たった一日の恋

同じ瞳を持つのに同じ人ではない。その微笑みはもう二度と手の届かない誰かに重なる。


セトに礼を言いたい。言葉で伝えられなくともせめて礼をしたい。アテムはそう思った。
セトはこの世にはいない。生まれ変わっているのだから冥界にもいないだろう。
アテムは、自己満足だと分かっていながらも、生まれ変わりである瀬人に報いることにした。
内容は難航を極めた。
瀬人は、欲しいものは自力で手に入れる男だ。物を贈るのは除外される。
言葉で伝えることも、瀬人はセトではないので除外。
決闘を思い切り楽しむ。それも何だか違う気がする。
セトの出来なかったことで瀬人が出来ること。
アテムは、何てことのない穏やかな時間を贈ることにした。

あの海馬瀬人を呼び出すのは、容易なことではなかった。
一時帰国の予定を聞き出し、ようやく時間を割いてもらう約束を取り付けるまで、随分と骨が折れた。
そもそも、用件もなく会えるような相手ではない。
カードが絡めば、いつでも挑戦は受けると豪語している男ではある。
だが今回は、闘うことではなく、ただ穏やかな時間を贈りたかった。
その願いを通すには、別の理由が必要だった。
結局、海馬ランドを案内してもらうことで了承を得た。
「これでは逆に、俺が饗されているようだな。」
アテムは小さく笑った。その笑みには、微かな照れと安堵が滲んでいた。



「8時に迎えの車を向かわせる。」
そう言われたが、本当に本人が来るのか。
到着するまで確証はなかった。
時間通りにやってきた迎えの車に乗り込み、海馬ランドへ向かう。
車は正面ゲートを逸れ、関係者用の出入り口へ進んでいく。
そこに、目当ての人物は居た。
セト。いや、海馬瀬人。
「海馬。」
「急に海馬ランドを案内しろとは、一体どういう…。」
アテムは瀬人の言葉を遮った。
「俺だって、たまには楽しみたいんだ。」
その声に、瀬人の眉が僅かに動く。
よく観察すると、瀬人がセトと同じ青い瞳を持っていることに気付く。
顔立ちはそっくり。身長は、瀬人の方が少し高いだろうか。
身に纏う空気も、似ている。いや、まるで違うかもしれない。
「…どうした。」
「いや、何でもない。」
見詰めすぎたことを指摘され、アテムはそっと目を逸らした。
瀬人は暫しの無言の後、
「行くぞ。」と短く言い、入口へ歩き出した。
アテムも、慌てて後を追った。
「どこへ案内してほしい。」
瀬人が短く尋ねた。
「お前に任せる。」
アテムは即答する。
瀬人の眉がぴくりと動いた。
「…任せる?」
「うん。俺が客だ。」
「俺を呼び出したのはお前だ。最低限の用件ぐらいは言え。」
「用件、か。」
アテムはわざとらしく空を見上げ、にやりと笑う。
「お前の作った場所を、お前と共に歩きたい。それが用件だ。」
「…意味が分からん。」
瀬人は同じように空を見上げた。どこかで、何かが引っかかっていた。
なぜ、自分なのか。
真っ直ぐに相手を見据えるいつもの眼差しではない。まるで、自分を通して何かを確かめようとしているような。
それが何なのか。
そこに興味はない。
だが、隠しきれないアテムの視線は瀬人のプライドを刺激し、僅かな苛立ちは募る。

"何を追っている"


「俺を観察して、何を得るつもりだ。」
「お前を観察しているつもりはないぜ。」
アテムの声は穏やかだった。
「…そうか。」
瀬人は短く返す。
だがアテムの穏やかさは、なぜか瀬人の神経を逆撫でしていた。



