、夢の続きではなく、現実で話すぞ。」
扉が閉まる音が、静寂に吸い込まれる。
アテムはその音を聞きながら、胸の奥に残る温もりを確かめた。
あの夜が夢だったとしても。
その理性に触れたことだけは、確かに現実だった。





冥界の夜は、地上よりも深く静かだ。
風が止むたび、時間さえ止まったように感じる。
その夜、瀬人は1つの箱を持って現れた。
「何を持ってきたんだ?」
「応急処置用品だ。」
「…応急処置?」
瀬人はそれ以上は答えない。
アテムは卓上に並べた2つのグラスを見つめ、少しだけ肩を竦めた。
「…今日も飲むか。」
そう言って瓶を手に取る。
瀬人は無言のまま椅子に腰を下ろした。
栓を抜く音が、沈黙を割る。
やがて瀬人が低く口を開く。
「言いたいことがあるのなら、素面の内に言え。」
その声音は淡々としていたが、確かに核心を突いていた。
アテムの手が一瞬止まる。
注ぎかけた琥珀色が、光の粒を零す。
「…どうして、そう思う?」
表情を取り繕おうとするも、視線は泳いだ。
瀬人は僅かに息を吐き、答えない。
ただ、静かな目でアテムを見詰める。
アテムは短く笑って、グラスを傾けた。
「…そういうのは、言えないものだから飲むんだぜ。」
冗談めかした口調。
けれど、その笑みの奥には、確かな痛みが潜んでいた。
瀬人は心の中で思う。
飲んでも言えていないだろう、と。
だが、それを口にすることはしなかった。
追い詰めることになると分かっている。
瀬人の中では、既に受け入れる準備ができていた。
沈黙の中、2人は同じグラスを見つめる。
それは過去と現在の境界に、微かに揺れる光。
手を伸ばせば壊れてしまうほど、儚く透明な距離だった。
空気は冷たく、酒だけが熱を持っていた。
アテムは何度目か分からない杯を煽る。
冥界の酒は度数が強いわけではない。だからこそ飲み過ぎる。
それでも、アテムは構わず注ぎ足した。
「…気付いているんだろ、海馬。」
掠れた声が、薄い霧のように宙に溶ける。
瀬人は黙ってその様子を見ていたが、やがてグラスを奪い取った。
「その飲み方は感心せんな。」
「お前はいつも涼しい顔をして…俺だけが揺れているみたいだ。」
アテムは笑った。けれど、その笑いは苦く滲んでいた。
瀬人は一拍置いてから、低く返す。
「共倒れしてどうする。」
その声の奥に、理性と痛みが混ざる。
これ以上は酔わせてはいけない。
このまま飲ませれば、アテムは壊れてしまう。
瀬人は静かにグラスを置き、アテムを見詰めた。
「…もう、認めるしかないらしい。」
その一言が、夜を震わせる。

「お前を愛している。」

アテムは目を瞬かせ、次の瞬間、微笑んだ。
「…ああ、やっぱり。そうか。」
まるで安堵したように息をつき、アテムは瀬人の肩に頭を預ける。
「幸せだ。」
そう呟く声が、ゆっくりと眠りに溶けていった。
瀬人はただ、その寝顔を見つめた。
伸ばしかけた手を、途中で止める。
「…酒の飲み方は、教えてきたつもりだったのだがな。」
苦笑混じりの呟きが、夜に吸い込まれていく。



やがて、冥界に朝が訪れる。
淡い光の中で、アテムが目を開けた。
「…幸せな夢を見た気がする。」
瀬人は僅かに眉を上げた。
「またそれか。」
アテムは寝ぼけ眼のまま微笑む。
「夢でも、悪くなかったぜ。」
瀬人は何も言わず、視線を逸らした。
その胸の奥で、燃え残る理性が微かに軋む音を立てていた。
アテムは静かな息を吐いた。
夢の中の言葉が、まだ胸の奥に残っている。
「応急処置をしてやる。」
そう言って、瀬人は隣の部屋へ行った。

