
1章
「アテム。あなたを冥界に入れるわけにはゆきません。」戦いの儀は終わった。剣も置いた。感動的な別れもした。
なのに。
アテムは冥界から門前払いを食らった。
「いや、ちょっとそれはおかしくないか?」
流石にあの別れの後に、戻るなど出来ない。いや、戻ることは有り難いのだが、かなり複雑である。
しかし冥界はアテムの言い分など聞いてくれなかった。
現世にて沙汰を待て。そのような事を言い残して、消えてしまった。
亀のゲーム屋。遊戯の家。
女性の来客があった。
「武藤遊戯。やっと会えた。」
何だかんだでパズルの中に引き戻され、現世に縛り付けられたアテムである。
出戻った今は、遊戯の奥でぼんやりと生活をしていた。時々、交代で店番もしているが、今日は遊戯が店番をしていた。
「はい。どなたでしょうか。」
決闘王として名高く、ある方面からはよく声を掛けられる。
遊戯も、そろそろこの状態にも慣れて来てはいた。
決闘を申し込まれるのなら闘うこともあるし、アドバイスを求められることもある。
遊戯もアテムも、それぞれ店を疎かにしない程度に(疎かにして大目玉を食らったことがある)接客をしていた。
今日もその手の話だろう、と当たりをつけて、女性に向き合った。
女性にしては高い身長、茶色の髪に、切れ長の青い瞳。見れば見るほど、既視感のある情報が入って来る。
だが、確かに女性である。
海馬瀬人の肉親はモクバだけ。その筈が、それにしては瀬人に似過ぎていた。
しかし、服に着いている社章がもう、つい訊ねてしまう決め手だった。
「もしかして…海馬くんの、知り合いですか?」
女性はその名には反応しなかった。
その代わり、見覚えのある笑い方を見せた。瀬人と、瓜二つの、不敵な笑み。
「王様、出してくれる?」
遊戯がアテムと二心同体であり、アテムの正体を知っているのは千年アイテムの関係者。
2人は頷き合い、アテムが表に出た。
「さて、お前が沙汰ってやつか?」
「その挑発的な態度、悪くないわね。アテム。」
「……!」
その名を知っているのは、数人の仲間達だけの筈。
アテムが鋭い目を向ける。
「怖い顔は不要よ。あなたが冥界へ還る為にすべき事を持ってきただけだもの。」
そう言って女性は一通の封筒を差し出した。
中身は海馬コーポレーションからの採用通知だった。
「採用通知?」
首を傾げるアテムを他所に、女性は続ける。
「あなた、そろそろ召される予定なんでしょ?」
「…間違ってはいない。」
間違ってはいないが言い方というものがある。アテムは僅かに眉を顰めた。
「私、見ての通り海馬コーポレーションの者をやっているんだけど…うちの社長が召されそうなのよね。」
「…海馬が?」
唐突な話に、言葉の嘘を探る。だが、裏はないと勘が告げていた。
「そうそう。瀬人って、あなたの魂と絡まりすぎちゃってるでしょ?だからあなたが召されると、一緒に連れていっちゃうのよ。」
到底信じられない話だが、因縁はある。それが真実なら、いくら冥界へ還る為とはいえ、好敵手を一緒に連れて行くことは出来ない。
「で、それが真実だとして、俺にどうしろって言うんだ?」
「物分りが良くて助かるわ。」
女性の目がキラリと光った。
「あんた…。」
アテムの反応に、楽しそうに笑う。
「神か。」
「正解。私はセトを守護した神。その魂を守る為に顕現した次第。」
穏やかに微笑む姿は、海馬瀬人にもセトにも似つかわしくない属性だ。
「今世のセト、つまりあなたにとっての海馬瀬人の魂を救いなさい。それが出来たら冥界の門を通してあげるわ。」
「それは…。」
「命懸けのゲームね。救い方は任せるけど、必要なものがあれば用意してあげる。」
そう言って、マジシャンのように何も無い所から次々に鳩や何かを出しては消す。
ただ、種も仕掛けもないのだろう。
「例えば、私の体も、この肩書も、他人の認識も、全ては造り物。でも真実でもあるの。」
「なるほどな。神の力か。」
表情は挑発的なままだが、アテムの視線がほんの一瞬だけ女神の“奥”を探る。
その探りを、女神も分かっている。
「で、要るものは?」
「まずは、身一つでいい。様子を見ないことには始まらないからな。」
アテムの挑発的な態度に、微笑みながら一瞬だけ目を眇める。それから、アテムの頭の上に手を乗せた時には表情は元に戻っていた。
「いい子。」
女神が頭を撫でると、影がずれるように体が2つに分かれた。
アテムと遊戯が並ぶ。
自分の服装を確認して、アテムが半目で女神を見据えた。
「古代の格好そのままかよ。」
「現世が長すぎたのかしら。ゴールドよりシルバーの方が好きだった?」
「そういう意味じゃない。」
またも女神はどこからか大きな布を取り出した。
ガバリとアテムを覆い、それを取り去ればアテムは小綺麗なスーツ姿になっていた。
側にある鏡で確認すると、襟には海馬コーポレーションの社章がついている。
「俺の身分すら、いじくったってわけか。」
「都合いいでしょ。これでゲームはイージーモード。」
「なるほどな。あいつに近付くには確かに都合がいい。」
「もう1人のボク…。」
遊戯が心配そうに声を掛ける。
「心配ないさ。俺が居る限り、海馬も無事な筈だ。そうだろ、女神サマ?」
「ええ。あなたの勝利条件は幾つかあるけれど、彼の魂が無事である内は負けはないわ。で、最初の一手は?」
「海馬の所へ。」
「盤面把握ってとこね。行きましょう。」
迷いはなかった。アテムは女神に連れられ、海馬コーポレーションのアメリカ支社へ向かった。
女神の力だろうか、何故か知っている社内を、アテムは歩いていた。瀬人に会うためだ。
社長室に乗り込むため、エレベーターでフロアを移動し、廊下を歩いていると瀬人と出会した。
瀬人と目が合った瞬間、アテムは時間が少し止まったような感覚がした。
魂が絡まっているという、女神の言葉を思い出した。
しかし、仲が良いという訳ではない。絡まっているにしては、手の届くような手の届かないような距離だ。
瀬人も、暫しアテムの顔を眺め、釈然としない表情で教えていない筈のその名を呼んだ。
「…アテム?」
「ああ、俺の名前だ。」
魔術師を従えた石板の男に、よく似た男。褐色の肌に紅い瞳、態度は好敵手そのもの。そんなアテムを見て、瀬人は少し首を傾げた。
「遊戯…いや、アテム。雇った記憶はないが雇っている事実を知っている。これは何だ、またオカルトの類か?」
アテムから見て、現在の海馬瀬人はピンピンしているように見えた。
"召されそう"な気配などどこにもない。
「海馬、信じられないかもしれないが、お前は死にかけている。」
あの瀬人が信じる筈もないのだが、アテムは今起こっていることについて説明することにした。
「信じられなければゲームと思ってくれ。ルールは簡単、お前が死ななければいい。現状は、俺とお前の魂が同じ世界になければならない。起こるイベントは、俺の魂が冥界へ還る。以上だ。」
「…簡単なことだ。」
持ちかけられた難題に、瀬人は笑った。女神と同じ、不敵な笑み。今にも死にかけているようには到底見えない。
アテムが冥界へ還るこのタイミングだというのに。
「分かっているのか?お前は、俺が還ったら死んでしまうんだ。」
「それが事実ならば、俺の寿命が尽きるまで、貴様が生きていれば良いだけのこと。それで勝利条件は満たされる。」
言われて、ゲームの制限時間を知らされていなかったことに気付く。
恐らくどこにいても女神は見ているのだろう。何もない空間へ、アテムが尋ねた。
「セトの女神サマ。制限時間は?」
「社長の勝利条件の満たし方でも、私は構わないわ。」
何も無い場所から、女神はソリッドビジョンのように姿を現す。
その様子に瀬人は二度瞬いたが、眉を顰めて小さく溜息を吐いただけだった。
度重なるオカルトな出来事、そして記憶にない社員は本日二度目だ。
「貴様も社員、という訳か。」
「ええ、社長の嫌いなオカルトだけどね。でも、大抵のことはやって退けるわよ。」
「ならば辞令だ…貴様はアテムを護れ。アテムは大人しく護られること。通常業務は不要だ。」
瀬人が淡々と場を整えていく。
「社員のボディーガードをする社員というのも、面白いわね。」
女神はセトに尽力したように、瀬人に従うらしい。
このままでは冥界へ還ることはなく現世を彷徨うのと同じだ。
「待ちな、セトの女神サマ。他にもあるんだろ、勝利条件の満たし方が。」
「ふふ、攻略本は使用不可よ、王様。勝利条件は自分で見つけることね。」
瀬人の示した勝利条件は繋ぎとして使い、アテムが冥界へ還る場合の勝利条件を満たす。
そして女神はそれを知っている。
絡まった魂。
「海馬。」
「何だ。」
「俺とお前の魂の絡まりを解く。」
「そのような、見えず、触れることの出来ない変数を、どうするつもりだ。」
瀬人の言葉は挑発的だ。
だが、アテムも乗りかかったゲームを放り投げたりはしない。
当の本人はまるで信じてはいないが命懸けなのだ。
「それは後々考える。俺をお前の側に置け。」
「却下だ。どこかで勝手に護られていろ。」
「攻略する気はないのか?」
「攻略ならば済んだ。貴様が無事ならそれで済むのだろう。加えて、俺の身の回りが1番危険だ。」
「これは真実よ。海馬コーポレーションを恨む人間は多い。基本的に返り討ちだけどね。」
女神も補足をする。
「そういう事だ。俺の回りを彷徨かれ、危険に晒され、貴様が先に死んだ場合には俺は道連れなのだろう?」