「まずは観覧車だ。」
アテムの言葉に、瀬人は二度瞬いた。
「遊戯。貴様、正気か?」
「俺達が観覧車なんて、こんな機会でもなきゃあり得ない。乗せてくれ。」
瀬人は溜息をひとつ吐いた。
「…理解不能だ。」
それでも歩き出す瀬人の歩幅は早い。
アテムは小走りで並んだ。
やがて、観覧車の足元に辿り着く。
朝の光を反射した巨大な輪が、静かに回転している。
「怖気づいたか?」
アテムが問うと、瀬人は鼻で笑った。
「くだらん。」
ゴンドラの扉が閉まり、ゆっくりと浮かび上がる。
足元の地面が離れ、音が遠のいていく。
沈黙。
「…こういうのも、悪くないだろ?」
アテムが呟く。
「誰がそんなことを言った。」
「お前だ。無言で乗ったじゃないか。」
瀬人は反論しかけ、言葉を飲み込む。
窓の外には、童実野の海が広がっていた。
淡い陽光が差し込み、アテムの横顔を照らす。
瀬人は、その輪郭に“誰か”を見た気がして、無意識に目を逸らした。
ゴンドラは、緩やかに軋みながら高度を上げていく。
窓の外には、白く霞んだ海と、朝の街並み。
風の音も、観覧車の軋みも、どこか遠い。
アテムは、何も言わず瀬人の横顔を見詰めていた。
ただ、そこに在る静けさを確かめるように。
瀬人はその視線に気付いていた。
だが、敢えて何も言わない。
言葉にすれば、何かが壊れるような気がして。
沈黙の中、アテムは僅かに笑んだ。
「…こうして何もせずに居る時間、懐かしい気がする。」
「懐かしい?」
瀬人は眉を顰めた。
「俺達は、そんな過去を共有した覚えはない。」
アテムは目を細める。
「いや、確かに…そうだったな。」
そう言いながらも、その声音には確信があった。
瀬人は、微かに息を吐いた。

“誰を見ている”


胸の奥に沈む違和感が、言葉にならず膨らんでいく。
アテムの視線は、依然として穏やかなものだ。
けれど、それは瀬人に向けられたものではない。
瀬人はそれを理解しながらも、なぜか視線を逸らせなかった。
外の景色は、もう頂上に近い。
光が2人の間に落ち、触れもしない距離を静かに照らしていた。
観覧車を降りると、陽射しが眩しかった。
空気は柔らかく、風が潮の匂いを仄かに運んでくる。
「次は何をしたい?」
瀬人が訊くと、アテムは腕を組んで少し考え込む。
「うーん…昼ごはん?」
瀬人は思わず目を瞬いた。
「遊戯、まだ10時にもなっていないが。…貴様、朝食は?」
「食べ損ねた。」
あまりに堂々とした返答に、瀬人は深く息を吐いた。
「何だそれは。計画性のない奴め。」
「お前もだろ?」
アテムの口元に、ほんの僅かな笑みが浮かぶ。
瀬人は肩を竦める。
「俺は朝食は摂ってから来た。仕方ない。食事にする。」
その声に含まれる僅かな苛立ちは、どこか、素直でない瀬人の、照れ隠しにも似ていた。
瀬人に連れられて並んで歩き出す。
レストラン街はまだ人影が少なく、開店準備の音が静かに響いていた。
足並みは不思議と合っている。
どちらもそれを口にしないまま、硝子越しに陽を受けたドアを押した。



店内はまだ客も少なく、白いクロスのかけられたテーブルに陽光が柔らかく落ちていた。
案内された席に腰を下ろすと、メニューを開いたアテムはすぐに困惑した顔になる。
「…どれにするかな…。」
瀬人はメニューから視線を上げる。
「選べない程の選択肢でもなかろう。量はどの程度だ。」
「朝にしては多い気がするし、昼にしては早すぎる。…そもそも“ブランチ”という概念が、未だによく分からない。」
「ならばもう何も考えるな。」
瀬人は軽く手を挙げ、店員を呼ぶ。
「"通常"のコースを2人分。飲み物は後で選ぶ。」
「かしこまりました、社長。」
店員が下がると、アテムは目を瞬いた。
「…メニューにないぜ?」
「問題無い。あれは“俺のため”のコースだ。」
瀬人は淡々と告げる。
アテムは小さく笑った。
「つまり、今の俺は“社長待遇”か。」
「そう受け取って構わん。」
程なくして運ばれてきた皿には、卵料理、スープ、香ばしく焼かれた魚と野菜のグリル。
香り立つソースにアテムの表情が緩む。
「…これは、すごいな。」
フォークを取る手が自然に動き、ひと口食べた瞬間、目を丸くする。
「美味い。」
あまりにも率直で、瀬人は思わず唇の端を上げた。
「当然だ。俺の時間を無駄にする味ではない。」
アテムは黙々と食べ進める。
その横顔を瀬人は、無意識に見詰めていた。
食後にコーヒーが運ばれてきた。
ふと、瀬人がカップを手に取り、コーヒーの香りを楽しむ。
その仕草に、アテムの視界の奥でセトの影がちらついた。
同じように椅子にもたれ、指先で縁を撫でる癖まで似ている。
アテムの呼吸は静かで、何かを確かめるように沈黙を選んでいる。
その沈黙が、瀬人の中の苛立ちと興味を同時に煽っていった。
「何を考えている。」
「…いや、何でもない。」
瀬人は短く息を吐いた。
「そうか。」
カップを置く音だけが、静かに響いた。
一瞬、会話が途切れる。
店内のスピーカーから、どこかで始まるカイバーマン・ショウの開演アナウンスが流れた。
「社長、ショウが始まりますが、いかがなさいますか?」
控えていたスタッフが近寄る。
瀬人はちらとアテムを見た。
「これも行くのか?」
「せっかくだ、案内してくれ。」
「いいだろう。」
瀬人は立ち上がり、歩き出す。
伸びた背筋。その背中を追いながら、アテムは微かに笑った。

