冥界は静かだった。
音も、時間の流れも、全てが薄い膜に覆われているような世界。
瀬人は一歩ずつ進む。
重力も、空気も、現世とは違うように錯覚する。だがその眼差しは揺るがない。
目的はただ1つ。アテムとの決着をつけるため。それだけだった。
玉座の間に立つ男の声は、静かな威厳を持って響いた。
記憶の中の遊戯とは違う。そこに立つ男は、かつての遊戯の姿と似ているようでいて、似ても似つかない。
光を受けたその横顔に、瀬人の視界が一瞬だけ揺れる。
完璧なプロポーション。黄金比を超えた調和。
冥界の王として立つアテムは、まるで彫像のように美しく、そして危ういほどに神々しかった。
紅の瞳は深く、肌は光を吸うように滑らかで、金の装飾と王の装束は神話のように馴染んでいた。
瀬人の脳内システムが勝手に解析を始める。
皮膚の色温度、瞳の反射率、声のトーン、全てが「理想的な比率」に収束していく。
だが結果は『定義不能』
数値化できない「美」という異常値が、瀬人の脳内演算を乱す。
この神々しい姿も、紅の瞳も、全て、掌中に収める。じっくり、確実に。
美しいというだけで、人を動かす力を持つ。
掌握欲が静かに、だが確実に沸き上がる。
計算高く、戦略として、落とす、落とすべきである。そう決めた瞬間、胸の中に熱が走った。
声には出さない。だが、その瞳は、もう決めていた。落とす、と。
とにかくそう決めたのだ。そして思った。「これは落ちる。俺ではない、アテムがだ。」と。
甘美な時間が、今ここから始まる。その高揚感が、胸を満たした。
アテムの姿を頭の天辺から足の爪先まで確認した後、瀬人は薄く笑った。
「ふん、随分と王様らしくなったようだな。」
「らしくも何も、王だぜ、俺は。」
無垢な声音が、無防備に届く。
その声もまた透き通るようで耳馴染みが良く、瀬人は聞き入るように一瞬目を閉じた。
反射的に、頭の中で対策コードを走らせる。情報過多による生理的反応、ただのノイズ。
「…冥界では、そんな顔をしているのだな。」
瀬人の声は、低く、僅かに掠れていた。
アテムは微笑む。
「これが、俺の本来の顔だ。驚いたか?」
「驚いた?いや…。」
瀬人は一拍置き、青い瞳でじっと見据えた。
「俺の理性は、再計算を要求している。」
アテムは少し首を傾げる。
「どういう…意味だ?」
瀬人がアテムに歩み寄る。距離が縮まる度に、冥界の空気が微かに震える。
瀬人の視線は冷静なまま、だが確実に熱を帯びていた。
「アテム。相変わらず、想定外な男だ。俺の、美意識の臨界すら突破してくるとは…。」
片手で口元を覆い、瀬人は大きく息を吐いた。
思ってもみなかった言葉に、アテムの頬には薄っすらと朱が差す。
「び…美意識の、臨界?」
「そうだ。美の閾値を超えている…。」
「美の、閾値?」
繰り出される言葉に、アテムがパチパチと瞬き、首を傾げる。褒められていることは理解しながらも、そこに含まれる熱の質を掴みきれずにいる。
瀬人は、心の奥で、理性がアラートを出し始めていることには気付いていた。だが、美の臨界点を超えた存在を前に、冷静である必要はない。
理性は、この状況を感情に任せても良いと、そう判断した。だから落とすのだ。
「美しい…。」
瀬人は軽く息を吐き、表情を整えた。
「冥界の王だろうが何だろうが関係ない。理性的な判断として、1つの結論を下した。」
「結論?」
「お前を、俺が落とす。」
風が止まる。
アテムは思わず目を丸くした。
「…冗談を…。」
「冗談に聞こえるのなら、それもまた才能だ。自覚のない美貌は厄介だ。」
「いや、お前は冗談は…だが…。」
アテムは無意識に目を逸らした。
「目を逸らしたな。容姿の美醜を見られることに慣れていない。そこがまた危うい。」
瀬人は淡く笑う。
「俺の好みは明確だ。この瞬間から俺は、あらゆる手段でお前を落とす。成功率は100%だ。」
「何を…何故…その自信はどこから。」
「理性も理論も、全て、俺の領域にある。恋愛とは掌握に似ている、そこも俺の領域だ。…落とす相手が、お前なら尚更な。」