「それは…。セトの女神サマ、今の俺は死んだらどうなるんだ?」
「2人とも、絡まりを解けなければ同じ場所へ流されるわ。」
女神は軽く肩を竦める。言葉ほど軽くはない重さで。
「私は王様を護る辞令があるけれど、世界の法則そのものまでは曲げない。それだけは覚えておきなさい。」
背を向けながら、ぽつりと最後だけ本音を落とす。
「生き残るにしても、召されるにしても、選ぶのはあなた達よ。」
そう言い残して、女神は姿を消していく。
「セトの女神!」
アテムが伸ばした手は、影をすり抜けただけだった。
「…アテム。」
振り向くと、瀬人が腕を組んで見下ろしていた。
「何だ?」
「セト…魂、絡まり。俺のことではないな。何の話だ。」
瀬人にとっては、解決済みのオカルトな話など興味はなかった。
だが、何故か詳細を求めていた。
「…オカルトな話だぜ?」
「聞いてやる。」
瀬人に連れられて社長室へ入る。
アテムがソファに掛けていると、瀬人が自らコーヒーを淹れた。
「お前が淹れてくれるのかよ。」
「貴様を殺されてはゲームオーバーなのだろう。毒でも盛られては終わりだ。」
香りが漂い、静かな空気が包む。
アテムは机に手を置き、少し前かがみになった。
その姿勢が、自然と瀬人の視線を引き寄せる。
「信じたのか?」
「信じることにデメリットがない。信じないことにデメリットがある。」
相変わらずの現実主義に、アテムは肩の力が抜けた。
「お前な…。」
「それより、還る、とはどういうことだ?」
「どうい…あ…。」
冥界に還るということは、見果てぬ先まで続く闘いのロードが途切れると言うことだ。
瀬人は、今更気付いたか、という顔でアテムを眺めている。
「すまない。」
「全てを話せ。抜け、漏れ、なく、全て、だ。」
しっかり念を押され、アテムはエジプト展のことから順を追って話し始めた。
古代エジプトの王であったこと。
記憶がぶっ飛んでいたこと。
記憶戦争に挑んだこと。
名も記憶も取り戻し、戦いを終え、後は還るだけであること。
全てを話し終えるまで、瀬人は口を挟まずに聞いていた。
「それで、セトとは?」
「石板の男。海馬の前世だ。俺が死の間際に王位を託した神官で、従兄で…真面目で…?」
「その神官は、あのビジョンの中で謀反を起こしていたが?」
「それは…行き違いがあったと言うか。だが、セトは王として申し分ない男だ。」
「…その男さえいなければ、俺は死に瀕して居ないのだがな。」
瀬人が溜息を吐いてコーヒーに口を付ける。
「逆だ。セトが居なければお前はここに生きていない。」
「仮にそうだとして、魂をどう弄くるつもりだ。俺はオカルトな実験には手を貸さん。」
瀬人は、コーヒーを置いて、一息ついた。
アテムはキラリと目を輝かせた。
「安心してくれ。」
「何をだ。」
「お前の嫌いなオカルトアイテムは砂漠の地中深くだ。」
「そういう意味ではない。」
瀬人は、窓の外、どこか遠くを見詰めていた。
自分が死にかけているという実感はない。
信じてはいないが、仮に真実だった場合の対策を立てておく。
アテムを護っておけばいい。
それが瀬人の勝利条件。
アテムの、魂の絡まりをどうにかすると言う案よりはずっと現実的だ。
「海馬が魂とかを信じないのは知っている。だが俺からすると浅からぬ縁があるのは確か。あの時、側に居てくれたのはセトだからな。」
「…その男、改名しろ。紛らわしい。」
「無茶言うなよ。俺もまさかと思ったぜ。記憶さえあればお前とも仲良く…。」
「ならん。」
「…そうかもしれない。」
アテムとセトは、友人のように仲が良かった訳では無い。
確かに、お互いに記憶があったとしても仲良くなってはいなかっただろう。それどころか、アテムの犠牲は大いに叱られる可能性しかなかった。
「俺は勝利条件を満たせる。貴様はどう満たすつもりだ?」
「とりあえず、海馬の側に居て、それこそ絡まりの糸口を探るしかないだろうな。」
「それは却下した筈だ。」
相変わらずの態度に、アテムも焦燥が募る。
「それでは俺が還れない。還らなければならない魂がここに居ていい筈がない。」
「貴様の話が真実だとする。3000年に比べれば人間の寿命など"誤差"だ。」
「それはそうかもしれないが、俺の魂が彷徨いすぎて還れなくなる可能性がある。」
瀬人の指先が、アテムの手首に触れた。
温かい。現実の温度がある。
「…触れられる。温度がある。生きている。」
アテムは目を丸くしたが、抗えなかった。
この一瞬の接触で、魂の絡まりが皮膚の下まで響くように感じた。
「絡まっているのなら…。」
そう前置きをして、瀬人が真っ直ぐにアテムを見据えた。
「俺が死ぬ時にお前を連れて行けば良いだけの話だ。」
アテムは、何故か心の底がざわつくのを感じていた。
「海馬…。」
「俺は絡まっていようと一向に構わん。実害がない。」
「結局それか…。」
瀬人の現実主義にアテムは呆れるしかなかった。
見えず、触れられず、実感を伴わない絡まりなど、あってないも同じこと。
もしかすると、そんな運命を持っている人々は、他にもいるのかも知れない。
現段階で、アテムが生きている限り瀬人には何も起こらず、アテムは女神にボディーガードされることになっている。
瀬人本人がダメなら、アテムはアプローチを変えるしかない。
「分かった。別の方向から探してみる。」
「どこから。」
「エジプトだ。セトの軌跡を辿る。」
立ち上がろうとしたアテムの腕を、瀬人が掴んだ。そして目を逸らしまま一言。
「……許可する。」
「ん?」
「俺の周りを許可する。好きにしろ。」
「何だよ、急に。」
「存分に魂の研究をしろ。施設が要るなら建てる。」
急に協力的な瀬人の様子に疑問はあったが、アテムは迷うことはなかった。
「なら、よろしく頼むぜ。」
アテムが微笑むと、瀬人は掴んでいた腕を離した。
それから、愉快そうに笑う。
「それにしても…アテム…か。」
「何だよ…。」
「いや、以前より、随分と無防備になったと思ってな。」
アテムはその言葉に、思わず目を丸くする。
「無防備?」
「無防備だ。」
瀬人は繰り返した。声は冷静だが、その裏で“計算”している気配があった。
アテムは軽く首を傾げただけで、相変わらずの挑発的な余裕は崩さない。
いつもならその態度に火が付く筈だった。だが今は違う。
どこか噛み合わない。
瀬人は言葉にしないまま、目の前のアテムを改めて値踏みする。
押しかけてきた迷惑と、説明にならない言い分。そして、不可解な“確信”だけを携えて自分の前に立つ男。
「自覚がないなら、それは尚更厄介だな。」
ぶつかり合うでもなく、寄り添うでもなく。ただ、互いを測り続ける沈黙が一瞬生まれた。
瀬人の胸の奥に、微かな違和感の棘が残る。
“何かが、以前と違う”
だが、その正体を掴むにはまだ早い。瀬人はそれ以上踏み込まず、視線だけを僅かに逸らした。
「その上、その態度だ。警戒心が消えている。」
瀬人の視線は容赦なくアテムの全身をすり抜けるように泳ぐが、やはりどこか楽しげだった。
「警戒?」
アテムは自分の手を見つめ、天井を見上げた。
「…そんなつもりはないんだが。」
「つもりではなくとも、現実だ。」
瀬人の声は静かだが、真実ではあるのだろう。冗談を言う人間ではない。
アテムの心臓が跳ねる。
「脅威は去った。だからだろう…。」
口ごもるアテムに、瀬人はカップを置き、ソファから立ち上がる。
「ふん、可愛らしくなったものだな。」
その一言は、冗談のようでいて、決して冗談ではない。
アテムはその言葉に思わず目を逸らすが、逃げられない距離まで瀬人は近付いた。
「…え?」
「単なる事実だ。素直に受け入れろ。」
何と返していいのか分からない。
「いや、流石にそれは…。」
瀬人は微かに口元を緩め、しかし視線は鋭い。
「安心しろ。侮辱ではない。」
「…海馬。」
「何だ。」
「…お前、なんだか…。」
コーヒー片手に会話をする。まるでただの友人のようだ。
言葉が途切れ、アテムは顔を背けた。
「…心配は不要だ。双方の為に、俺はお前を護る。」
その一言で、アテムの心の緊張は少しだけ解けた。
「…そ、そうか。」
「それで、最初の一手は?」
そう言って笑う瀬人の表情は、やはり女神の不敵な笑みと、酷似していた。
2章
絡まりを解く研究が始まった。アテムは海馬コーポレーション・アメリカ支社の最上階、ペントハウスに滞在している。
そこには生活するための部屋というより、思考のための空間があった。
家事も、職務も、必要ない。
ただ考え、思索に沈むこと。それが、今のアテムの仕事だった。
同じフロアの奥では、瀬人がいつも通り生活し、働いている。
複数のディスプレイを前に淡々と指示を飛ばし、誰よりも現実的かつ最速で世界を動かしている。
時折、アテムの存在を確かめるように視線を送るが、それ以上は踏み込まない。
「俺は、お前が“生きる”という解決策を提示した。それ以外はお前が考えろ。」
そう言い残した瀬人の言葉が、アテムの胸に刺さっている。
アテムは1人、長い沈黙の中で考える。
どうすれば、この絡まりを解けるのか。
それは「死者の帰還」ではなく、「生者としての選択」なのだと漸く理解し始めていた。
考えた結果、アテムは、3つの可能性を導き出した。
一つ、前世に残したセト未練を解くこと。
一つ、今世で抱えた瀬人の未練を解くこと。
