王の婿殿

冥界に連れて行かれたのは、愛か、それとも職責か


冥界の門を潜ると、燦々と照りつける王宮の中庭が視界に入った。
久しぶりに訪れた瀬人は、背筋を伸ばし、ひと息つく。
隣にはアテムが静かに歩いている。その瞳は穏やかに、そして少し楽しそうに瀬人の姿を見守っていた。
「王の婿殿、ご来臨を。」
迎えるのは、冥界の神官や高官、侍女たち。恭しく頭を下げ、整然と列を成す。
瀬人は小さく息を吐き、口元には諦めにも似た微笑を浮かべる。
またも「くだらん」と言い出しそうな瀬人を、アテムが肘で突く。
「…変わりなく何よりだ。」
その声は感慨も何もないものだが、無意識に威圧感を伴う。声が通るだけで、周囲の空気がぴりりと引き締まる。
侍女の1人が少し緊張した面持ちで進み出る。
「婿殿、こちらに。ご滞在の間も快適にお過ごしいただけるよう、全て整えております。」
瀬人は軽く手を上げて制する。
「そうか。下がっていい。…アテム、行くぞ。」
その言葉には、どこか瀬人らしい余裕と、他人を威圧する響きが含まれていた。
アテムは少し呆れた顔をして、小さく笑った。
「結局、すっかり馴染んでいるじゃないか。」
「誰のせいだ。」
「それは、周りが勝手に…。」
瀬人は微笑みながら甘く囁く。
「周りの中心は誰だ。まあ、それで既にこの世界は俺を拒めない。お前もこの世界の一部だろう?」
「ん…それは、そうなんだが…。」
少し頬を染めるアテム。
冥界の住人たちは尊すぎるそのやり取りに一瞬息を呑み、見てはいけないものを見るまいと顔を逸らすが、視界の端では追っている。
形式上の婿であり、王の婚姻の相手である瀬人。だが、それだけには留まらない。
その威圧的な優雅さと、甘くも静かな支配性に、誰もが自然と敬意を向けていた。
瀬人は短く目線をアテムに落とし、指で軽く肩を押す。
「今日のスケジュールは?謁見も、会議も、全て把握しておく。」
アテムは小さく頷いて微笑んだ。
「頼もしい婿殿だ。」
「形式上の、な。」
こうして、瀬人の久しぶりの冥界訪問は、婿殿として恭しく歓迎されつつも、アテムにとっては逃げられない甘美な序章となった。





王宮の廊下を歩く2人。冥界の住人達の誰もがが礼を尽くしつつ、瀬人に向かって軽く頭を下げる。
「王の婿殿、おはようございます。」
「王の婿殿、こちらでの御用は…。」
瀬人は軽く息を吐き、眉を僅かに寄せる。
「アテム、俺は単なる形式上の婚姻相手の筈だろう。一体どこまで周知した?」
声には諦め半分、受け入れ半分のニュアンスが混じる。
「冥界の住人は皆知ってるぜ?」
「住人が、皆…だと?」
アテムは少し笑みを浮かべながら、瀬人の腕を取る。
「海馬、今更気にするのか?皆が、お前のことを敬うのは当然なんだろう?」
「当然だ。だが、俺は冥界には縛られないと聞いた。婿殿などと扱われる筋合いは…。」
「それも別に、悪くないだろ?」
アテムの目が少し悪戯めいて光る。
瀬人は小さく苦笑し、仕方なくアテムに寄り添う。
「まあいい。形式上だが、お前の為だ。最低限の体裁は保ってやる。」
「素直じゃない奴だな。」
並んで歩いていると、廊下の奥から侍女がやってきて、礼をしながら瀬人にパピルスを手渡した。
「王の婿殿、こちらをご確認ください。」
瀬人はパピルスに目を落としつつも、ちらりとアテムを見て呟く。
「仕方がない…。お前の側にいると、形式上の筈が本当にそのような扱いをされる。」
アテムはにやりと笑い、瀬人の手をそっと握った。
「ほら、逃げても無駄だろ。こっちにいる限り、俺の婿なんだ。向こうでも、勿論そうだけどな。」
「…お前が“形式上”だと言ったのだ。しかし、逃げる以前に、どうやら現実は違うようだな。」
瀬人の低い声と微笑の中には、時折ほんのり黒いオーラが漂うのだった。