"本当に、似ている"

照らされた光が2人の影を並べ、ゆっくりと伸ばしていく。



会場はには、既に沢山の人が集まっていた。舞台の上が光を帯びている。
照明の眩しさに一瞬目を細めながら、アテムは客席に並んで腰を下ろした。
「このショウは人気が高い。脚本から演出まで全てうちのチームだ。」
瀬人が何気なく言った。
その声音に、ほんの僅か、誇りと支配の響きが混じっている。

"ああ、やはり似ている"

アテムは心の中で呟く。
幕が上がる。
役者たちの動きは研ぎ澄まされ、音楽が会場を包んだ。
観客の視線が一斉に前へ向かう中、瀬人は腕を組み、舞台全体を見渡している。
鋭い目。隙のない姿勢。
何ひとつ見逃さない観察者のような在り方。
その姿に、アテムは一瞬、呼吸を忘れた。

"セト……?"

違うと分かっているのに、心がそう呼んでしまう。
自分が“彼”を探していることを、アテムはこの時はじめて自覚した。
舞台の上で、光が弾ける。
歓声が上がる。
瀬人の口元が僅かに動いた。満足げな、だが誰にも見せない笑み。
アテムの胸の奥が熱を持った。
その笑みを知っている。
あの時代、玉座の傍で、同じように一瞬だけ浮かべた笑みを。

"…いや、違う。違うはずなのに"

舞台の終幕を告げる音楽が響き、観客の拍手が波のように押し寄せる。
瀬人は満足気に、その様子を眺めていた。
アテムは観客に倣い、拍手を送る。
だが、その掌の音に、自分の心音が紛れていくのを感じた。
何かが、ずれていく。
アテムの中で、セトと瀬人の輪郭が、ゆっくりと溶け始めていた。



ショウが終わり、観客がざわめきの中で出口へ向かう。
2人は少し遅れて立ち上がった。
「満足したか?」
瀬人の問いに、アテムは微笑む。
「素晴らしかった。まるで…。」
言いかけて、言葉を飲み込む。
“まるで王の治める国のようだ”と、口に出す寸前だった。
瀬人は横目でアテムを見た。
「…やはり、何かを確かめに来たな。」
その声音は低く、探るようだった。
アテムは一瞬だけ瞳を揺らし、すぐに笑顔を作った。
「次はジェットコースターだ。」
瀬人は眉を僅かに顰める。
「…お前という奴は。今日は何だ。」
そう言いつつも、反論はしなかった。
移動のために、モノレールに乗る。
その車窓に、昼前の光が流れる。
観覧車の影、噴水の反射、子供たちの声。
アテムはその景色を眺めながら、無言の瀬人の横顔を盗み見た。

"この時間が、あの時の続きなら"

そんな思いが胸を掠める。
瀬人の髪が、光を受けて微かに青く煌めいた。
その色に、記憶の底のセトが重なる。
だが、次の瞬間、モノレールが揺れ、瀬人が腕を伸ばしてアテムの肩を支えた。
「これは改善が必要だな…。」
支えるその仕草があまりに自然で、アテムは言葉を失う。
セトではない。
セトなら、こんな風に触れはしない。
「…ありがとう。」
アテムが小さく呟くと、瀬人は「気にするな」とだけ答えた。
車両は緩やかに坂を下り、遠くにジェットコースターの軌道が見えてくる。
風が強くなり、空が広がった。

