冥界の色んな制約を破り、アテムは現世に降り立った。
「…ん?あれ?」
遊戯は、首に確かな重みを感じた。その後、意識を引く感覚があって、今、何故か走っている。
「相棒!海馬はどこだ!?」
『うぇぇ、もう一人のボク!?』
久しぶりだね。元気にしてた。でも何故急に。どうしてここに。
遊戯が積もる話も質問も出来ないまま、アテムは慌てて人探しをしていた。
恐らくその尋ね人は、どこの誰よりも有名で目立つ。その辺りに居ればすぐに見つけることが出来るのだろうが、時々ふらりと行方を眩ます。冥界へ。
だが、その冥界へ行く理由はアテムである。アテムが居る以上、今はこの世界のどこかにはいる筈だった。
『海馬くんは…地球には居ると思…。』
「地球の、どこだ!?」
アテムの圧はかなり本気だった。
しかしどこと聞かれた所で、世界中を飛び回る瀬人である。今、どこに居るのかは断定できなかった。
『それは…分からないけど。』
「それならとりあえず、海馬邸か、海馬コーポレーションか!?モクバにでも会えれば…。」
「いやでも、ボクこないだゲームのことで会って叱られたばかりだから、気まずいっていうか…。」
「叱られたら俺が何とかする!とにかく、あいつを見つけなければ大変なことになるんだ!」
走る遊戯を、城之内と本田が見つけた。しかし、どこか雰囲気の違う遊戯に、一瞬躊躇う。
「おーい遊…遊戯?」
「城之内くん!本田くん!」
「何急いでんだ?」
「海馬…くん、はどこにいる…のかな?」
アテムは一応お忍びで現世に来ている。そのため相棒こと遊戯を真似たが、違和感は出まくりである。
かつての仲間たちにそんな真似が通じるはずもなく、秒でバレた。
「お前…アテムか!?連絡先なら遊戯が知ってんだろ、電話すりゃ…。」
「なるほどその手があったか!」
ポケットから端末を出して連絡先を探す。見つけた。
『ちょっと待って、急にかけても彼は…。』
遊戯が止めるも、しかしアテムは電話をかけた。人の話を聞いている時間もないのだ。
コールは3回で繋がった。アテムは運はいい方だ。
「何の用だ。貴様の担当はモクバだろう。再提出の期限なら延ばさん。」
「いや、多分その話ではないんだ!海馬…くん、話を聞いてくれ…ないかな?」
とりあえず擬態してみるも、やはり違和感は出まくりである。
そして瀬人はアテムとも遊戯とも不定期に顔を合わせている。バレない筈がない。またも秒でバレた。
「貴様…アテムか。」
海馬コーポレーション社長室。
「海馬、助けてくれ!」
駆け込んだアテムは挨拶もなしに開口一番助けを求めた。
一体何事か、と遊戯が首を傾げる。
着いてきた城之内と本田も、緊張の面持ちで眺めている。
しかし瀬人の態度に温かさはない。話を聞いていないどころか仕事の手を止めない。
何度も冥界へ行きアテムに会っているとは思えないつれなさである。
「ここは駆け込み寺ではない。」
だが、アテムはここで挫けるわけにはいかなかった。
「冥界で事件が起こっていて、お前しか俺を助けられないんだ。」
「助ける?あの世界では貴様は王の筈。何とでも出来るだろう。」
冥界ではアテムは王であり現人神である。世界の理が、その環境から逃げ出して来て、今、瀬人に助けを求めている。異様な状況だった。
「今回は俺一人の力では無理なんだ。力を貸してくれ。」
「俺の知ったことではない。」
遊戯は、瀬人がアテムに会うため、かなりの頻度で冥界へ行っているのをモクバから聞いて知っていた。
それなのに、瀬人のこの態度である。声は聞こえないし姿も見えていないだろうが『お願い、聞いてあげて。』と声をかけていた。
思わず城之内も助け舟を出す。
「話だけでも聞いてやったらどうなんだよ。」
「ならば貴様が聞いてやれ。」
現世に来ることが出来るのなら何故始めから来なかった。
瀬人はそう怒鳴りつけたいのを堪えていた。
キーボードを叩く速度が常より早くなる。