王宮の会議室。
アテムは資料を前に眉を顰めていた。隣には、形式上の婿である瀬人が座っている。会議が始まる前の、ほんのひととき。
「アテム、その書類は何故またそんな順番で並べた?」
瀬人が低く問いかける。言葉は穏やかだが、指先がアテムの書類に触れ、勝手に順番を整える。
「議題の順だが…?」
アテムが困惑するも、瀬人の手の動きは止まらず、書類を並べ替える。その度にアテムの指先が触れ、体は小さく反応する。
「…やはり、お前は面白いな。少しは反抗してみろと言いたくなる。」
瀬人の言葉に、アテムは小さく息を吐いて頬杖を付いた。
「王がそんな姿勢でどうする。議題はこの順に変えろ。」
並び替えたものを眺めていると、神官が新しい報告書を持ってきた。
瀬人はアテムの肩越しに目を通して静かに立ち上がり、アテムを振り向かせた。
「アテム、庭園へ行くぞ。会議の前に少し歩かせてやる。」
「えっ、今か?」
アテムは慌てる。まだ準備は終わっていない。
だが、瀬人は手を差し伸べ、軽く腕を絡めて引き寄せる。
庭園に出ると、朝露に濡れた花々が輝いている。瀬人は穏やかな表情で歩きながらも、常にアテムを意識させる距離を保つ。
「この世界の植生はやはり現世とは異なるようだ。」
瀬人の声が耳元に届く度に、アテムの頬が熱くなる。
歩調を合わせようとするも、脚の長さが違う。
「海馬…少し…ゆっくり歩いてくれ。」
「…歩幅1つでお前の心臓が跳ねるのも、悪くない。」
瀬人の言葉に、アテムは小さく息を呑む。
振り回される中で、完全に翻弄されていることを再認識した。
瀬人に"本気を出されて"からかなりの頻度でこの調子だった。
庭園を一周した後、瀬人は穏やかにアテムの手を握った。だがそのアクションが、日常のふりをした"瀬人の本気"の一端であることを、アテムは知らない。
「そろそろ会議の時間だな。王宮へ戻るか。」
「…そうだな。」
返答が途切れた瞬間、瀬人の青い瞳が鋭く光る。それにアテムは無意識に微笑んでしまう。
身に染み付いた、甘く、逃れられない日常。
冥界の王宮における、小さな日常イベント。会議、神官対応、庭園散歩、全てが、瀬人によって、静かに、しかし確実に、アテムを振り回す時間となっていた。

冥界の住人たちが静かに座し、午前の会議が始まろうとしていた。
何故か瀬人は正式に「王の婿殿」としてその場に呼ばれている。だが、やはり少し呆れた顔で椅子に腰掛けていた。
「婿殿…。くだらん…。」
小さく呟く。だが、アテムとは違い、姿勢は崩さない。
くだらないと言いつつも、その視線が会議の資料に向かうとすぐに真剣なものになった。形式はどうあれ、議題には妥協しない。
ソリッドビジョンで投影される資料。数字だけよりずっとイメージしやすいグラフや映像などでの表示。
過去、始めて会議に参加させられた瀬人は、その場でこれをスタンダードにさせてしまった。
冥界の住人は勿論素直に驚いた。アテムですら、そこまでやるか、と顔を引き攣らせていた。だが、文明加速装置海馬瀬人としてはただの合理的判断だった。
「この流れでは、商業流通に無駄が多い。これから提示する方法を採り入れれば改善の余地がある。」
瀬人は淡々と指摘する。住人たちは少し圧倒されつつも、確実に耳を傾ける。
今では誰もが知っている。
瀬人の合理的判断は容赦なく、かつ絶妙に冥界に適合する。
その間、アテムは、瀬人の横顔を半目で眺めていた。
「…相変わらずな奴だぜ…。」
小声だが瀬人には届いている。瀬人は微笑を浮かべ、ちらりとアテムの方を見て言った。
「俺が黙っているとでも思ったのか?」
「いや…頼もしい婿殿だ。」
アテムは目を伏せて小さく笑った。
小休憩を挟んで後半。
会議室は、重々しい空気が漂っていた。
冥界の神官や執政官たちが報告を始める中、形式上「婿殿」とされている瀬人だけが、静かに、しかし確実に存在感を示している。
「前回の収穫状況だが、統計上、数字が若干乱れている。そこで導入すべきものがこれだ。」
ソリッドビジョンで映像が投影される。
瀬人の声は低く、落ち着いている。だがその目は、資料を前に眉を顰めるアテムだけでなく、全員の心を射抜く鋭さを帯びていた。
「婿殿は…未来の力をここに導入する…と?」
執政官の1人が訝しげに尋ねる。
「何の問題がある。非効率を放置することは、冥界の秩序にとっても不利益でしかないだろう。」
瀬人は映し出される資料を操作し、問題箇所を指摘する。
「ここだな。収穫量と労働力の配分が非対称になっている。現行の手順では、損失が出る可能性が高い。」
アテムは机の端でその様子を見守った。
普段は他人に我関せずな瀬人が、冥界の為に合理的な判断を下す。
資料を前にした様子は決闘デュエルの時とも甘い時間とも違う。
至極真面目に、現世で培った知識と論理を、この冥界でも同じように機能させている。
「なるほど…改善の余地がある、と。」
アテムが感心した声を漏らすと、瀬人は軽く眉を上げる。
「手順を修正すれば、労力は軽減され、収穫率は向上する。試算表も作成してある。」
資料の内容が書き換わる。その指示は別段冷たさを帯びているわけではない。威圧感はあるが、寧ろ面倒見が良く、誰も反発できない説得力があった。
会議が進むにつれ、神官達は驚きとともに頷く。
アテムはその横顔を見つめ、心の中で小さく笑っていた。
「結局、海馬は…面倒見がいいんだよな。婿殿だとか関係ない。真面目なんだ。」
「くだらん…。あくまで形式上の婚姻相手だ。」
「ふふ、そういう事にしといてやるよ。」
そのやり取りに会議室の空気は一瞬和むが、瀬人はまた真剣な表情に戻り、改善案のまとめに取りかかる。
アテムはその姿を見て、また胸が熱くなる。形式上の立場を超え、瀬人の合理性と知性が冥界でもしっかり発揮されている。
それを目の当たりにし、採り入れることはアテムにとって最大の信頼でもあった。