"海馬"


その名を、アテムは漸く心の中で呼んだ。
ジェットコースターのレールが空に向かって聳え立つ。
眩しい光の中で、アテムは目を細めた。
「高いな。」
「怖気づいたか?」
瀬人の挑発に、アテムは口の端を上げる。
「俺が怯むと思うか?」
安全バーが下り、金属の音が鳴る。
風が頬を打ち、レールがきしむ。
急上昇、静寂、そして落下。
風を裂く叫びと共に、視界が一気に反転した。
アテムは笑っていた。
風を受けて、声を上げて笑っていた。
瀬人が隣で目を細める。
「何がそんなに可笑しい。」
「楽しいんだ。何も考えずに、ただ落ちていくのが。」
終点でブレーキがかかる。
アテムの頬は紅潮していた。
「もう一度。」
「…なんだと?」
「もう一度乗りたい。」
瀬人は額に手を当て、深く息を吐いた。
「お前は、子供か。」
「もう一度だ。付き合ってくれ、海馬。」
結局、2人は2回目の列に並んでいた。
瀬人は小さく舌打ちしながらも、どこか諦めきれない笑みを浮かべている。
2度目の落下では、アテムが思わず手を上げて風を掴んだ。
その姿は、誰よりも自由だった。
降りてからも暫く笑いが止まらないアテムを見て、瀬人は呆れたように言った。
「…余程、刺激に飢えていたらしいな。」
「風に、だ。」
「風?」
「俺にはないものだからな。」
瀬人は短く「そうか」とだけ返した。
その声音には、微かに何かが混じっていた。
「さて。」アテムは腹を押さえて笑う。「少し小腹が空いた。」
「少し前にあれだけ食べたばかりだろう。」
「動いたら腹も減るってもんだぜ。」
瀬人は呆れながらも歩き出す。
「仕方ない、軽く何かを摘め。」
「よし来た。」
アテムは満足そうに笑った。
その笑顔に、瀬人の心がほんの一瞬だけ軋む。
記憶にはない表情。だが、この笑顔を見ていると…。
思考の続きを、瀬人は自ら断ち切った。
「何かを摘むならこの売店だ。どれにする?」
「定番は?」
「フィッシュアンドチップス。」
「なら、それで。」
紙のトレイを受け取り、外のテーブルへ向かう。
陽光に透ける衣のきつね色が、香ばしい。
アテムは魚のフライを摘み上げ、熱を逃がすように軽く息を吹きかけた。
そう言えば、セトは白身魚の素揚げが嫌いだった筈だ。
それを思い出して瀬人の様子を窺えば、平然とした顔で魚のフライを食べていた。
この男は、セトではない。
分かっていた。
分かっていて、付き合わせた筈だった。
だが、いつの間にか、アテムの中では、“セトのために始めた一日”が、“瀬人と過ごす一日”に変わっていた。
その事実に気付きたくなくて、メロンソーダをひと口飲む。
味も温度も、覚えていられないほど曖昧に。
「次は何をしたい?」
不意に、現実へ引き戻される。
「…お前のイチオシは?」
平静を装う声は、僅かに硬い。
瀬人は唇の端を僅かに上げて答えた。
「オフィシャルホテルからの花火だ。先月から始まった。開始時間にはまだ早いがな。」
「花火か…。」
アテムはカップの底に残った氷を見つめる。
昼の光の中では、まだ遠い夜の景色が想像できなかった。
それでも、瀬人となら見てみたい。
そんな思いを、言葉にする前に飲み込んで、アテムは立ち上がる。
「それまで、もう少し回ろう。」
「ならば、俺はそれに付き合わされるか…。」
空になった容器を片付け、並んで歩き出す。
空に浮かぶ観覧車を背にして、また次のアトラクションへ向かって。