そしてもう一つ。未練という概念そのものを超え、関係性を“均す”こと。
どの道も、どこかで瀬人へと繋がっていた。
夜。
ペントハウスの大きな窓の向こうでは、都市の灯が遠く瞬いている。
食後の静かな時間、テーブルに資料を並べ、2人の「会議」が始まった。
「3つの仮説を立てた。」
アテムがそう言って、手元の紙を指し示す。
『前世の未練』『今世の未練』『関係性の均衡』。
瀬人は椅子の背に体を預け、さらりと視線を流した。
「…前世の未練か。オカルトの分野だな。」
「俺にとっては現実だ。」
「ならば俺の研究対象外だ。」
一蹴しながらも、アテムの眼差しに僅かに緩みが走る。
瀬人の否定は、興味の裏返しだと今では知っている。
次にアテムは、『今世の未練』の欄を指す。
「お前は、何か未練を抱いてはいないのか?」
「未練を抱くような生き方はしていない。」
即答だった。
だが、アテムはその硬さの奥に、何かが潜んでいるような気がした。
それに、“生きている者”の未練とは、往々にして本人が気付かないものだ。
最後に、『関係性を均す』という言葉を示すと、瀬人が眉を顰めた。
「意味が分からん。関係性を“均す”とは何だ。」
「俺達の魂の絡まりは、強く惹かれ過ぎたために歪んでいる。ならば、その力を均衡に戻す。」
「…感情論だな。」
「だが、感情が絡まりを生む。」
沈黙が流れた。
外では風がビルの外壁を撫でている。
やがて瀬人は、腕を組んだまま小さく息を吐く。
「いいだろう。順にやれ。前世も今世も、その“関係性”も。全て片付ける。」
「助かる。」
「誤解するな。オカルトから離れるためだ。」
「よし、早速研究を始めよう。」
夜の灯の中、アテムは静かに笑った。
瀬人も、ほんの僅かに口の端を上げた。
絡まりを解くための最初の夜は、そうして始まった。
海馬瀬人の生活は、相も変わらず嵐のようだった。
朝早くから夜遅くまで働き、食事の時間さえ不規則。
アテムが顔を見ることなく1日が終わることもしばしばあった。
それでも、意外なほどアテムの“研究”に協力的だった。
出張でもなければ、1日のどこかで必ず時間を取った。
夜。海馬コーポレーションの最上階の一室。
高層階の窓の外では、都市の光がまだ消えずに瞬いている。
瀬人は端末を閉じ、アテムの方へと視線を向けた。
「…待たせたな。」
ネクタイを緩めながら、瀬人が席に着く。
「いや。」
アテムも頷き、テーブルの上に書き込んだノートを広げる。
2人の“会議”は、いつも瀬人の仕事が終わると同時に始まる。
形式上はアテムの研究だが、議事進行は手慣れている瀬人が務めているような形だった。
「まずは前世…の未練か。アテム、アレの未練に心当たりはないのか?」
瀬人の声は低く、落ち着いている。
アテムは暫し黙し、眉間に皺を寄せる。
「あいつには…色々と迷惑かけたからな…。例えば、俺を叱る。とか?」
「何をした。」
瀬人が腕を組んでアテムの前に迫る。
その距離が、2人の魂に微かな振動を生む。
「…壺の中でサボったり…。」
アテムは少しだけ視線を逸らし、気まずそうに呟いた。
「貴様…。クビにするぞ。…いや…何だこれは。」
瀬人が視線を巡らす。
「どうした?」
周囲の空気が微かに揺らいだ。
女神の干渉だと、瀬人は直感する。
「オカルトな干渉か。クビにする手順が頭に浮かばん。」
瀬人は苛々しながら、アテムが壺に隠れた事実を書き付けた。
「他には、何をした?」
「ええと…。」
「くだらんことは除外しろ。最大の失態は?」
「2つあるんだが…恐らく、俺が…。」
何と話せば良いかと、アテムが目を泳がせる。
言葉が喉の奥で詰まった。
瀬人の視線が鋭く突き刺さる。
「何をした。言え。」
「し、」
「し?」
「死んだことだ。」
その言葉が落ちた瞬間、空気が張り詰めた。
アテムは静かに息を吐き出した。
「…何故死んだ。」
アテムは一度死んだ存在である。
それは瀬人も薄っすら認めてはいた。そうしなければ話が進まないから、という理由でもあったが。
「邪神を封印する為に…。当時、他に手は残されていなかった。俺の魂もろとも。…信じられないだろうがな。」
瀬人には前世の記憶などない。勿論そんなことは覚えていない。
だが、アテムの語る光景は、理屈抜きで心の奥を刺した。
死者への祈り。
屍は横たわる、器は――
「…愚行だな。」
「海馬。お前は今、苛立っている。思いのままに俺を叱ってくれ。」
「俺はアレではない。代わりに叱るだと?ふざけるな。」
「俺は死んだ上に、王位から後始末から全てを押し付けた!王座に、俺の遺志ごとお前を縛り付けた!」
抑えきれない怒りがどこから来たのか、瀬人自身にも分からない。
理性の奥底から湧き上がる悲しみのような感情が、確かにあった。
瀬人の眉が僅かに動いた。
静寂の中、空気が軋む。
「…アテム、貴様…今の言葉を、撤回しろ。」
「事実だ。」
「事実だと?それで王が聞いて呆れる!」
瀬人の声が一段低く響き、机を叩く音が空間を裂いた。
「自分の死を正当化するつもりか!お前が遺した“後始末”を誰が背負ったと思っている!俺がどれだけの代償で王の名を守ったと思っている!」
「海馬…。」
「黙れ!お前が逃げたのなら、俺が許さん。お前が誇りを失うのなら、俺が思い出させてやる!それが俺の役目だと思うのなら、勝手に思え!」
瀬人の息が荒い。
怒りの中に、確かな痛みと愛着が滲んでいた。
アテムは静かにその視線を受け止める。
「…ありがとう。」
「礼など言うな。二度とそんな台詞を吐くな。」
瀬人は、気付けばアテムを叱り飛ばしていた。
古代の記憶も理屈も関係なく、ただ目の前の“愚か者”を、二度と死なせたくないという衝動だった。
そして、肩で息をしながら、最後に怒鳴りつけた。
「俺は貴様の保護者ではない!」
瀬人は顔を背けた。
瀬人は、自分でも知らなかった感情に胸が焼けるのを感じていた。
怒りではない。
脳裏に浮かぶ喪失の情景を、二度と繰り返したくないという、生々しい“恐れ”だった。
絡まりは、まだ解けていなかった。
だが、何かが確かに動いた。
「次は、今世の、海馬の魂の未練だ。」
アテムの一言に、瀬人が眉を動かした。
「何だと?そんな生き方はしていないと言った筈だ。」
その声音には、僅かな苛立ちが混じっている。
「だが、俺とお前の因縁なら、しっかりあるじゃないか。」
そうして、2人は、決闘を始めることにした。
デュエルディスクを装着する音が静寂を切り裂く。
カードを握る指先の感覚、空気の密度、互いの視線の軌跡。
それは勝敗のための闘いではなかった。
互いの“存在”を確かめ合う、儀式のような時間だった。
だが、その儀式に妥協はない。
ただ、お互いに全力。
「お前、今日も全力かよ。」
息を弾ませながらアテムが笑う。
「アテム、手を抜いたら今度は叱り飛ばすどころでは済まんぞ。」
瀬人が微かに笑った。
瀬人の声は冗談めいていたが、瞳の奥は真剣そのものだった。
アテムは頬を僅かに赤らめ、視線を逸らす。ただ次の手を考えた。
元の目的すら忘れる、楽しい時間。
返す言葉はなく、ただ次の手札を選ぶ。
それだけで、胸の奥が静かに熱を持つ。
カードを出すたびに、2人の意識が交錯する。
召喚、効果。宣言の全てが呼吸のように合っていく。
ゲームが終わる度に勝敗について大騒ぎにはなるが、ゲームの最中はどうでもよかった。
互いが、互いの全力で向き合っていることが、何よりも重要だった。
瀬人の気配が、生々しく感じられる。
鼓動が、息遣いが、この現世に確かに在る。
アテムの心は、瀬人の“生”の苛烈さに、確かに触れていた。
「…これが、今の海馬の魂か。」
ぽつりと呟く。
幾度目かのカードの応酬の中で、アテムはふと気付く。
瀬人の僅かな表情の揺らぎ。焦燥でも、怒りでもない。
それは、静かな安堵。
瀬人の中の何かが、少しずつ解けていく。
アテムもまた、同じだった。
あの夜の叱責よりも、
この沈黙の中の呼吸の方が、ずっと胸に響く。
瀬人の“生”は、言葉よりも雄弁だった。
理屈ではなく、戦いの集中が魂の絡まりを緩めていくような気がしていた。カードを交わすたび、心が澄んでいく。
その一方で、絡まりは更に深くなっているような気もしていた。
決闘が終わる頃には、2人の間の空気が変わっていた。
激しさも、過去の影も、どこか遠くに感じられる。
沈黙の中、瀬人が僅かに笑う。
「…今夜の勝者は、どちらだ。」
「さあな。だが…いい勝負だった。」
アテムは穏やかに笑い返す。
その笑みは、ほんの一瞬、瀬人の胸を射抜いた。
2人の間を包む静寂。
それは“勝敗”ではなく、“理解”という名の結末だった。
その日は、海馬ランドUSAのプレオープンだった。
報道陣の声が飛び交い、無数のフラッシュが夜空を白く染める。
その中央に立つ瀬人は、誰よりも堂々としていた。
マイクを手にし、まっすぐに前を見据える。
「世界中の子供たちを楽しませる。それが海馬コーポレーションの使命だ。」
力強い声。
一片の迷いもない眼差し。
夢を現実に変えた者だけが持つ、確信に満ちた表情だった。
社員枠で同行していたアテムは、胸の奥が熱くなるのを感じた。
歓声、拍手、光。
それら全てが、瀬人の生き様を祝福していた。
「海馬、おめでとう。」
小さく、しかし誇らしげに告げる。
瀬人は一度だけ振り返り、穏やかに笑った。