「…恋愛。」
「一度帰る。腕に装着すれば使い方が表示される。デッキを組んでおけ。ではな。」
瀬人はデュエルディスクを渡すと、踵を返した。
アテムは両手でデュエルディスクを抱え、その背を見送る。胸の奥では、不思議な熱を覚えていた。
「…海馬。」
小さく呼んだ名は、冥界の風に溶けた。
その響きがほんの一瞬、瀬人の足を止めさせた。
「何だ。」
「また、来るのか?」
瀬人は振り返らずに答える。
「来る、ではない。いずれお前が待つことになる。」
瀬人の声は低く、真摯で、どこまでも真っ直ぐだった。
「覚悟しておけ。俺はお前を落とす。」
アテムは息を呑んだ。
紅と青の光が交錯する。その瞬間、玉座の周囲に漂う空気が変わる。
まだ恋でも、愛でもない。
だが確かに、始まりの音がした。
淡い光が霧のように漂う中、瀬人は古代の神殿の回廊を歩いていた。
いつもの白いコートに身を包み、現世の科学では未だ説明のつかない構造を、淡々と観察している。
「いつの間に来ていたんだ?」
背後から静かな声がした。アテムである。
だが、威厳よりも、どこか柔らかい気配を纏っていた。
瀬人は振り返りもせずに言った。
「冥界の空間座標は未だ不安定だが、お前の気配だけは一定だな。」
「俺を観測していたのか?」
「当然だ。」
瀬人は歩みを止めると、ゆっくりと振り向き、アテムを観察する。
かつての遊戯の印象を残しつつも、別の存在。
輪郭の線が僅かに細くなり、瞳の奥に宿る光は、鋭さよりも深さを帯びている。
無駄のない立ち姿。王の装束に、金の飾り。衣の隙間から覗く褐色の肌。
小さな喉仏が動く度、視線が勝手にそこを追う。
「人間は、理解できないものを恐れる。だが俺は理解し、支配する。それは俺の愛し方でもある。」
アテムの訝しげに眉を寄せる。
「愛し方?」
「観測し、解析し、再定義する。その過程で恐怖は信頼に変わる。」
瀬人は静かに歩み寄り、アテムとの距離を詰める。
「お前の思考パターン、表情の変化、呼吸のリズム。全て記録済みだ。」
アテムは一歩退いた。
「…まるで、実験対象みたいだな。」
瀬人の青い瞳がアテムを捉える。
「対象ではなく答えだ。俺の理性が到達した、唯一の例外。それが…。」
一瞬の沈黙。
風が2人の間を通り抜ける。
アテムは苦笑を浮かべた。
「俺を理解してどうするんだ?お前は、人を心で愛するタイプじゃないだろ。こないだだって、俺の見た目が…。」
自分で言いながらアテムが仄かに赤くなる。
瀬人はその言葉を聞きながら、僅かに微笑んだ。
「正解だ。だが、俺の理論は感情を否定しない。感情は現象だ。理解できる。予測できる。そして、誘導できる。」
アテムの心臓が跳ねた。
「誘導?」
「そうだ。お前が俺を見る時、幾らか視線が泳ぐ。反論する時は、意識的に低い声を出す。支配されまいとする自覚がある証拠だ。」
アテムは息を詰めた。
「本当に、俺を…。」
瀬人は更に一歩近づく。
「だが、冥界にいる限り、支配は幻想だ。ここでは、理性も感情も混ざり合う。…お前が俺を見る時の僅かな動揺は、もはや恐怖ではなく欲求だ。」
その言葉に、アテムの喉が小さく鳴った。
瀬人はそれを確認すると、ほんの少し口角を上げた。
「…これで観測完了だ。次の段階に進む。」
「次の段階?」
「信頼の定着フェーズだ。」
「何だそれは?」
アテムはまたも怪訝そうな顔をする。
瀬人は視線を落とし、アテムの手に触れた。
「触覚は、言葉よりも早く真実を伝える。この温度を覚えろ。」
アテムはその指の冷たさに手を引こうとした。だが、すぐに、熱が伝わってきた。
瀬人の掌が、確かにその存在を、現象として認識している。
「俺は理性でここにいる。その理性が選んだのがお前だった。それはエラーではない。」
アテムは、その真摯な眼差しから目を逸らせなかった。
「見れば見る程、別人だな。…いや、理想そのものか。」
「…何を…。」