「アテム、一体どうしたってんだ?」
「すまない城之内くん。俺を助けられるのは海馬だけなんだ。」
真摯に謝られると、それはそれでダメージは大きい。
「海馬、お前の出番だってよ。」
「用件だけでも、聞いてくれないか。」
「…用件は?」
仕方がないので、淡々とそれだけ尋ねる。視線も向けず、目は冷めている。
しかし、やっと聞いてもらえる状況である。アテムはここまで持って来た大事件について、共感を求めてしまった。
「大変なことになったんだ。このままでは…俺は、婚姻を結ばされてしまうんだ!」
婚姻。その言葉に周囲にいた仲間たち、遊戯、城之内、本田も目を丸くする。
しかし瀬人は動じない。把握能力はあるも、共感力が働くことはなかった。
「だから何だ?」
「お前なら何とかできる。助けてくれ。海馬、お前となら抗える。お前の力が必要なんだ!」
その瞬間だけ、瀬人の眉が僅かに動いた。
頼るのは当然だとでも言いたいのか。
だが、協力も結束も友情もお断りの瀬人である。簡単にそんな手には乗らない。
「…相変わらずだな、アテム。」
言葉とは裏腹に、瀬人の胸には奇妙なざわめきが広がっていた。
好きなわけではない。だが、軽蔑もしていない。ただ、放り出せばアテムは確実に何かに飲み込まれる。
瀬人は視線を窓の外へ投げた。
「助けるかどうかは俺が決める。お前の都合など知ったことではない。」
アテムは黙り込み、拳を握る。
しかし、沈黙の中で、瀬人の冷たい態度の奥にかすかに灯る、介入の予感を見逃しはしなかった。
伊達に邂逅を重ねてはいない。常に本気と本音でのぶつかり合いしかしていないのだ。
何とか瀬人を味方につけ助けになってもらうこと、それがアテムの第一の目標である。
その目標攻略が不可能ではないと分かれば、後は力尽くにせよ小細工するにせよ、手を尽くすのみだ。
「とにかく、一度冥界に来てくれないか?」
瀬人は目を細め、デスクに肘をつきながら低く問い返した。
「そこで俺に何をしろと?」
アテムは息を整え、思いの丈を瀬人にぶつけた。
「俺と、婚姻を結んでほしい!」
その言葉に、場の空気が一瞬止まる。
色気も何もないが、突然のアテムからの公開プロポーズである。
瀬人は一瞬、眉を顰め、アテムを見つめた。
「…なんだと?」
仲間たちも目を白黒させる。
遊戯は驚愕に言葉が出ない。
城之内が思わず口を開く。
「…こん…海馬と、結婚!?」
本田が手に持っていたペットボトルが転がった。
「…冗談だろ、アテム…。」
瀬人は椅子に深く腰を下ろし、作業する手はそのままに、アテムを一瞥しただけだった。
「…くだらん。」
冷たい声が部屋に落ちる。瀬人は報告書を表示して読み始める。
「くだらなくなんかない。重大なことなんだ。」
アテムは食い下がる。
「冥界の掟なんだ。このままでは俺は自由を奪われる!」
瀬人は鼻で笑った。
「知ったことか。お前がどうなろうと、俺には一切の影響はない。」
アテムからの頼みが、瀬人との結婚である。
遊戯も、城之内も、本田も、流石にこれ以上は「話を聞いてやれ」とは言えなかった。
瀬人の淡々とした口調にアテムの顔が歪むも、必死の声でなお続ける。躊躇いはない。
「俺と婚姻を結んでくれ。お前は現世の人間だ、冥界の制約に縛られはしない。形式だけでいい、何の影響もない。だから頼む!」
一瞬の静寂。
次の瞬間、瀬人の高笑いが響いた。
「馬鹿馬鹿しいにも程がある。」
アテムの顔が引きつる。
「冗談で言っているんじゃない、俺は本気だ。嫁とは言わない、婿に来てくれ。」
瀬人は報告書から目を離し、鋭い視線を突きつけた。
「俺にとっては冗談だ。お前がどこの誰と婚姻を結ぼうが、それこそ俺に影響がない。」
「海馬!」
アテムは一歩踏み出し、瀬人のデスクに手をついた。
「お前にしか頼めないんだ!俺を守れるのはお前だけなんだ!」
その声に、やっと瀬人の仕事の手が止まる。