会議が終わり、神官たちが王の退室を待つ。
アテムは瀬人に連れられて退室する。廊下を歩きながら、柔らかい光に照らされた2人の影が揺らめく。
「アテム、会議での改善案をお前に直接説明しておく。」
瀬人の声は穏やかだが、どこか掴みどころのない包容力がある。アテムは少し戸惑いながらもついていった。
アテムの執務室に入ると、瀬人は机の前に立ち、資料を整える。
「ここを変えれば、作業効率が格段に上がる。」
瀬人の指が資料をなぞるたび、アテムは思わず息を呑む。
「…これは言うほど簡単に出来るものなのか?難易度は高そうに見えるぜ?」
「簡単とは言わん。だが、無理ではない。お前が理解すれば、実行できる。」
その声には甘さが滲む。穏やかで、しかし力強い確信。
瀬人はゆっくり振り返り、アテムの肩に手を置いた。
「心配は不要。お前がやるべきことは、俺の説明を理解することだけだ。」
アテムの頬が熱くなる。振り回される心地よさと、少しの戦慄。たまに見せられる黒いオーラがふわりと漂う。
「海馬。お前、本当に…婿だからとか関係なく、全部見てくれるんだな。」
「俺は、お前の助けに応じ、お前を守る、そして見捨てない。それがお前の婿なのだろう?」
その言葉の端々に、甘さと黒さが同居している。アテムは小さく息を吐いた。
瀬人は更に近付き、資料をアテムの手元に置く。
「お前の目で確認し、必要があれば質問しろ。」
アテムが頷くと、瀬人は微笑み、さりげなく肩を抱き寄せ、囁いた。
「黙って従え。…それが一番、楽だ。」
アテムの胸が高鳴り、背筋にぞくりとした感覚が走る。
冥界の王宮に広がる静かな光の中で、2人は言葉にせずとも心を通わせていた。
「少し、外へ出るか。」
甘く、少し黒い、瀬人の力強い包容に、アテムは身を委ね、頷くしかなかった。

瀬人は石畳の隙間に生える雑草を指し、軽く眉を寄せる。
「管理はどの部署だ。」
アテムは息を呑む。目の前の穏やかな景色の中で、瀬人の視線だけが確実に自分を捕らえている。
「海馬、そこまで細かく見る必要は…。」
「必要だ。既にここはお前だけではなく、俺の王宮だろう。」
その声に、アテムは思わず瞬いた。理性と感情が交錯し、胸の奥が少しざわついた。
瀬人は庭園に出てきた下働きを呼び止めた。
そして、アテムを自分の隣に立たせた。
「アテム、指示を出せ。片付けさせろ。」
「今か…?」
少し戸惑うアテム。
「後回しに何の意味がある。誰の王宮なんだ?」
その言葉には甘さと同時に、逃げ場のない強さが宿る。アテムは小さく息を吐いた。
下働きへの指示を終えると、瀬人はアテムを軽く抱き寄せる。
「…海馬、何故そんなに…。」
「何故?俺は、本気を出してやると言った筈だ。」
その言葉にアテムは顔を伏せ、庭園の花の香りを言い訳に息を整えた。
歩き出すと、瀬人は更に囁く。
「お前が望もうと望むまいと、世界の形くらい造り変えてやる。」
アテムの心は甘く揺さぶられ、少しの戦慄が混ざる。黒いオーラの影が仄かに漂い、しかし嫌悪ではなく、甘く支配される快感に変わっていく。
2人だけの空間で、瀬人は終始穏やかで、しかし確実にアテムの心を掌握していた。
庭園の風が周囲を吹き抜け、王宮での小さな日常は、甘く、少し黒い、特別な時間として積み重なっているのだ。