「その顔、その眼、その声。完璧に仕上がっている。俺のために造られたのかと思う程だ。」
瀬人が軽く笑う。だが目は笑っていない。視線で逃げ場を消していく。
「海馬…まさか…。」
「まさか、なんだ?」
瀬人は体を寄せ、視線を絡めた。
「俺がお前に惚れるわけがない、そう言いたいのか?」
沈黙は肯定か疑念か。
「俺の中の合理性は、既にお前の美しさに屈服した。」
「えっ…。」
屈服。瀬人の口から出るにはあまりにも不似合いな言葉で、その衝撃にアテムは瞬きながら、目を丸くした。
「そんなことはどうでもいい。問題は…」
瀬人は、アテムとの距離を更に詰めた。至近距離から見詰められ、空気が張りつめる。
「…お前が俺をどう見るか、だ。」
「それは…どういう…。海馬は海馬、だろ。」
「いや、遊戯を通して俺を見ていたお前と、今こうして王として俺を前にしているお前。どちらが本気で俺を見ている?」
アテムの瞳が僅かに揺れた。
王でありながら、動揺を隠せなかった。
瀬人はそれを見逃さなかった。
「図星か。」
「お前は、相変わらず強引だな。」
「今更だろう。だが…。」
瀬人の声が低くなる。
「お前のその顔を見た瞬間、確信した。お前は、理性を壊す、とな。」
アテムの肩が僅かに跳ねた。
瀬人の視線が熱を帯びる。
言葉ではなく、存在そのもので迫ってくるような圧があった。
それが支配ではなく「惹かれた結果」だと知らされているからこそ、アテムの心臓は落ち着かない。
何かが変わり始めている。
瀬人の論理が、冥界の静寂に溶け出し、それがアテムの胸に温度を刻み始めていた。
冥界の奥で、金の灯が一瞬だけ揺れた。
2人の理性と魂が、同じ波長を刻み始めた瞬間だった。
観測は、恋へと変わる前触れ。支配でも、戦いでもない。
ただ、2つの魂が同じ強度でぶつかり合っただけの、純粋な恋の始まりだった。
アテムは静かな回廊を歩いていた。
冷たい石畳を渡る足音が、やけに響く。
心の中に残っていたのは、瀬人の言葉「俺が落とす。」
あれは冗談ではなかった、あの目に嘘はなかった。何かを企みながらも、計算ではなく本能的に惹かれている。
それを知らされているからこそ、アテムの心はざわついていた。
「なんだよ、海馬の奴。…俺は、王なんだ…。」
自嘲のように呟いたその時、背後から低い声が返ってきた。
「王だろうが関係ない。惚れたら終わりだ。」
振り向けば、柱の影に瀬人が居た。
まるで、最初からアテムがここを通ることを知っていたかのように。
「尾行か?監視するのは感心しないな。」
「監視ではない。観察だ。」
「それは屁理屈ってやつだぜ。」
瀬人はゆっくりと歩み出る。
「お前がどう反応するか、どう動揺するか…全て、見ていた。」
「まるで獲物を見る目だな。」
「その通りだ。」
瀬人は微笑んだ。
「…そんな言葉で、俺が揺らぐと思うのか?」
アテムは身を引き、少し距離を取った。
「揺らぐかどうかは関係ない。俺が揺らす。」
瀬人が一歩踏み込む。音もなく、距離が詰まる。
「だが、力ずくでお前を手に入れようなどと思っていない。お前が自分の意思で俺に落ちる。俺がそれを望んでいる以上、そうなる。」
アテムは眉尻を下げて小さく息を吐く。
「そんなことは起こらな…。」
「起こる。」
瀬人は片手を差し出した。
指先がアテムの髪先を掠める。
「お前が、誰よりも強く、誰よりも孤独だからだ。」
一瞬、心が跳ねた。
それもまた、図星。
誰にも言ったことのない痛みを、あっさり見抜かれた。
まるで心の奥まで覗き込まれたようだ。
「お前は王である前に、どこまでも人間だ。」
瀬人の声が静かに落ちる。
「玉座に座し、誰にも触れられずにいた、その孤独を、俺は埋める。」
アテムは息を詰めた。
冥界の冷たい空気が肌を撫でる中、瀬人だけが、確かな熱を持ってそこに立っている。
「お前の、理性を壊す…とは、そういう意味か?俺の理性を?」
瀬人はアテムの胸元に手を置いた。
「破壊ではない、溶かす。理性も誇りも、全て、そのままの形で。俺に預けろ。」