貴様は守られる男ではないだろう。と怒鳴りたいのも堪えた。価値観の違いによる衝突を回避する術は、瀬人もアテムも身に付いてきてはいるのだ。
胸の奥に、忌々しいざわめきが広がる。なぜ、当然のように俺を呼ぶ。なぜ、俺が力になると信じている。
瀬人は暫しアテムを睨みつけた後、吐き捨てるように言った。
「本当に、厄介な男だな。お前は。」
瀬人は大きく息を吐いた。
「俺に婚姻を結べ?笑わせるな。俺はそんな茶番に付き合う気はない。」
アテムの瞳が揺れる。
「海馬…!」
「何度言わせる。お前の婚姻など、俺には何の影響もない飯事。俺の時間を奪うな。」
その言葉は氷のように冷たかった。
アテムは唇を噛み、拳を震わせる。だが、瀬人の威圧には慣れている。圧されることはなく、更に身を乗り出す。
「だとしても…俺は、お前にしか頼めないんだ!」
「…話はそれだけか。出ていけ。」
瀬人はアテムと仲間達を追い出した。
アテムの必死の声を、完全に無視するかのように。
だが。
夜の街を眺めながら、瀬人は苛立ちを抑えきれずに舌打ちした。
「くだらん…。」
頭の中で何度も「無関係」であると繰り返す。
だが耳の奥には、あの声が焼き付いて離れなかった。
『助けてくれ。』
『お前にしか頼めない。』
アテムを冥界へ送り返して数日後。
瀬人は1人、街を見下ろしていた。そして、仄かに笑って小さく呟く。
「婚姻、なるほどな…。」
それからコール一回。遊戯を呼び出した。
冥界の宮殿は、祝祭の喧騒に包まれていた。
重々しい衣を纏わされたアテムは、玉座の間へと導かれていく。
その瞳には諦めと抵抗の光が同居していた。
「…海馬。」
その名を呼ぶ声は掻き消され、誰にも届かない。
高位の司祭が宣言を始めた、その瞬間だった。
背後で大きな音がした。
「待て。」
低く鋭い声が大広間に響き渡る。
まるで冥界の門が吹き飛んだかのように風が舞い込み、コートを翻した長身の男が姿を現す。
振り返ったアテムの目が大きく見開かれる。
瀬人は悠然と歩みを進め、玉座の前に立ち塞がった。
冷たい瞳で司祭と列席者を見渡し、言い放つ。
「この結婚を取りやめろ。俺が認めん。」
ざわめきが広がる。
冥界の掟を破る暴挙である。誰もが凍りついた。
瀬人はそんな視線をものともせず、アテムの手首を掴む。
「お前は俺の許可なしには誰とも婚姻は結べん。そう決めた。」
「なっ…!海馬、お前!」
アテムは驚愕と安堵に震える声を漏らした。
瀬人は振り返りもせず、鋭い目で群衆を睨みつける。
「連れて行く。文句があるのなら、この俺を止めてみろ。」
威圧するように吐き捨てると、そのままアテムを抱え上げ、冥界の闇を突き破ってアテムを連れ去った。
残された者たちには、嵐の後のような沈黙だけが残った。
冥界の裂け目を抜け、現世の静かな夜の街に降り立つ。
瀬人は遊戯の手を放し、背を向けた。
「ふん。面倒なことをさせる奴だ。これでいいのだろう。貴様の望み通りだ。」
まだ心臓の高鳴りが収まらないアテムは、呼吸を整えながらその背を見つめた。
「…なぜ、助けに来た?」
瀬人は振り返らず、冷たく答える。
「自由がなくなるだと?俺の目の前で勝手なことを見せつけられるのを許さんだけだ。」
「勝手なことを…?」
アテムは目を瞬かせる。
「それだけのために、冥界の掟を破ってまで?」
「掟など知ったことか。」
鼻で笑ってそれだけ言うと、瀬人は歩き出す。
その背を、アテムは慌てて追いかけた。
「お前、俺を切り捨てた筈じゃなかったのか?」
その問いに、瀬人は足を止めた。
夜風にコートを揺らし、低く吐き捨てる。
「…切り捨てた。だが、お前は厄介だ。唯一の好敵手、それを奪うことは捨ておけん。」
アテムは言葉を失った。
奪うことは捨ておけない。
それだけの意味が、今は何よりも重い。
「…海馬。」
無意識に呼びかける声は、先ほどまでの必死さとは違い、どこか柔らかかった。
瀬人は振り返らない。