「まだ、これからだ。」
その笑みがあまりにも自然で、まるで太陽のようだった。
生者の光は、こんなにも眩しいものだったか。
ほんの僅かに胸が痛んだ。
自分はもう、その光の隣に“立って”いない気がした。
アテムは言葉を失い、ただその背を見詰めていた。
瀬人は、研究をしていない時間を全て仕事に注ぎ込んだ。
朝も夜も関係なく、世界を動かすように働く。
新しいゲームを構想し、形にし、世に送り出していく。
その度に、アテムは「生きる」という行為の意味を思い知らされた。
達成感。
情熱。
そして、未来へと続く眼差し。
本当に“今”を生きている者のもつ鮮烈さ。
アテムの胸の奥に、静かに広がる感情があった。
羨望でもなく、畏怖でもなく、ごく純粋な、敬意。
瀬人の生き方があまりにも鮮やかで、眩しくて、それが自分の魂に影を落とすような気すらしていた。
胸の奥で、微かに歪むものがあった。
それは痛みと呼ぶほど鋭くはなく、かといって撫でて癒えるような軟らかさでもない。
瀬人の未来に触れれば触れるほど、自分の時間はとうの昔に閉じられた扉の向こうにあるのだと、静かに告げられる気がした。
「まだ研究は進んでいない。お前は、今の内に、やりたいことはないのか?」
瀬人の問いに、アテムは一瞬、言葉を詰まらせた。
「やりたいこと…。」
口に出そうとしても、何も浮かばない。
“王”としての生涯を終え、封印を解かれ、使命を果たした。
使命を終えた者が、これ以上、何を望めばいいのか。
そもそも、望んでいいのか。
願ってしまえば、許されない領域にまで手を伸ばしてしまう気がして。
その“恐れ”の輪郭をなぞった瞬間、魂のどこかがふっと揺れた。
名のつかない感情が、そこに確かに息づいていた。
「お前が未練を残したら、どうなる。」
未練など、ない。
だが。
瀬人は、次々と新しい挑戦をして、未来を切り拓いていく。
その姿を見詰めるうちに、アテムの胸にも、言葉にならない熱が宿っていた。
意識の輪郭が揺らぐ。
「そうだな…。」
と、アテムは静かに呟いた。
何をするわけでもない。
今の瀬人を観察するだけで、心が染まっていく。
この“生”の力はあまりにも鮮烈で、惹き込まれる。
抗うことなど出来なかった。
瀬人という存在を、意識せずにはいられない。
魂の絡まりは、もはや“干渉”ではなく、“導き”になっていた。
色々と試したが、研究は上手くいっているとは言えなかった。
最難関の「理屈では解けないもの」があると行き着いた。
それでも、瀬人はアテムの“研究”に協力的だった。
淡々と、理路整然と、時には皮肉を交えながらも、瀬人は毎晩、アテムの思索を受け止めた。
まるで、絡まった魂の糸を、一緒に解くように。
瀬人の仕事場とアテムの思索スペースは、間仕切りこそないものの、役割が明確に分かれていた。
だがその境界は、日に日に曖昧になっていった。
ある朝、アテムが資料を広げようとすると、瀬人が無言でマグカップを置いた。
「コーヒーだ。カフェインの量は控えめにしてある。」
説明も強制もない。ただ、アテムが集中していると察した時だけ、瀬人は黙ってカップを置いていく。
その距離の詰め方は、命令でも優しさでもない。
ただ“同じ空間で呼吸している相手”としての静かな気遣いだった。
アテムはコーヒーの香りを吸い込み、微かに胸が温まるのを感じた。
この男は踏み込んではこないが、決して離れもしない。
その“滞在の仕方”が、絡まりを解く以前に、アテムの思考を柔らかくしていた。
絡まりは数式でも、闇の力でも解けない。
感情や記憶、心の振動にこそ反応しているのかもしれない。
直接的に触れられない距離の中で、五感や感情を刺激し合う時間を持っていた。
つまり、関係性を均すことだ。
言葉よりも、行動で。
そして、確かめ合うように。
ある夜、2人は研究の合間に屋上へ出た。
ビル風が吹き抜け、街の光が遠くで瞬いている。
静寂の中、夜気が肌に触れる。
アテムは、長く沈黙してから口を開いた。
「…前世のことも、今世のことも。整理しておかなければ、次に進めない。そして、それはある程度整理した…。」
瀬人は黙ってその隣に座り、缶を1つ差し出した。
アテムは受け取り、指先が微かに触れる。
その一瞬に、体温が確かに伝わる。
そんな時間を、日々、積み重ねていた。
夜になると、瀬人の作業音とアテムの思索の呼吸だけが部屋に満ちた。
言葉がなくても、その沈黙は決して重くない。
瀬人がキーボードを叩く速度、アテムがページをめくる指の動き。
その些細なリズムが、いつの間にか互いを調律するように合っていく。
同調を意図したわけではない。
だが、同じ空間で長く“生きている”者同士が自然と作る、柔らかな呼吸の波だった。
アテムはふと、前世では決して得られなかった“誰かとの静かな時間”というものに気付く。
生者の生活とは、こういう微差の積み重ねなのだと、胸の奥で理解していった。
2人の前にはノートと紅茶。
ペントハウスの窓の外には、遠くに光る街並み。
瀬人が一枚のメモを指で叩く。
「未練を探る、というお前の仮説だが…少なくとも、俺の側では結果が出た。」
「そうだな。お前はいつだって、自分の選択に責任を負ってきた。」
「ならば、やはり、お前の側の問題ではないのか?」
アテムは少し目を細める。
「俺の側の?」
短い沈黙。
アテムは、手元のカップを見詰めたまま、低く息を吐いた。
瀬人の側の未練については、確かにやり尽くしたように思えた。
だが、自分自身に“未練”という言葉を当てはめることには、奇妙な抵抗があった。
「俺か…。」
少し間を置き、ゆっくりと言葉を選す。
「だが、俺には未練なんてないぜ?」
瀬人の眉が僅かに動いた。
「…その割には、未だにこの世に留まっているが?」
「それは、“絡まり”のせいだ。」
「絡まりの原因は、お前の在り方にある。過去でも現世でもない。“今のお前”だ。」
静かな声だったが、その指摘は容赦なく核心を突いていた。
瀬人の声が低く、確信を帯びる。
「絡まりが生じたのは結果だ。原因は、別にある筈だ。それを探せ。」
アテムは静かに顔を上げ、瀬人の青い瞳を見詰めた。
その目は冷静で、だが底に僅かな熱がある。
アテムは少しだけ苦笑した。
「…相変わらず、厳しい教師だな。」
「教師ではない。上司だ。」
瀬人の一言が、空気を切り裂くように響いた。
アテムは頷きながら、微かに笑みを浮かべる。
その夜の会議は、いつになく静かに終わった。
だが、互いの胸の奥では、何かがじわじわと動き出していた。
ガラス越しに夜景が滲む。
瀬人のデスクの上には、2人で使っているノートが一冊。
アテムは静かにページを閉じた。
「…お前の言う通り考えてみたんだが…。前世にも今世にも、俺の未練はないと思う。」
「自分で断言するのか。」
瀬人の声は冷ややかでもあり、確かめるようでもあった。
アテムは苦笑して、背もたれに体を預ける。
「俺は、死ぬべき時に死んだ。王としての責務も果たした。…あの時の俺には、それ以上はなかった。」
瀬人は何も言わず、ただ横目でアテムを見ていた。
「だが、それでもこの世に留まっているだろう。」
アテムは言葉を詰まらせ、窓の外を見やる。
ビルの光、車の流れ、夜風に揺れる街の明かり。どれもアテムの時代にはなかったもの。
「…お前の世界は、眩しいな。」
「眩しい?」
「生きている者の世界は、音も、匂いも、手触りも、全部、鮮やかだ。」
瀬人は視線を逸らし、少しだけ唇の端を上げる。
「あれだけ還ると騒いだお前が、今更“生きる”を羨むとはな。」
「羨んでなどいないさ。」
アテムは即座に否定する。
だが、その声の端に、僅かな迷いがあった。
瀬人はその揺らぎを見逃さなかった。
「ならば、その顔は何だ。」
アテムは答えず、ただ目を細めて夜景を見詰める。
その胸の奥で、何かが微かに軋んだ。
瀬人は腕を組んだまま、小さく息を吐く。
「お前がこの世界を“綺麗だ”と思っている限り、絡まりは解けない。」
「…かもな。」
アテムは静かに微笑む。
その笑みは、どこか少年のようで、同時に王の孤独を滲ませていた。
夜の空気が静かに流れる。
その沈黙の中に、まだ名前のない感情が、確かに息づいていた。
風の音。遠くの街の明かり。
瀬人の生の熱が、隣で確かに息づいている。
その「存在の確かさ」が、アテムの魂を静かに揺らした。
生きるとは何か。
王として終わり、魂として封印を解かれ、今はただ“存在している”だけ。
それを本当に“生”と呼べるのか。
瀬人の生き様を知れば知るほど、その問いは静かにアテムの胸を侵食していった。
絡まりはまだ解けない。だが、解こうとするよりも、寄り添う方が自然だと思えてしまう。
その夜を境に、2人は少しずつ変わった。
必要以上に言葉を交わさずとも、どちらかが息を吸えば、もう片方が吐くような。
心が揺れる瞬間が、日常に混ざり始める。
それが、研究の終わりではなく“関係の始まり”であることを、まだ、どちらも気付いていなかった。
アテムはふと、窓の外に視線を向けた。
遠くでは、まだ眠らない街の灯が瞬いている。
瀬人は未来へ向かって生きている。
自分はどうだ。そう問いかけた瞬間、胸が微かに疼いた。
「…生きるとは、何だろうな。」
その言葉は、誰に向けたものでもなく、ただ静かに宙へ消えていった。
3章