アテムの唇が震えたが、反論の言葉は出なかった。返す言葉が、出ない。
ただ、心臓の鼓動が五月蝿く響いていた。瀬人の言葉には、確かな力があった。
支配でも誘惑でもない。「信じられる強さ」が。
「海馬…お前、本気で…?」
「言った筈だ。俺の合理性はお前に屈服した。」
瀬人は楽しそうに笑った。
「逃げることは不可能。俺は冥界ごとでも追いかける。」
鼓動が跳ねる。
「お前が動揺してる時点で、戦況は決まっている。」
言葉が出なかった。
「俺は勝ち筋を読んだ。後は、実行するだけだ。」
声が低く落ちる。息がかかる距離で囁かれ、アテムは動けなかった。
僅かに視線を彷徨わせて、小さく息を吐いた。
その瞬間、アテムは悟った。この男に惹かれ始めている。
冥界の王としてではなく、1人の男として。
夜気が澄み、薄い霧が漂う。
静寂の中、アテムは1人、泉の縁に座していた。
月が、鏡面のような水に揺らめく。
その光の中に、また、瀬人の影が差す。
「…また来たのか。」
「お前が降参するまで、何度でも。」
「降参…か。」
「俺に惚れたら終わりだ。そして俺はもう惚れている。だから落とす。」
瀬人は当然のように答え、隣に腰を下ろした。
「お前が逃げる場所は、全て把握済みだ。」
「王に対して逃げるとは酷い表現だな。」
「ならば訂正しよう。お前は考えるふりをして、感情を後回しにしているだけだ。」
その言葉に、アテムが瞬く。細く、息を吐いた。
「お前、本当に、何でも見抜くつもりか?」
「恋愛偏差値が高いものでな。」
瀬人の口元が僅かに上がる。
軽口のようでいて、視線は真剣そのものだった。
「何だよ、その妙な能力値は。」
アテムは呆れながら息を吐く。
「恋愛とは掌握に似ていると教えただろう。フルコミットだ。」
言い方は軽いが、確かな真剣さと自信が滲んでいた。
「だが、俺は王だ。感情に流されるわけにはいかない。」
「それがどうした。もう分かっているのだろう、感じている筈だ。」
瀬人の声が静かに重なる。
「俺を見て、何かが動く。その何かを、理屈で押し殺すな。王としてではなく、アテムとして、感じろ。」
アテムの胸中に波が立った。
瀬人の言葉が、水面に落ちた石のように、感情を広げていく。
「…海馬。お前にとって俺は、何なんだ。」
「選ばれた唯一の人間。」
瀬人は即答した。
「冥界の王を、ただの人間と呼ぶのか。」
「そうだ。お前はただの人間でいい。肩書きも力も捨て、俺の前ではそうあれ。」
アテムは目を伏せた。
風が、アテムの金の前髪をそっと揺らす。
「お前のその在り方は、まるで俺の理性を試すようだ。」
「確かめているだけだ。」
瀬人は立ち上がり、アテムの正面に立った。
「お前が、心を許す瞬間を。」
沈黙に、ただ、互いの呼吸だけが響く。
瀬人はそっと手を伸ばす。それはアテムの頬に触れる寸前で、止まった。
「許可を出せ。王としてではなく、アテムとして。」
アテムの瞳が揺れる。
暫しの沈黙の後、軽く顎を引いた。
その小さな頷きに、瀬人の指先が触れた。温度が交わる。冷気を溶かすような、確かな温もり。
「お前は…強引だ。」
「何を今更。」
瀬人が静かに笑う。
「確かに、知ってはいたがな。」
アテムも笑みを浮かべた。
「だが、優しく支配する方法も知っている。」
ふと、思いが落ちてくる。
この男に抱かれるのは敗北ではない。それは魂ごと預けてもいいと思える安堵なのだ、と。
瀬人の指先が離れた瞬間、アテムは深く息を吸った。
まるで、長い封印を解いたかのように。
「…ずるい奴だ。妙な能力値で心を読むなんて。」
瀬人は小さく笑った。
「読む必要などない。見れば分かる。表情、声の揺れ、呼吸の乱れ。全て、俺に隠すことは不可能だ。」
「まるで…占術師のようだぜ。」
「観測者だ。お前という存在を、最も正確に観測する。」
瀬人の声が低く響く。
また屁理屈を、と思ったが、アテムは言葉が出なかった。
その視線の真剣さに、心が静かに熱を持っていた。
「お前の目は常に、戦場を見ていた。」