お前を愛している。

声の主も、表情も、覚えている。
ただ、それが夢の中でのことだったのか、現実のどちらだったのか、定かではない。
思い出すたびに頬が熱くなる。
「…変だな。」
自分の鼓動に苦笑していたところに、扉が開いた。
「まさかまた飲んでいるのか?」
低い声。瀬人が立っていた。
「の、飲んでない。」
アテムは慌てて返した。
昨夜のことがどこまで夢だったか分からない分、目が合わせにくい。
瀬人はアテムを一瞥し、冷静に言った。
「暫く禁酒だ。」
「なんだと?」
アテムはむっとして眉を顰めた。
「俺から楽しみを奪う気か?」
「お前が“飲む理由”を忘れるまでな。」
瀬人の言葉は静かだが、どこか優しい。
それが逆に癪に障る。
だが、瀬人は何も言わず、持って来た箱を開ける。
そしてティーポットを取り出した。
「代わりにこちらを淹れよう。暇なのだろう?」
テーブルの上に湯気が立つ。
冥界の朝にしては珍しいほど柔らかな香り。
そして、2人の距離は、酒を挟んでいた夜と変わらなかった。
「…禁酒なのに、距離は同じだな。」
アテムが呟くと、瀬人は僅かに片眉を上げた。
「変える理由があるのか?」
それだけの言葉に、アテムの心臓が跳ねる。
夢の残滓と現実の狭間で、確信する。
瀬人の目が、いつもより少しだけ優しい。
ティーカップの中で、紅が揺れた。
それは、夜の余熱をまだ残しているようにも見えた。
湯気の向こうで、瀬人は静かにカップを傾けていた。
その仕草一つで、空気が張り詰める。
酔いもなく、ただ理性だけが際立つ朝。
アテムは指先でティーカップを回しながら、口を開きかけては閉じた。
言いたい。
でも、言ってしまえば全てが変わってしまう。
そんな思考が、喉の奥でせめぎ合っている。
瀬人はそれを的確に見抜いていた。
昨夜も、今も。
アテムの沈黙の中に、言葉よりも正確な真実があることを。
「……何か言いたそうだな。」
穏やかな声に、アテムはびくりと肩を揺らす。
昨夜の事を、思い出していた。
「いや……別に。」
「そうか。」
その一言に、また沈黙が落ちた。
だけど、沈黙は静寂ではない。
アテムの瞳の奥で、何かがずっと揺れている。
そして瀬人は、そのまま見つめて、唐突に手を伸ばした。
皿の上の赤い果実をひとつ摘み、アテムの唇に押し込む。
「……っ!?」
アテムは一瞬呆気に取られ、次いでむっとして睨み返した。
「お前、子供扱いする気か!」
「口を開けたまま黙り込む奴が悪い。」
瀬人は涼しい顔で言う。
そして、もうひとつの果実を指に摘み、アテムの肩に軽く腕を回した。
近い。
息が触れる。
酔っていないのに、眩暈がする。
アテムは抵抗するでもなく、瀬人の指先から差し出された果実を静かに受け取った。
甘い香りが舌の上で広がる。
それはまるで、言葉の代わりに伝えられた告白のようだった。

お前が言葉にしないのなら、俺が奪ってやる。

瀬人の視線がそう語っていた。
アテムはただ、瞼を伏せるしかなかった。
「…お前は、ずるい。」
果実を噛みしめながら、アテムは低く言った。
甘さが喉を通る頃には、胸の奥まで熱が届いていた。
酔ってなどいないはずなのに、頬が微かに火照る。
瀬人は笑いもせず、ただ肩を抱いたまま、アテムの横顔を見詰めていた。
「酔いはとうに越えている。」
声は囁くようで、重く沈むようでもあった。
その言葉に、アテムは目を伏せる。
否定も、同意も、もういらなかった。
指先が触れるたび、言葉より確かなものがそこにあったから。
瀬人の手が、そっとアテムの髪を撫でた。
湯気に包まれた部屋は静まり返り、外の風の音だけが、遠くでかすかに鳴っている。
アテムはその胸に身を預けた。
香りは茶葉と、果実と、彼の体温。
時間がゆるやかに溶けていく。
それ以上、何も言わない。
言葉はすべて、もうこの沈黙の中にあった。

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