だがアテムには分かった。
瀬人が、冷たさの裏で、自分のために動いてくれたのだと。
アテムは少し息を整え、静かに瀬人の背中を見上げた。
「海馬…助かった。本当に。礼を言う。」
その声には、ただの感謝以上の熱が籠っている。
瀬人は眉を顰め、背を向けたまま答える。
「お前の為に動いたわけではない。」
アテムは回り込み、瀬人を見つめる。
「だが、俺はお前が来てくれたから助かったんだ。お前しか、俺を救えなかった。」
瀬人は冷たい顔のまま、視線を逸らす。
「…ならば、勝手に感謝していろ。」
アテムは少し微笑んだ。
「感謝だけじゃ足りない。俺は…。」
胸の奥で、熱いものが波のように広がっていく。
言葉を飲み込む。胸の奥で、何かが熱く芽生えるのを感じながらも、まだ名前をつけられない。
「…だが、いずれ冥界には戻らなければならない。」
その瞬間、瀬人の肩が僅かに震えた。自覚はしていない。だが、アテムが遠くへ行くという可能性に、胸がざわつく。
アテムはその僅かな動揺を感じ取り、静かに続ける。攻略すべき第二の目標へ向けて。
「もしも俺が戻っても、俺を見捨てないでくれ。」
瀬人はゆっくりと視線を合わせる。
言葉は出ない。ただ、胸の奥で何かが、理屈では説明できない感覚が広がっていった。
夜の街。亀のゲーム屋への道すがら。
アテムの胸中は期待と不安がない混ぜになっていた。
ただ、確かなことは「助けられるのはあの男しかいない」という状況が、もう『理屈』ではなく『真実』に変わりつつある、ということだった。
社へ戻り、静まり返った窓辺に立った瀬人は、思考を巡らせていた。
「くだらん。」
低く呟き、拳を握る。
本来なら関わる必要などなかった。
冥界の掟など、瀬人の知ったことではない。
アテムがどうなろうと、自分の領域には一切関係ない筈だった。
だというのに
『お前にしか頼めない。』
『俺を守れるのはお前だけだ。』
『見捨てないでくれ。』
あの必死の声が、耳の奥で繰り返し響いて離れない。
苛立ちが募る。
なぜ自分は動いたのか。
なぜあんな真似までしてしまったのか。
窓に映る自分の顔は、思ったよりも険しい。
「…オカルトな力でも使われたか?」
そう吐き捨てたが、胸のざわめきは収まらなかった。
アテムの瞳。
あの時、確かに自分を見つめていた。
縋るでもなく、絶望でもなく、ただまっすぐに。
その視線を思い出した瞬間、瀬人は無意識に息を呑んだ。
「…くだらん。」
再び同じ言葉を繰り返す。
しかしその声には、もはや先ほどの冷たさはなく、窓に映る表情は薄い笑みを浮かべていた。
薄明かりの冥界の宮殿前。
瀬人に連れられ、アテムは冥界へ戻って来た所だ。
一度は逃げ出したものの、完全に逃れられたわけではない。儀式の日程は目前に迫っている。
アテムは重苦しい空気の中で、深く息を吸った。胸の高鳴りを抑えながら、瀬人を見据えた。
「海馬。」
小さな声で呼ぶ。
瀬人はいつものように腕を組んで無言で立つ。目は冷たく、揺らぎなく、緊張の色はない。
「俺にここまで連れて来させたのだ。現世で自由時間も満喫した筈。そろそろ覚悟は出来ただろう?」
瀬人の問いに、アテムは諦めたように静かに頷いた。
「ここに、戻らなければならない。そしてこの婚姻は、必要だ。」
囁くようなその言葉に、瀬人は眉を顰める。
「…何を、言いたい?」
アテムは一歩踏み出す。
「必要な婚姻ではあるが、俺は絶対に避けたい。だが、逃げられない。だから…。」
「そうか。貴様の事情だ、貴様自身で何とかしろ。」
瀬人は皆まで聞かず、話を遮る。
しかしアテムは更に一歩近付き、瀬人の腕にそっと手をかける。
一瞬、深呼吸してから、決意を込めて告げた。
「海馬、俺と婚姻を結んでくれ!」
「…何を言うかと思えば、またそれか。」
アテムの瞳には迷いはない。
「俺の自由を守れるのは、現世に存在を持ち、冥界に属さないお前しかいないんだ。だから、俺と婚姻の約束を交わしてほしい。」