瀬人が続ける。
「勝敗、秩序、正義。だが今は違う。俺しか映していない。」
アテムの呼吸が、一瞬止まった。
瀬人の指先が、風に揺れる金の前髪をそっと遊ぶ。
その動作は支配でも命令でもなく、ただの確信だった。
「海馬…。」
「何だ。」
「俺が、もしお前に惹かれているとしたら…それもお前の計算か?」
「違う。」
瀬人の声が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
「俺の力で落とすのは、お前の理性だけだ。心はお前の意思で決めろ。」
「そんなの、やっぱり…ずるい奴だぜ。」
「俺の成功率は100%だ。」
その言葉に、アテムが微笑む。
冥界の夜に、微かな温もりを溶かすように。
「ふふ、だが、もう決めた。」
「そうか。」
瀬人が僅かに顎を傾けた。
距離が、再び縮まる。
互いの呼吸が、触れるほどの距離で重なった。
「1つ、言っておく。」
瀬人の声は低く、確信に満ちていた。
「俺は現世にも冥界にも縛られない。お前を見つけた時点で、全ての境界は無意味だ。」
「つまり?」
「お前が冥界に居ようが関係ない。俺が選んだ。お前が誰であろうと、どこにいようと、俺の隣にいることをな。」
アテムの瞳が熱に濡れた。
言葉ではなく、想いそのものが伝わる。
瀬人がゆっくりと手を伸ばす。アテムの指先はゆっくりと、その手を取った。
風が2人を包み込む。
闇でも光でもない場所で、ただ2つの存在が静かに交わる。
「お前という奴は、冥界よりも深い。」
「そう言わせるつもりで来た。」
アテムが小さく息を吐き、笑みを零す。
その表情を見て、瀬人の口元にも静かな笑みが宿る。
そして、ただ一言。
「俺の勝ちだな。」
小さく囁いた。
アテムは肩を竦め、負けを認めるように目を細めた。だが、その表情には、敗北の色はない。
寧ろ、長い時を経て漸く訪れた安堵があった。
沈黙が訪れる。
しかし、それは不安や緊張感を孕んだものではなかった。
互いの存在が隣にあることを、確かめる為の静けさだった。
瀬人は視線を落とし、アテムの頬に指を伸ばす。
金の装飾を纏う肌に触れると、冷たさではなく微かな温もりが返ってきた。肌理細かく、滑らかで、見た目以上に、離し難い。
「冷えた風に吹かれているのに、温かいな。」
アテムは目を伏せ、口元に僅かな笑みを浮かべた。
「お前の手が、熱いからだぜ。」
「ふん、俺のせいか。」
瀬人は小さく笑う。
「ならば、暫くこのままにしておこう。」
アテムが顔を上げると、瀬人の眼差しが真っ直ぐに捉えていた。
その瞳には冷徹さも、支配の色もない。
ただ、確信に裏打ちされた優しさがあった。
「お前のそんな表情を見ることになるとはな…。」
アテムの声は低く、驚きと戸惑いが混ざる。
「喜べ。それを出来るのは、お前だけだ。」
瀬人は躊躇いなく言い切った。
「仕事でも勝負でもない。理屈も不要。これは、俺の感情だ。」
アテムは息を詰める。その胸に、静かに何かが落ちる音がした。
それは恋という名の鼓動だった。
「俺は…現世では、気付かなかった。この目で見て、初めて分かった。お前の真っ直ぐさが、怖いほど眩しい。」
瀬人の口元が緩む。
「今更だな。だが、光栄だ。」
瀬人の手が再び伸び、アテムの額の飾りに触れる。
その指先が、愛おしげに、揺れる金の前髪を撫で、頬の曲線をなぞる。
アテムはその動きに逆らわず、ただ受け入れた。
「…こうされているのも、いいものだ。」
呟く声が風に溶ける。
瀬人は穏やかに返す。
「こんなもので足りると思うか?俺が現世へ戻れば、ここは誰も居ない世界だ。」
瀬人は言葉を区切り、アテムの手を取った。
そのまま、静かに胸元へ導く。
「俺は孤独を埋める。理屈ではなく、選択として。」
アテムの瞳が揺れる。
けれど、その揺らぎは拒絶ではなく、温もりに包まれていた。
「なら、俺にも選ばせてくれ。」
「自分の意思で選べばいい。何を選ぶ?」
「…お前が誰であろうと、どこにいようと、お前の隣を。」