「兄様。もうこれ以上は働き過ぎだからね。」その一言で、瀬人の予定表は一瞬にして崩壊した。
モクバが役員たちを巻き込み、「CEO休暇取得プロジェクト」なるものを勝手に立ち上げたのだ。
いつものように捩じ伏せる間もなく、休暇のスケジュールが組まれ、行き先までも既に決められていた。
「海だと?」
瀬人は露骨に眉を顰めた。
「俺は砂よりも土台のある場所を好む。」
「でも、アテムもきっと楽しめると思うよ。」
モクバはにやりと笑う。
「兄様だって、たまには何も建設しない時間が必要なんだ。」
「半月は長すぎる。1日だ。」
「なら2週間。」
「2日だ。」
そんな小競り合いの後、渋々、瀬人は承諾した。
期間は1週間。
行き先は海馬家所有のプライベート・ヴィラ。紺碧の海と白い砂浜に囲まれた、南国の静かな島。
携帯端末も、カードすらモクバによって没収され、瀬人は久々に“完全なオフライン”を強制されることとなった。
アテムは、初めて見るビーチに目を細めていた。
潮風が髪を揺らし、波音が絶えず打ち寄せる。
その響きは、アテムの記憶のどこにも存在しない音だった。
「アテム、海だ。無闇に入るな。」
「砂漠では見られなかったものだ。港とも違う。」
「砂漠とは逆だ。終わりが見えない。」
瀬人が短く答えると、アテムは微かに笑った。
「お前は、この広さをどう思う?」
「計測不能だ。」
「そういうことじゃない。もっと…癒しとか、精神的な何かはないのか。」
「ない。…悪くはないがな。」
瀬人が素直でないのは今に始まったことではない。
だが、悪くない、と口にしたのだから良いのだろう、とアテムは思うことにした。
波が足もとをさらい、白い泡が指の間を通り抜けていく。
瀬人の声は乾いていたが、その横顔にはほんの少しの解放感が宿っていた。
アテムはその変化を感じ取りながら、胸の奥で、瀬人にもこういう時間があるのだ、と少しだけ安堵した。
波が静かに寄せては返す。
海上には、瀬人の操縦する小型クルーザーが白い軌跡を描いていた。
「俺は子供を楽しませるのが仕事だ。」
瀬人が短く言い放つ。
「お前も例外ではない。」
「俺が子供扱いなのか?」
アテムが苦笑する。
「事実だろう。精神年齢で言えばな。」
サングラスで目元は見えないが、瀬人の口元が僅かに緩む。
その軽口に、アテムもまた、久しく忘れていた“無邪気さ”を取り戻すように笑った。
研究で、堅苦しくなっていたのかもしれない。
海風が頬を撫で、潮の匂いが鼻を擽る。
太陽の光が海面に散り、煌めく粒がまるで空から降るようだった。
「行くぞ。教えた通りだ、新人ダイバー。」
瀬人がそう言って、ウェットスーツ姿のアテムを船縁に促す。
「よろしく頼むぜ、バディ。」
「その呼び方は好かんな…。」
「だが、俺はそれ以外に教わっていないぜ?」
アテムは小さく息を整え、教わった通り、背面から海へと身を投げた。
水が身体を包む瞬間、世界が反転する。
音が消え、代わりに自分の呼吸だけが響く。
レギュレーターを通る空気の音が、世界で唯一の“生”だった。
深く潜るほどに、水が重くなる。
胸が圧され、血の流れが耳の奥で微かに鳴る。
8mを過ぎる頃、体に冷たさが走った。
だが、その冷たさが、むしろ“生きている”ことを確かめさせる。
アテムはさらに少しだけ深く潜った。
そんなに深くはない。潜ることから、留まることへ。呼吸を安定させた時、アテムの胸の奥で何かが弾けた。
海の底には、青と緑が溶け合う静かな世界が広がっている。
透明度は高く、視界は良好。
光が揺れ、砂が微かに舞い上がる。
体を安定させつつも、波には逆らわない。
岩場に掴まり、奥を覗く。
貝を拾うと、瀬人がすぐに“捨てろ”とハンドサインを送ってくる。
アテムは小さく頷き、指先から離す。
指の間を抜ける貝の感触が、奇妙に現実的だった。
やがて、海底で仰向けになる。
見上げると、光が水面を透かして降り注ぐ。
その光は梯子のように連なり、泡がゆっくりと昇っていく。
まるで天に還るように。
これが、生きているということか。
声は出ない。
だが、胸の奥で何かが確かに脈打った。
振り返ると、瀬人が居た。
水の中でゴーグル越しの視線が交わり、短い頷きが交わされる。
その一瞬、言葉より確かなものが心に流れ込んだ。
還るだけの筈だった。
それなのに今、胸の奥が熱い。
何かが確実に、現世に絡みついていく。
海面に顔を出すと、瀬人が笑っていた。
「どうだ。砂漠の王も、生の水は悪くないだろう。」
「…ああ。これは、悪くない。光が差し込んでいた、思ったより明るいんだな。」
「お前が見たのは"天使の梯子"だな。」
「天使の梯子…。」
アテムの声は波音に消えた。
瀬人の瞳の奥で、何かが微かに揺らめいた。
海の休暇は、思っていたよりも長く、静かだった。
スーツもカードも要らない。
ただ、波と風の音だけが、時間を刻んでいる。
瀬人は久しぶりに“何もしない”時間を持て余していた。
だが、不思議なことに、退屈ではなかった。
隣でアテムがログブックにダイブ記録をつけながら、海を眺めている。それだけで、空気が満たされていく。
「海馬。今日の海は穏やかだな。」
「ああ。昨日より風が少ない。もう一本潜るか?」
「うん…ん?…まだ、潜れないんじゃないか? 計算上、窒素が残りすぎている。」
「正解だ、新人。」
そんな他愛もない会話が、妙に心地よかった。
アテムが笑う。
その横顔が、光を受けて鮮やかに見えた。
生きている。
その当たり前の事実が、瀬人の胸を刺す。
理屈では分かっている。
研究を再開すれば、アテムはもう居ない。
“還る”という結果を導き出すのが目的だった筈だ。
だが、今のアテムを見ていると、その結末が、突如として残酷なものに思えてならなかった。
何を怖がることがある。
瀬人は自問する。
答えは出ない。
ただ、横目で隣の存在を確かめる。
波が砕け、光が揺れる。
時間が許す限り2人は海に潜った。
アテムは、海へ続く遊歩道を歩きながら、掌を微かに握った。
潮風の温度が、現世でしか感じることのできない“生の証”として肌に残る。
それが美しいと知っている。
そして同時に、美しいと思えば思うほど、選ばなければならない岐路が遠ざかることも、理解していた。
「…分かっている。大丈夫だ。」
誰に向けたわけでもなく、零れた独白だった。
瀬人が隣にいることの確かさも、世界の光が優しいことも、本来は“長く触れてはいけない”類のものだと、アテムは誰より自覚している。
それでも、足は止まらない。
選ばなければならない時が来る、と知りながら、その美を前にして歩みを止められるほど、アテムは強くはなかった。
海から上がり、砂の上に並んで座っていた。
太陽は傾き、影が少し長くなっている。波の音だけが近い。
瀬人は濡れた髪を払いながら、ふと自分の胸元に残る微かな熱に気付いた。
海水のせいではない。
露光の調整のように何度も理由を探してみるが、どの理屈にも当てはまらなかった。
「…違うな。予定にない。」
小さな誤算が、胸の奥でゆっくり形を持ち始めていた。
アテムは濡れた髪を押さえながら、ゆっくりと呼吸を整えている。
何を考えているのかは分からない。
けれど、まるでこの世界の温度をひとつひとつ確認するような、静かな仕草だった。
瀬人は意識せずにその横顔を見ていた。
水滴がひとつ、アテムの髪から落ち、砂に吸い込まれる。
その瞬間、風が止んだ。
耳に入る音が波だけになり、周囲が異様に静かになる。
瀬人は、ふと呼び止めそうになった。
理由はなかった。
ただ、この静けさの中でアテムが息をしていることが、なぜか目を離してはいけないもののように思えた。
しかしすぐに、自分の視線を逸らす。
こんな感覚は、分析する価値すらない。
「…移動するぞ。」
短く告げると、アテムは微かに笑って立ち上がる。振り向いて海を眺める顔には、微笑が浮かぶ。
その笑みが、風の戻った海の光に揺れていた。
アテムは夕陽に照らされ、穏やかな表情で海を見詰めている。
その姿に、瀬人の胸が、僅かに軋んだ。
何故か、戻った筈の風の音が遠く感じた。
「何か、考えているのか?」
「いや。…ただ、綺麗だと思った。」
アテムの呟きに合わせたように海風が凪ぐ。波の音だけが残った。
その静けさが、アテム自身から滲み出ているものだと瀬人は理解してしまった。
理解した瞬間、ほんの一拍だけ呼吸が止まる。
「厄介だ。」そう思ったのに、視線はどうしても離れなかった。
瀬人はその横顔を見て、言葉を飲み込んだ。
"この世界を“綺麗だ”と思っている限り、絡まりは解けない"
もう、言えない。
それを告げれば、アテムはまた迷い、また選ばなければならなくなる。
冥界へ還る道か、生きて彷徨う未来か。
選ばずに済むように、瀬人は口を閉じた。
「そうか。」
代わりにそれだけを答える。瀬人の声は、少し掠れていた。
沈む太陽が海に溶け、空と水が同じ色に染まっていく。
アテムは静かに息を吸い込んだ。
胸の奥が温かく、少し苦しい。
それが何なのか、まだ言葉にならない。
この時間が好きだ。そう思った瞬間、アテムは小さく目を伏せる。
自分が“還る存在”であることを、微かに怖いと感じた。
その感情を振り払うように、穏やかな声で言う。
「海馬。明日もまた潜るか?」
「…ああ。お前が望むなら、何度でも。船の操縦も教えられる。」
「それは魅力的だ。」
「…戻るか。冷える。」