王宮の空気は、甘く、静かに、しかし瀬人の支配的な色を帯びている。
形式上の婚姻の相手であっても、実際には冥界全体に溶け込み、誰もがその存在を尊び、そして少しだけ恐れている。
それが海馬瀬人という男だった。





夜は2人きりの甘い時間になる。
冥界全員の公認であるのだ。邪魔をする者など誰もいない。
アテムは言葉が出なかった。
瀬人の指先が頬をなぞるたびに、体の内側からじんわりと力が抜けていく。
「お前は俺の伴侶だからな…いや、俺の前ではただのアテムでいい。」
瀬人の口元に微笑が浮かぶ。
その微笑の奥に、黒く深い独占欲がちらりと見えて、アテムの目が一瞬揺れる。
「海馬…。」
思わず呼びかけた声は、甘く震えていた。
「俺の前で甘えるのは許されている。寧ろ望ましい。」
瀬人は言葉を重ねる度に、アテムの心の防御を1つずつ壊していく。アテムはそっと目を閉じ、やがて小さく、吐息と共に囁いた。
「…もう……。」
言葉が途切れ、反抗心は跡形もなく消える。
瀬人は静かに微笑み、アテムを両腕で包み込む。その腕の中で、アテムは安心して降伏し、甘えることにした。
逃げ場はない。逃げる気もない。王宮という格式と権威の中、2人だけの世界が出来上がる。
「お前が望む以上に、俺は惜しみなく愛を注ぐ。」
瀬人の声は低く、穏やかだが、確実に支配的な響きを帯びている。アテムはゾクゾクとしながらも微笑みを返す。
「俺は、もう、全て委ねてる…。」
その言葉に、瀬人は満足げに微笑む。静けさが2人を包み込み、現世も冥界も関係のない、ただ2人だけの時間が流れた。
アテムはその横で、やや振り回されながらも胸が高鳴るのを感じていた。
逃げ場のない冥界で、優しさと、たまに黒く迫る甘美なオーラに、完全に心を捕らえられていた。



朝の光が王宮の窓から柔らかく差し込む。
薄紫の光が石の床に影を描き、静寂とともに空気は甘く揺れていた。
アテムはまだ半分夢の中で、瀬人の腕の中に身を預けている。
「アテム、起きているのか?」
低く落ち着いた声に、アテムは顔を上げる。
「…まだ、眠い…。」
体は自然と瀬人に寄り添い、温もりに顔を埋めた。
瀬人は微笑む。
「お前は…俺の側で眠るのが、余程好きと見える。」
指先でアテムの髪を優しく撫で、肌が触れる度に熱のこもった眼差しを向ける。
その目は静かだが、確実に「逃がさない」という圧を帯びていた。
アテムは小さく笑い、頬を僅かに赤らめる。
「うん。…海馬の側が、一番安心するからな…。」
言葉とともに小さな吐息が漏れる。瀬人はその声に耳を傾け、さらに微笑みを深めた。
「ならば…いつでも側にいよう。お前の全てを、惜しみなく受け止めるつもりだ。」
声は柔らかいが、内包された意味は確かに逃げ場を消す。
アテムはそれを理解しながら、体を寄せ、甘え、そして心の奥で小さく胸を震わせる。
「…今日は、まだこっちに?」
問いかける声に、瀬人は僅かに笑い、軽く顎をアテムの頭に乗せた。
「その予定だ。…お前が望むならな。」
その言葉に、アテムは小さく肩を揺らして笑った。
心の奥でざわめいていた緊張は、少しずつ溶けていく。
それでも、瀬人の目は静かに熱く、すぐにでも抱き締め返す準備をしていることを物語っていた。
「…海馬の側にいると、甘えてばかりになる。」
アテムが小声で言うと、瀬人は首を振る。
「お前が甘え、依存し、愛を求めるのは…当然のことだ。」
その言葉は甘く優しいだけでなく、逃げられない圧も含んでいた。
アテムはそれを噛み締めるように、再び胸に顔を埋めた。
窓の外では朝の光が揺れ、世界は穏やかでありながらも、部屋の中は甘くも危うい空気に満ちている。
「…俺もお前も、逃げられないしな。」
静かな決意と、瀬人が冥界に居る安心感を胸に、アテムは再び眠りに落ちていった。
瀬人はその背中を抱きしめ、微笑む。
甘さと圧、愛と独占。2つの感覚が交錯する朝の王宮で、2人の時間はゆっくりと流れていった。