その答えに、瀬人の表情が確かに緩んだ。
ほんの一瞬、周囲の闇が薄れ、冥界に似つかわしくない程、柔らかな光が差したようだった。
言葉は要らなかった。
ただ、互いの存在が確かにそこにあるという感覚だけが、世界を満たしていた。
冥界の空は、現世とは違う色を帯びている。
深い青い闇と金色の光が混ざる空間に、瀬人の姿が一瞬、揺らめく。
「来たのか。」
アテムは月明かりの下で静かに立っていた。
その目には期待が宿り、だが、焦らすかのように微笑んでいる。
瀬人は軽く笑い、手を伸ばしてアテムの肩に触れた。
「待たせたな。」
「いや、待っているのも、案外、良いもんだぜ。」
アテムの声は静かで落ち着いているが、胸の高鳴りは隠せない。
瀬人はその微かな鼓動を感じ取り、唇に薄い笑みを浮かべた。
「俺のために、ずっとここに居たのか。」
アテムは目を細め、答える。
「俺がここにいるのは、当然なんだろう?」
その、当然という言葉の裏に隠れた想いを、瀬人はすぐに見抜いた。
甘くて、少し切ない。
瀬人は、言葉にならない感情まで察知して楽しむのだった。正にそれは、恋の味。
「そうか。」
瀬人はアテムの手を握り、温もりを確かめるように指を絡めた。
「ちょうど庭園が見頃なんだ。案内するぜ。」
冥界の庭園は静かだ。深紅の蕾が夜の光に揺れ、幽かな香りが漂う。
肩を並べ、言葉少なに歩く。
互いの存在を感じ、目を合わせるだけで充分だった。
赤く揺れる花々。その間に、静かな月光が差し込み、地面に淡い光の模様を描く。
「この花、綺麗なんだが夜は閉じてるのか…。」
瀬人はアテムを真正面から見据え、手を握る強さを、少しだけきつくした。
2人の心拍が微かに響き合う。
アテムは一瞬、目を見開くが、すぐにその手に力を預けた。
月が、雲に隠れる。
「…正しく、羞月閉花だな。」
揶揄うような言葉だが、それは本心なのだと分かる。
アテムはその言葉に顔を少し赤らめ、視線を伏せる。
だが、瀬人はアテムの顔を覗き込むようにして、静かに笑みを浮かべた。
その笑みに、アテムの心は少し弾む。
「それは光栄だが、その…お前、正直すぎるぜ。」
「俺は、嘘を吐かんだけだ。」
更に赤くなった顔を隠すように、少し俯いた。
「現世でも、俺のことを考えているのか?」
上目遣いに、アテムが尋ねる。
瀬人はじっと見詰め返した。
「忘れる筈もない、それはいい。今はお前とここにいることしか考えていない。」
アテムの目が星を映したように輝く。
その光を見逃さず、瀬人は更に距離を縮める。
「心配は要らん。俺はここにいる。」
アテムは少しむずむずしつつも、だが、羞恥よりも安心が勝っていた。
「…俺も、お前を待つ方がいいってことは、実感してるぜ。」
冥界に漂う冷たい空気の中で、2人だけの温もりが確かに存在する。
現世の喧騒を忘れ、計算や理論を一切置き去りにして過ごす甘い時間。
瀬人が戻るたびにアテムは微笑み、瀬人はその笑みを独り占めにする。
「また、来るんだろ?」
アテムは静かに尋ねる。
「当然だ。」
瀬人は小さく笑い、アテムの頬に軽く触れる。その指先の温もりに、息を呑んだ。
「海馬…。」
自然に出た呼びかけに、瀬人は微笑みを深める。
「…俺のもの、だろう?」
アテムは頷き、ほんの少しだけ体を近づけた。
視線が絡み合う瞬間、2人の間に流れる空気は、夜でさえ甘く温かい。
暫くの沈黙。
それでも手を離さず、ただ互いを感じる。それだけで、通じる。
瀬人はアテムの耳元で囁く。
「お前の全てを、見ていたい。」
アテムは小さく息を吐き、ゆるりと目を閉じる。
「ふふ…喜べよ。それを出来るのは、お前だけだぜ。」
その瞬間、冥界の空気は更に柔らかく、甘い時間に染まる。
「そうだ、俺だけだ。」
瀬人の返事には、確信と愛情が混ざっていた。
その答えに、アテムはただ頷き、心の奥で深く息を吐いた。
心臓の音が、静かに重なり合う。
そして、2人の小さな日常は、冥界の永遠の夜に甘く溶けていくのだった。