瀬人の言葉は、殆ど逃げ道のように短かった。
アテムは歩き出す。
濡れた砂が足裏に貼り付いては剥がれ、また貼り付く。
その繰り返しは、まるで“決められないまま歩く者の足取り”のようで、瀬人は目を細めた。
アテムは分かっている顔をしていた。
“選ばない”のではない。
“どちらかを選ばなければならない”という現実を。
その自覚が瀬人の胸に沈んだ時、内側のどこかが静かに軋んだ。
アテムが海の底で見たもの、触れた光と闇。沈黙の重さが脳裏をよぎる。
今のままなら、冥界の門は開かない。
門前で立ち尽くすアテムと、それを見つめる自分の姿が重なる。
瀬人の胸に生まれたのは、保護でも哀れみでもなく、もっと別の色だった。
それは、名付ければ脆く散り、名付けずにいれば届かないものだった。
瀬人はそれを抱えたまま、ただ歩いた。
アテムの歩幅と自然に揃うのを、敢えて意識しないようにしながら。
「…海馬。さっきのことなんだが…。」
アテムが声を落とした。
海風に消えそうな声だったが、瀬人には聞こえた。
“還るつもりでいた。だが、迷った。”
言葉にならなかったその想いを、瀬人だけが拾った。
「後で聞いてやる。」
短く告げた声は、拒絶でも、優しさでもなかった。
ただ、受け止める準備だけを含んでいた。
アテムは歩みを緩め、息を吐いた。
誰より強く、誰より脆く、そして誰より“生きようとする者”の息だった。
瀬人はそれに気付きながら、やはり言わなかった。
“選べ。お前自身の意志で。”
その言葉だけが喉の奥に刺さったまま、海の音に紛れて消えていった。
風が吹き、波が寄せてくる。
その音の裏に、互いの心の鼓動が、静かに重なっていた。
それは、魂が侵食を始めた音だった。
夜の海は、昼とは別の表情をしていた。
月が波の上を滑るように照らし、風はゆっくりと肌を撫でていく。
その感触が、アテムの頬に、指先に、確かに残った。
「…風の匂いが違うな。」
隣で瀬人が腕を組んで立っている。
アテムは頷き、夜気を胸いっぱいに吸い込んだ。
空気がひんやりとして、肺の奥に染みる。
その冷たさが、妙に心地よかった。
“生きている”という実感。
もう二度と感じることはないと思っていた感覚が、この場所では、当たり前のように存在している。
波の音。
遠くの光。
人の声の余韻。
それらがひとつずつ、アテムの中の“死”を薄めていく。
俺は、還る存在だ。そう自分に言い聞かせるように思う。
けれど、胸の奥が微かに疼いた。
“還る”という言葉が、初めて痛みを伴って響いた。
瀬人がふと、視線を向ける。
「どうした。冷えたか?」
「いや、違う。」
アテムは小さく首を振る。
“寒い”ではなく、“感じている”のだ。
この世界の温度を。
この世界の息づかいを。
瀬人が立つ場所。そこに、現世の重みがあった。
その声、仕草、息。
それら全てが、鮮やかに、確かに“生”だった。
その横顔を見詰めながら、アテムは言葉にならない思いを抱く。
今この瞬間だけは、冥界ではなく、現世のどこかで生きていたい。
理由も理屈もなく、ただそう思った。
これは、抱えてはならない感情だ。分かっている。
それでも胸の奥が疼く。
波が寄せては返す。
アテムは分かっていた。砂に残る足跡が、やがて消えるように、この時間もいつか終わる。
それでも。
もう少し、この世界に触れていたい。その想いが、静かに心の奥に沈み、“魂の絡まり”は、またひとつ形を変えていった。
夜は、息を潜めたように静かだ。
波の音も遠く、風の気配も殆どない。
ただ、月の光だけが海面に落ち、白く滲んでいた。
瀬人はベッドの端に腰掛けたまま、窓の外を見詰めていた。
何かを考えているようで、何も考えていないようでもあった。
薄いカーテンが微かに揺れるたび、光が頬を撫でた。
その輪郭が、時折、現実のものとは思えないほど淡かった。
アテムは、その背を見つめる。
眠る気配がない。
「…お前も、夢を見るのか?」
ぽつりと尋ねた。
瀬人は、肩越しに振り返る。
「夢、か。最近は見なくなった。」
それだけを答え、再び視線を窓の外に戻す。
部屋の中に、短い沈黙が落ちた。
静寂は、水面のように張り詰めている。
互いの呼吸が、微かに重なり合うたび、空気が揺れた。
アテムは、ほんの僅かに微笑んだ。
「なら、今が夢なのかもしれないな。」
瀬人は、何も言わなかった。
ただその言葉に、ほんの一瞬、痛みが走ったような気配を見せた。
その痛みの意味を、アテムは知っている気がした。
夢が醒めれば、終わる。
この穏やかな時間も、触れられる距離も、風の匂いも、夜の温度も。
瀬人は、ふと目を閉じる。
「…そうかもしれんな。」
低く呟いた声が、波の音と混じって消えていった。
その瞬間、カーテンの隙間から細い風が入り込み、部屋の温度を僅かに攫っていった。
まるで夢が静かに後ずさるように。
アテムは、ただ静かにその横顔を見詰めた。
その胸の奥に、形のない痛みが滲む。
なぜだろう。今見ているこの世界が、耐えられないほど、美しいと感じたのは。
その感情の意味を、瀬人はまだ問わなかった。
けれど、その沈黙の中で、絡まりはもう、解けないほどに結ばれていた。
そして心の奥で、小さく願う。
この夢が、もう少しだけ、続けばいい、と。
夕陽が沈みかけの海を赤く染めていた。
2人は浜辺の端まで、言葉もなく歩いていく。
瀬人が歩くたび、乾いた砂が音を立てる。
アテムはその後ろを静かに歩き、時折、沈む光を確かめるように立ち止まった。
「…夕陽を見るのか。」
瀬人が問うと、アテムは首を振る。
「ただ、覚えておきたいだけだ。」
「何を。」
「この色を」
瀬人は何も返さなかった。
波の音がそれを待つように寄せては返す。
沈む太陽の下、2つの影が長く伸びた。
瀬人はその影を一度だけ見た。
自分とアテムの影が交わる、その一瞬を。
風が少し冷たくなる。
アテムは気づいたように肩を竦めた。
瀬人は上着を渡しかけたが、その手を途中で止める。
そんなことをする理由が、どこにもないはずなのに。
「戻るぞ。」
短く言う声だけが、沈む光に吸い込まれていった。
夜になり、海は静まり、風が止む。
波音だけが、遠くで一定のリズムを刻んでいた。
瀬人は、まだ眠れずにいた。
眠れない理由を計算しようとした。
だが、どのパラメータにも当てはまらなかった。
アテムが目を閉じると、瀬人は小さく息を吐いた。
今なら距離を置ける、と分かっているのに、身体のどこも動かなかった。
止めるなら今だ。
そう理解しながら、結局はアテムの寝息を確かめるまで視線を外せなかった。
灯りを落とした部屋の中で、アテムの呼吸だけが、微かに聞こえる。
この静けさの中に、奇妙な現実感があった。
夢のように柔らかく、それでいて痛いほど確かな“生”が確かにあった。
翌朝、陽が昇る。
風が吹き、波が再び動き出す。
休暇が、終わる。
4章
再開された研究には、かつての熱が戻らなかった。ディスプレイに並ぶデータの光は、どれもどこか鈍く、冷えて見える。
瀬人は手を動かしながら、隣に立つアテムの沈黙が、いつもより重いことに気付いていた。
その沈黙の奥に、あの日の海の光が、まだ薄く差しているのを感じる。
まるで、その残滓だけがアテムの内側で静かに呼吸しているようで。だが、二度と掴めるものではない、と理性が告げる。
目的も理論も、今は遠かった。
「…少し、休む。」
アテムが椅子を引いて立ち上がる。その声は、普段より僅かに乾いていた。
瀬人は短く頷き、資料を束ね直す。
ページの擦れる音だけが、静まり返った室内に流れた。
しかし、ほんの数分後、ふと気付く。
そこにあるはずの気配が、するりと抜け落ちていた。
胸の奥で、微かに何かが跳ねる。
還る、ではない。還れないのだから。暫くすれば戻る筈だ。
そう理解していても、体が勝手に立ち上がっていた。
廊下のカメラを数枚確認する。
どの画面にも、アテムの姿は映らない。
呼吸が、僅かに浅くなる。
どこへ行った。
瀬人は歩きながら、自分でも説明できない違和感を追い続けていた。
アテムの姿が見えないという事実以上に、胸の奥で何かが軋む。
普段なら決して起こらない種類の“空白”が、静かに広がっていく。
足音だけが廊下で反響する。
その反響の合間に、ほんの一瞬だけ、アテムの呼吸の気配を探そうとする自分に気付く。
いない。
その事実は単純なのに、心に落ちるときだけは妙に鋭かった。
息を吐くと胸が痛い。
あの海の光が残滓になってアテムを揺らしたように、自分の内側でも何かが僅かに揺れ続けている。
何を焦っている。
そう理性が冷静に囁く。
だが、冷静さが役に立たないほど、胸の奥は微かに熱を帯びていた。
階段を上る途中、瀬人はふと立ち止まる。
ひとつ深く息を吸っても、喉の奥のざらつきは拭えなかった。
アテムは還れない。
それは事実で、揺るぎのない現実だ。
ならば今のこれは何だ。
“いなくなるかもしれない”という、あり得ない筈の精神的な違和感。
自分らしくもない。
だが否定すればするほど、胸の奥のざわめきは濃くなるばかりだった。
目の前には、屋上へ続く最後の扉がある。
触れた指先が微かに震える。
それを自覚した瞬間、瀬人は短く舌打ちし、無理やり息を整えた。
この先にアテムがいる。
そう確信した理由はどこにもないのに、胸がその答えを先に選んでしまっている。
手のひらに、扉の冷たさが伝わる。