食卓は、濃密な静寂に包まれていた。
冷たい空気の中で2人だけが存在しているようだった。
「やっと目が覚めた…お前の『本気』のせいだ。」
アテムは窓辺に立ち、腕を組んで、いつも振り回される意趣返しとばかり、少し意地っ張りに声をかける。
しかし、その心は高鳴り、視線が僅かに揺れる。
瀬人は微笑みもせず、ただ静かに近付く。その歩みは穏やかだが、全身から漂う圧は、王宮全体を覆うかのようだった。
「今夜も『本気』で良いのだかな。」
「今夜?…随分、長い滞在だな。」
アテムが首を傾げる。
「今日は、日本ではある祭をしているものでな。」
その声は低く、深く、甘く響く。だがどこか逃げ場を許さない重みがある。アテムの胸が、ぞくりと震えた。
「…祭?」
「ふん。"いい夫婦の日"だそうだ。」
一瞬、アテムの目が、キラリと輝いた。
「たが、それで俺と団欒…って訳でもないんだろ?」
茶が運ばれ、茶器が置かれる。
瀬人が面白そうに微笑を浮かべたまま、アテムを横目で軽く睨む。
「…貴様…遊戯にどういう教育をした。」
「相棒に?何もしていないぜ?寧ろ多くを教わったのは俺の方で…。」
瀬人がアテムの目の前に左手を翳す。金色の指輪が光を浴びて輝く。
「あれは小姑か?ここ数週間、しつこく、今日この日に会いに行けと…くだらん。」
「大人しく従った訳でもないんだろ?」
「喧しいのでな、企画書の再提出を指示して、静かな所へ来ただけだ。」
しかし、そう言う瀬人の表情はどこか満足そうでもあった。
「ここは避難所じゃないんだぜ。」
アテムが呆れる。
「似たようなものだ。」
瀬人は手を伸ばし、アテムの前に茶器を置いた。その仕草は優雅だが、同時に「お前は俺のものだ」という微かな宣言が滲んでいた。
「…何だか、丁寧だな。」
「当然だ。お前は俺の伴侶。大切に扱うのは当然だ。」
その一言で、アテムは微かに息を呑み顔を赤くした。甘さの奥に隠された独占欲。理性ではなく、直感が警告を発していた。
「…ふふ、ならもう少しだけ、俺の隣で隠れていてくれ。」
アテムの声は微かに弾み、甘えの色を帯びる。
瀬人は微笑み、ゆっくりと手を伸ばしてアテムの頬に触れた。
「逆だ。お前が、俺の隣に居るんだ。世界のどこにも逃がさん。」
その言葉は穏やかだが、冥界全体を包む力を含んでいた。アテムは瞬間、息を止める。
日差しが入り込み、瀬人の影が伸びる。
「…海馬、その…。」
「隣にいる。それ以上に必要なことなどない。」
穏やかな口調だが、影は少しずつアテムを包み込む。光は柔らかいが、逃げ場のなさが確実に伝わる。
アテムは心臓が跳ね、視線を逸らす。
「あ、朝から本気とか…そんなこと…。」
瀬人は顔を近づけ、視線を絡める。
「俺は常に本気だが?」
その低い声に、アテムは体の奥がぞくりと震えた。甘い囁き。その瞳には、甘さと同時に静かで深い独占の色が宿る。
アテムは息を整えようとするが、体の奥まで瀬人の言葉と視線が侵入する。
「…せめて、夜まで待ってくれ。」
「いいだろう。…それまで会議にでも出るとしよう。」
瀬人の声は柔らかいが、逃がさない黒さに満ちていた。
アテムは胸の奥に、暖かくも恐ろしい感覚を覚え、そっと微笑む。
「…そうだな。任せたぜ、頼りになる婿殿。」
「いつまで婿殿呼ばわりさせるつもりだ。」
「言った所で誰が従うんだ。」
アテムが呆れたように零す。
瀬人は口元で、小さく笑っただけだった。
冥界の王宮に2人だけの時間がゆっくりと流れる。
瀬人は満足げに微笑みながら、アテムの頭をそっと撫でる。
「今日もお前は、俺のものだ。」

甘く、静かで、そして仄かに影を帯びる黒い空気に包まれた、「いい夫婦の日」の朝だった。
Page Top