ホラー館。射的。ミニアトラクション。
どれも瀬人の性格にはそぐわないはずだったが、アテムの興味に合わせて淡々と付き合っていた。
銃だけは、周囲を「無課金兄さん」とどよめかせた。
その様子が少しだけ可笑しくて、アテムは何度か笑いを堪えた。
やがて時間が近付く。
海風が柔らかくなり、夜の気配が園内に降りてくる頃、2人はホテルのロビーへ足を向けた。
「こちらです。」
瀬人が慣れた調子でエレベーターを呼ぶ。
最上階のラウンジは、静かで広く、窓一面に海が見渡せた。
コーヒーが運ばれ、湯気がゆらりと立ち上る。
瀬人が窓越しに遠くを見やりながら呟いた。
「お前とこんな日を過ごすことになるとはな…。」
言葉の意味は曖昧だった。
それでも、アテムの胸に小さく響いた。
「どうせ忙しいんだろ。息抜きくらい、必要だ。」
アテムの声は自然だった。
瀬人は僅かに目を細め、静かに息を吐いた。
夜が訪れ、照明が落ちる。
その瞬間、外の海辺に光が咲いた。
轟音とともに、花火が夜空を彩る。
ガラス越しの光の反射が、2人の頬を交互に照らす。
隣にいるのは、もう、セトではなかった。
アテムはそのことを、受け入れるように、ただ静かに花火を見上げた。

ラウンジの窓越しに夜空の余韻がまだ揺れている。
光の反射が瀬人の横顔に落ち、輪郭を淡く浮かび上がらせる。
息を潜めるようにして、アテムはその横顔を見詰めた。
誰でもない。セトでもない。目の前の男は、確かに、海馬瀬人だった。
それでも、胸の奥がじわりと熱くなる。理由は分からない。
ただ、あの青い瞳に、揺るぎない存在として見詰め返されるだけで、心臓が騒ぐ。
その事実に、アテムは小さく息を吐く。
声にはしないが、胸の鼓動が静かなラウンジの空気を震わせていた。
沈黙の中、心の奥で小さく、確かに何かが芽吹いた。
落とされていた灯りが少しだけ明るくなった。
現実が戻ってくる気配に、アテムは小さく息を吐いた。
「今日は…ありがとう。」
口にした瞬間、自分でも“今日は”と限定してしまったことに気付く。
その一言に、名残惜しさが滲んでいた。
瀬人は僅かに眉を動かす。
「“今日は”、か。」
言葉は穏やかだったが、その奥には確かな響きがあった。
アテムが"誰を追って"いたのか、瀬人にはとうに分かっていた。
だが、問い詰めることはしない。
アテムは答えられなかった。
ただ、その視線を逸らせないまま、沈黙の中に身を置いた。
「送らせる。」
瀬人が立ち上がる。
廊下を歩く音、ドアの開く音、迎えの車のライト。
全てが終わりを告げるように静かだった。
車のドアが閉まり、景色が遠ざかっていく。
アテムは胸の奥に残る高鳴りを、何度も抑えようとした。
今日一日を思い返す。
礼は果たせた。それは事実だ。なのに、なぜ寂しさを感じるのだろう。

"これは、そういう事か"

笑って、話して。アテムの隣にいたのは、セトではなく、瀬人だったのだ。
気付いてしまった。
あの瞬間、自分が見ていたのは、海馬瀬人だ。
外の街灯が過ぎ去るたび、胸の鼓動が強くなっていく。
アテムは瞳を閉じた。
この想いは、きっと明日には消えている。
いや、消えていなければならない。
だが、今だけは、そのままで居たいと思った。










机の上には書類の山。ディスプレイには会議のスケジュール。
瀬人は漸くひと息ついて、コーヒーを口にした。
ふと、あの日のことを思い出す。
海馬ランド。
意味不明な行動で自分を振り回した好敵手。
あの男が何を考えていたのか、漸く分かった気がした。
“休み”の、遠回しな押し付けだったのだろう。
「強制休暇、か。」
瀬人は小さく笑う。
仕事漬けの"誰か"を、1日だけ現実から引き離した男に、まんまと付き合わされたことを、今更ながら認める。
だが、あの強制休暇は、その視線の奥に存る"誰か"に向けられたものだ。
「俺を巻き込んで何がしたかった。」
その「何か」を理解しかけた瞬間には、アテムはもう居なかった。
ただ、あの日の別れ際の、何かを訴えかけるようなアテムの瞳が、頭から離れなかった。
"誰か"ではなく、確かに自分を見ていた瞳。
だが、あの幻想のような一日は、確かに記憶に在った。
「これでは逆に、俺が"誰か"を"追っている"。」
瀬人は小さく笑った。
だがそれは笑みとは言えなかった。
声は掠れ、その音は静かな部屋の中で、痛いほど脆く響いた。
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