その温度差が、今の自分の“揺れ”を容赦なく映し出した。
開けなければ、分からない。
瀬人は静かに瞳を伏せ、ほんの一瞬だけ息を止める。
それは、胸の奥の勝手な焦りを押し留めるための、短く静かな抵抗だった。
そして、躊躇いを置き去りにするように、扉を押し開いた。
ドアを押し開けると、夜風が頬を撫でた。
温度は低いのに、不思議なほど柔らかい風だった。
そこに、アテムがいた。
欄干に背を預け、ゆっくりと空を見上げている。
街の灯りが遠く微かな粒となって瞬き、その光が横顔を淡く照らしていた。
その表情は、呼吸ひとつで崩れてしまいそうなほど脆く、美しかった。
「…探したぞ。」
短い言葉は平静だったが、その裏にある焦りが、自分にしか聞こえない。
アテムが振り返り、小さく笑った。
「悪い。少し、風に当たりたくなっただけだ。」
穏やかな声。だが、その穏やかさの中に、確かな“遠さ”が混じっていた。
瀬人は思わず言葉を失い、その横顔を見詰めた。
月光を受けたアテムは、まるで触れたら消える泡のようで、胸の奥で、何かが軋む。
理屈も使命も意味を成さない。
ただ、この存在を「失いたくない」という叫びだけが、はっきりと形を持ちはじめていた。
「アテム。」
名前を呼ぶ声が掠れた。
アテムが眉を僅かに動かして振り向く。
「何だ?」
瀬人は息を吸い、言葉を探す。
だが、冷静さが口を閉ざす前に、心が先に動いた。
「…勝手に消えるな。」
夜風が、ぴたりと止まったように感じた。
アテムの目が驚きに揺れ、その奥に柔らかな光がじわりと灯る。
「消えられないから、ここに居るんだぜ…?」
瀬人は答えず、ただその瞳から視線を外さなかった。
その沈黙こそが、何よりも雄弁だった。
アテムがそっと息を吐く。
胸の奥で、何かが静かに音を立て始める。
この先で臨界点が来る。
お互いが、それを薄く察していた。
「…俺は…今はここに居るだろ…。」
その一言が、世界の輪郭を変えた。
風が再び吹き抜け、夜の静けさが戻る。
だが、もう何も同じではなかった。
アテムは自分の口から零れた言葉に、遅れて胸が震えた。
“居る”と言った瞬間、自分の中で何かが決壊したのが分かる。
ただ状況を述べただけの筈なのに、あまりにも“生”に近すぎた。
世界が静かになる。
瀬人は動かない。
ただ、アテムを見ている。
視線が触れたところから、心臓の鼓動が速くなる。
ここだけは…触れられたくない。
理性がそう危険を告げるのに、胸の深いところでは反対の声が囁いた。
触れてほしい。
その囁きは、冥界の沈黙より重く、現世の風より温かかった。
アテムは目を伏せる。
軽い気持ちで言ったのではない。
言わされるように零れた言葉だった。
“ここに居る”と告げた瞬間、自分はもう、冥界の門を叩く資格を失っていたのだと薄く気付く。
還れる者は、こんな言い方はしない。
漸くその事実を認めた途端、胸の奥が僅かに軋む。
いたい。
逃げたくない。
瀬人は一歩も動かずに、ただ見詰めていた。
その視線が、言葉より強くアテムの心を捕らえる。
何故、黙っているんだ。
沈黙が、逃げ道をひとつずつ消していく。
まるで、追い詰める代わりに“戻れなくしている”かのようだ。
風がそっと吹き抜け、アテムの髪を揺らした。
冥界は応じない。
呼んでも、門は静かに沈黙を返すだけ。
その沈黙を、瀬人の視線がなぞる。
逃げることは、もう許されない。
アテムは息を吸った。
胸が、重くて、熱い。
言葉にならない何かが、喉で震えている。
瀬人の青い瞳は、まるで
“ならば、こちらに来い”
そう告げているようだった。
アテムは視線を彷徨わせた。
瀬人を見ると、心が揺れる。
目を逸らしても、胸の鼓動が騒ぎ立つ。
落ち着け。何でもない。ただ言葉を交わしただけ。
そう思おうとするのに、身体が言うことを聞かない。
足の裏が地に着いていないような感覚。
立っているのに、どこかが沈んでいく。
瀬人の呼吸が、静かに響く。
ただそれだけの音が、異様に近く感じた。
アテムは唇を噛んだ。
瀬人に触れられていないのに、触れられた後のように落ち着かない。
その視線が心を掴んだ瞬間、アテムの世界が僅かに傾いた。
瀬人はゆっくりと手を伸ばした。
触れない。
けれど、触れる直前の温度だけがアテムに届く。
その温度が、胸の奥を締めつけた。
アテムが目を逸らした瞬間、瀬人は一歩踏み出し、迷いなく、アテムを抱き締めた。
「…海馬…?」
驚きでアテムの体が強張る。
瀬人は何も言わず、その細い背をしっかりと包み込んだ。
互いの心臓の鼓動が伝わる距離。
数秒の沈黙の後、瀬人の低い声が落ちる。
「もう、絡まりを…解かなくていい。」
アテムは息を呑んだ。
「え…?」
瀬人は抱く腕の力を僅かに強めた。
まるで、これが最後になっても構わないと言うように。
「現状、お前が還る時に、俺を連れて行くのが障害だと言うのなら、還るな。」
その声は理屈でも策でもない。
告白にも似て、願いにも似た、胸の奥から零れた真実。
アテムの瞳が揺れ、瀬人の胸の中で微かに震える。
「…そんなことを言われても、俺は…。」
瀬人はその続きを聞かず、アテムの後頭部に手を添える。
「お前がどう足掻いたところで、この絡まりは消えん。」
その声音は、確信そのものだった。
説明ではなく、事実の提示。
「何故…。」
何故、そんなことを言う。
何故、そんな目で見る。
震えた問い。瞳が僅かに赤い。
瀬人は短い息を吐いた。
諦めの気配でも、迷いでもない。
ただ、決意だけが温度を持っているような呼吸。
続く言葉を、アテムは待つしかなかった。
逃げ出すという選択肢が、奇妙に遠のいていた。
冥界の沈黙は重い。
だが瀬人の沈黙は、もっと重かった。
アテムの胸の奥に、確実に落ちていく。
吐息が髪を揺らす。
僅かな距離の変化なのに、空気の密度が変わる。
アテムは息を呑む。
肩に力が入り、指先が微かに震えた。
「…何故、だと…?」
低い声が、迷いを断ち切る刃のように響いた。
アテムは顔を上げる。
瀬人の青い瞳が、真っすぐに己を射抜いていた。
その距離が、本能的に危険を告げていた。
逃げたいのに、足は動かない。
拒めるならとっくに拒んでいる。
拒む理由も、もうどこにもないと分かっていた。
冥界は応えない。
還れという合図も、待てという気配も、何も寄越さない。
ならば、この沈黙のまま、どこへ落ちる。
「海馬…?」
名前を呼ぶだけで、喉が震える。
意識のどこかで、もう抗う気力が溶けはじめているのを自覚する。
瀬人は息を整え、力強く告げる。
「俺が、絡まる。」
世界から音が消えた。
その一言に、アテムの胸が締め付けられる。
理解を越えた場所に、しかし確かな真実として響く。
瀬人はもう迷っていなかった。
望むのは、アテムと共に“今を生きる”こと。
アテムは言葉を失い、その胸に心を震わせる。
魂の絡まりが、理屈を越えて立ち上がってくる。
だが。
アテムの脳裏をよぎるのは、冥界の門。
それは姿を見せない。それでも確かに“応答しない”という事実だけが残っている。
「還らなければ。」理性が叫ぶ。
だが、瀬人の体温に触れた瞬間から、その声は遠のいている。
頭の中に、アメリカに来てからの日々が浮かぶ。
瀬人の言葉、夜の議論、決闘の熱。
海の光、風の匂い、笑う声。
夢を語る背中。
それを見ながら、自分も笑ってしまったこと。
死者である自分が、本来抱けない筈のもの。
"やりたいことが出来ること"
"思い切り楽しむこと"
"思い出が出来ること"
そして、
"誰かを想うこと"
どれも、もう“死者”である自分には許されない筈のことだった。
胸が、熱い。
追い詰められているのではない。
求められている。
その確信が、心の奥で静かに息をした。
これ以上、触れられたら、戻れない。
分かっているのに、目を逸らせなかった。
瀬人の指先が、アテムの頬に落ちる寸前で止まる。
その距離が、痛いほど近い。
沈黙の中で、瀬人の呼吸がひとつ深くなり、世界が、静かに傾いた。
「俺は、どうすれば…。」
いつの間にか、"世界が綺麗だと思い"、そこに在る"未来を、想像した"。
胸の奥が痛いほどに脈打つ。
諦めか、喜びか。判別できない感情が溢れる。
「怖がるな。」
瀬人の低い声が、すぐそばで落とされた。
命令ではなく、誘いでもなく。
ただ、アテムの揺れそのものを包むような音。
怖がるなと言われて余計に怖くなるのに、その声に縋りつきたくなる自分もいる。
いたい。
頭の中で、声がした。
「だめだ…。俺…もう、還れない…。」
痛みに耐えるように、アテムは瀬人のシャツを掴んだ。
指先に微かな震え。唇が僅かに震え、胸の奥がぎゅっと縮む。
鼻の奥が刺すように痛く、目頭が熱を帯びる。
必死に、崩れそうな心を押し止める。
「…俺は今、生きている…。」
その告白は震え、夜の静寂へそっと溶けていく。
残ったのは、逃れようのない“現在”だけ。
瀬人はアテムの赤い目元へそっと触れた。
その青い瞳の奥に、問いも拒絶もない。
ただ、目の前の存在をそのまま受け止める、静かな確信だけ。
「そうだ。お前は生きている。」
その声に胸の奥が反応し、アテムの唇がまた僅かに震えた。
泣いているのか、笑おうとしているのか、自分でも分からない。
ただ、胸の内側で確かに何かが芽吹いていく。
「…お前が、あまりにも…生きているから。鮮やかで。…だから、俺は、いつの間にか…。」
生き始めてしまった。
瀬人は抱き寄せる腕にゆっくりと力を込める。
離す気など、初めからなかった。
鼓動が触れ合い、呼吸が絡まり、温度が重なる。
微かな笑みを浮かべて、瀬人が囁く。
「…お前も絡まったのか。…俺の"生"に。」
アテムは小さく頷き、額を瀬人の胸へ預けた。
世界が静まり返り、理性の囁きはもう遠い。
還らねば。
その声は温もりに触れた途端、砂のように崩れて消えていく。
腕を回し、瀬人の胸へ顔を埋める。
耳元で響く心臓の音が、遅れて自分の胸の奥へ反響する。
アテムは瀬人の胸に顔を埋めたまま、自分の中でも確かに脈打つ“生”を感じていた。
この音を、もう二度と忘れたくない。
生きている。
確かに、ここで。
「海馬…。生きているんだ…。…こんなにも、生きている…。還れない…。」
その言葉が零れた瞬間、瀬人は頬を寄せて微笑んだ。
「…お前は生きている。ここに居ればいい。」
理性では抗えない温もりの中、2人の時間は静かに、しかし鮮烈に流れていく。
冥界へ還るべきという声は、胸の高鳴りにかき消された。
生きることの鮮烈さに触れ、魂は静かに、しかし確かに絡まり合っていた。
驚きも戸惑いも、今はもう遠く、残るのは互いの鼓動と呼吸だけだった。
「もう…還る必要はない。」
瀬人の声は低く、確かに、そして優しく響く。
アテムはその言葉を受け止めながら、微かに頷いた。
自分の心も、身体も、既にこの瞬間に絡まりつつあることを理解していた。
アテムの額に瀬人の唇が触れる。軽く、しかし確かな温もり。
「ここが、お前の居場所だ。」
命令ではない。
願いでもない。
呼吸のように自然に、距離が閉じていく。
アテムの瞳が僅かに潤む。
胸の奥でほどけた感情が波のように押し寄せる。
唇が触れ合う。
触れられる、温度がある、生きている。
理性はもう何も囁かない。
夜の静寂の中、冥界でも現世でもない場所で、ただ互いの存在だけが確かだった。
絡まった魂が、初めて完全に重なり合ったように思えた。
アテムは小さく震えた息を吐き、そのまま瀬人の胸へ吸い込ませる。
「……俺は、生きて……っ…。」
「そうだ。お前も、俺もだ。」
夜は静かに、しかし濃密に2人を包み込んだ。
冥界の理も、現世の理も、このひとときだけは届かない。
ただ、生の温度だけがあった。
瀬人の唇が額に触れた余韻が、微かな震えとなってアテムの胸を満たしていく。
その温度は、冥界の光や、過去の記憶のどれにも属さない。
ただ「今」という瞬間だけが、脈打ちながら形を持っていた。
夜風がふたりの間をゆっくりと撫でる。
にもかかわらず、体の芯は不思議なほど熱い。どこを触れられても、溶け落ちてしまいそうなほどに。
アテムは瀬人の胸元から顔を上げた。
その瞳は微かに潤み、その色は深い赤ではなく、融けかけた宝石のように柔らかかった。
「…俺はきっと…お前の“生”に触れた瞬間に、どうしようもなく惹かれたんだ。」
それは言葉というより、自分の奥底から漏れ出た“本音の形”だった。
瀬人の青い瞳が静かに揺れ、その言葉を1つずつ確かめるように受け止める。
「アテム。」
呼ばれただけで胸が疼く。
名前の響きが、まるで生者としての“証”になったかのように胸骨へ響く。
瀬人はアテムの目元に触れ、指先でそっと撫でた。
優しい仕草なのに、不思議と抗いがたい力があった。
「死者、還れない。そのようなことはどうでもいい。ここに居て、俺の世界に触れているお前が“事実”だ。」
アテムは息を詰めた。
心の奥が、聞きたかった言葉に呼応するように震えている。
「海馬…。」
抑え込んでいた何かが、胸の奥でほどけていく。
冥界の沈黙よりはるかに重く、逃げ場のない“今”が迫る。
瀬人は不意にアテムの肩を包み、そのまま額と額を寄せた。
互いの呼吸が触れ合う距離。
心臓の音すら、混じり合うほど近い。
「生きろ。俺の隣で。」
その言葉は命令ではなく、願いでもなく、“選んだ未来”をそのまま差し出すような、澄んだ声音だった。
アテムの喉が震える。
「……生きて…いいのか…?」
漸く零れた問い。
それはまるで幼い子どものように脆く、しかし深く求める響きを帯びていた。
瀬人はその問いに、迷いなく応えた。
「お前が生きたいと願った瞬間から、それはもう許されている。」
アテムの胸が強く脈打つ。
痛いほどに、確かに。
「…生き、たい…。」
呟いた瞬間、膝から力が抜けそうになり、アテムは思わず瀬人の腕に縋りついた。
瀬人はすぐにその身体を抱き留める。
夜の空気が変わった。
まるで彼らの選択に呼応するように、月光が一段と濃く降り注ぐ。
瀬人は軽く息を吐き、アテムの耳元で囁く。
「生きろ、これから先は、俺が“証人”になる。」
アテムの目が大きく揺れる。
「お前が生きることも、揺れることも、迷うことも、全てだ。」
その声は夜の静けさの中で深く響き、アテムの胸の奥底へゆっくりと沈んでいく。
逃げられない。
だが、それは束縛ではなかった。
解放にも似た、不思議な“温度の枷”だった。
アテムは震える声で答える。
「証人なんて…そんなものを…。」
瀬人は微笑む。
「必要だろう。お前には。」
アテムは息を呑んだまま動けない。
世界が、瀬人の手の温度1つで形を変えていく。
「還る必要も、消える理由も、もうどこにもない。」
瀬人の囁きは、夜の屋上の静寂をゆっくりと塗り替えていく。
そして、アテムは静かに目を閉じ、確かに頷いた。
「…俺は…生きる。お前と…この場所で。」
瀬人の表情が僅かに緩む。
その瞬間、ふたりの“絡まり”は、もう誰にもほどけないほど深く沈んでいった。
Epilogue 絡まりのままに
ビル風が一瞬途切れ、代わりに温かな風がそっと吹き抜けた。
都会の無機質な匂いの底に、乾いた砂漠の気配が微かに滲む。
遠い記憶の層が震え、かつての「セト」の気配が世界へ薄く触れた。
顔を上げたアテムの前に、どこからともなく現れる女神。
茶色の髪が揺れ、切れ長の青い瞳が愉快そうに細められる。
「あら、やっぱりそうなっちゃったのね。」
女神は実に楽しそうに目を細める。
「ふふ。だから門前払いされたのね。」
「…門前払い?」
女神は肩を揺らし、言葉の端に茶目っ気を滲ませる。
「ええ。だって今のあなた、還れるわけないでしょう?」
還れない。
還りたくない。
ここに居たい。
アテムは瀬人を一瞥する。
瀬人は静かにその視線を受け止める。
表情の変化は僅かだが、胸の奥の緊張がふっと解ける気配があった。
女神は続ける。
「冥界はあなたを迎えるつもり満々だったのよ?3000年あなたの魂を待って、準備も万端。でもね、今のあなたは絡まってる上に鮮やかすぎる。」
アテムが微かに眉を寄せると、女神は笑みを深める。
瀬人は静かにアテムの隣へ歩を寄せる。
守るでも奪うでもなく、ただ“そこにいる”距離。
「鮮やかな魂は“生”を選んだ証。冥界の理より、今の"あなたたちの織りなす色"の方が強い。門は開かないわ。」
女神は宙に指先を走らせ、経糸、緯糸、と宙に糸を織り上げていく。
「…俺が拒んだのではなく?」
「拒んだっていいのよ。もう絡まっちゃってるんだから。こっちの“生”に。ほんとうに綺麗。」
その言葉に、アテムの胸の奥で答えがゆっくり形を取る。
「…俺はまだ、還れなくていいのだろうか。寿命という“誤差”の分だけ、ここに……。この魂と絡まって。」
その言葉を聞いた瞬間、瀬人は目を伏せ、ひどく静かな満足を、ただ呼吸で受け止めた。
女神の青い瞳が星のように輝いた。
「そう。それでいいの。誤差でも、瞬きほどでも、“生きたい”と選んだ魂は、美しい。」
彼女はふと表情を変え、今度は少しだけ真面目に、しかし軽やかな声で言う。
「私の眼には、今のあなたたちがとても綺麗なの。だから、暫くは還さない。文句があるなら冥界に言わせておきなさい。私は“今ここ”の味方よ。」
女神は瀬人に指を向け、うっとりしたように言う。
「流石ね、ほんと綺麗に染めちゃったわ。」
瀬人が静かに息を吸い、淡い笑みを浮かべる。
だがそこには、“奪われたくない”という意志がはっきりと宿っている。
「それで、全て解決したのだな。」
瀬人が淡々と告げる。
その声音は静かだが、どこか深く安堵していた。
女神は人差し指をひらりと向け、口元に愉快そうな笑みを浮かべる。
「勝利条件なら満たしていたじゃない。生き残るにしても、召されるにしても、選ぶのはあなた達だもの。」
アテムの瞳が微かに揺れ、瀬人は静かに瞬きを一度だけ落とす。
あの時、聞いた言葉が、遅れて胸に沁みる。
瀬人が短く言う。
「…違いない。」
女神はその返答に満足したように頷き、肩を竦めていつもの調子で続ける。
「で、そろそろ私はクビにしてもらえるでしょ?」
瀬人は淡々と、しかしどこか楽しげに答えた。
解雇の手順をはっきり思い描くことができた。
「そうだ。お前はクビだ。」
「いいわ。社長命令ね。」
女神は砂漠の風のように、ひらりと姿を消す。
残るのは、柔らかな空気と、互いの体温だけ。
アテムは瀬人を見詰める。
瀬人もまた、その視線を静かに受け止める。
絡まり合った魂は、もう解けない。
そして、今はそれで構わない。
アテムが瀬人へそっと手を伸ばす。
瀬人はその手を、逃がさぬように穏やかに握り返した。
未来はまだ描かれていない。
ただ、“誤差”の分だけ、今を生きていく。