沈黙が包む。
冥界の空気すら、凍りついたように静かだ。
瀬人は冷静ではありつつも、胸の奥でざわめきを感じていた。
理屈では否定できない。アテムは本気で、そして一切迷いなく自分に迫ってきている。
「まだ諦めていないのか。貴様の勝手な掟で、俺を縛るつもりか?」
瀬人は顔を少し背ける。
アテムは目を伏せずに真っ直ぐに見つめた。
「勝手じゃない。連れ出したのはお前で、俺たちが2人で、今ここに立っているんだ。」
連れ出したのは、アテムが助けを求めたからである。
だが、その意思の強さと必死さは、冷徹な筈の瀬人の胸に、じわじわと刺さる。
沈黙の中、瀬人は小さく息を吐いた。
理屈では否定しても、心の奥でアテムを拒めない自分を感じる。
険しい顔をして、大きな溜息を吐いて、そして、僅かに手を伸ばした。
「…自由を確保する為に、だ。」
「それは…。」
「俺が気を変える前に履行することだな。」
「ありがとう、海馬。」
アテムは、微かに微笑む。
喜びを全開にせず、しかし確かに胸が熱くなるのを感じながら囁いた。心の中では、これ以上の遠慮も躊躇もない。
だが、勝利を確信したアテムの目の輝きならば幾度となく目にしてきた。瀬人はそれを見逃さない。早まったか、と溜息を吐いた。
アテムが、伸ばされた瀬人の手を取る。
互いの手を握り合い、言葉にせずとも交わした決意を心に刻んだ。
冥界の空気は変わらず重くても、この瞬間だけは二人の距離が確かに近付いていた。
神殿を出た後、夜の闇に包まれた広間に立っていた。
アテムは胸の奥で確かな熱を感じながら、静かに手を握りしめる。
もう、迷いはない。
気持ちは、理屈ではなく、確かなものになっていた。
「海馬。」
その声に、瀬人は少しだけ視線を向ける。
「…何だ。」
瀬人はそれでもやはり冷静であり、感情を表に出さない。アテムはゆっくり一歩近づく。
「今夜、こうして約束できたことが…本当に嬉しいんだ。」
胸の中で、言葉が自然と溢れる。
瀬人は軽く肩を竦め、視線を逸らす。
「くだらん。お前がそう思うのなら、勝手に喜んでいろ。」
だが、その言葉の冷たさとは裏腹に、手の温もりがまだ心に残っている。
アテムは微笑みを抑え、僅かに顔を傾ける。攻略すべき第三の目標に向けて。
「海馬…俺は、知っている。お前は、まだ自覚していないだけだってな。」
瀬人は一瞬、眉を顰めた。
「…何のことだ。」
しかしその瞳の奥には、無意識に自分の胸を打つ何かを意識してしまう影がある。
アテムはそっと笑った。
「大丈夫だ。俺は知っているから。」
その言葉に、瀬人は僅かに肩の力を抜いた。
アテムの言わんとしていることならば分かるが、巻き込まれただけであるという自覚しかない。
しかし胸の奥で、あの夜の出来事。自分が動かざるを得なかったことが、確かに熱を帯びているのも感じていた。
夜風が吹き込み、2人の距離は近いまま。
言葉は少なくても、心の中では確かな感情が静かに揺れ動いていた。
宮殿は、重厚な空気と荘厳な装飾で満ちていた。
玉座の間には、冥界の高位者たちが列をなして待つ。
アテムは深呼吸をし、胸の奥で熱く燃える気持ちを抑えながら歩を進める。
「海馬、ついにここまで来たぜ。」
アテムは一瞬、瀬人に視線を送る。
「…そうか。」
瀬人は無表情で、冷たい瞳で玉座の間を見渡していた。
司祭が儀式を始める。
「婚姻の約束を交わす者よ、誓いをここに。」
アテムは迷わず、瀬人の手を握る。
「俺は、この男と婚姻の誓いを交わす!」
その声は力強く、震えはなかった。
瀬人は眉を顰め、無言で応じる。
胸の奥では、理屈では説明できないざわめきが広がっていた。
しかし、約束は守る。
「いいだろう。約束はする。」
冷たい声ながらも、手はしっかりアテムの手を握る。
司祭が儀式を進め、2人の契約の証が刻まれる。
「…これにて、婚姻の契約は成立した。」
アテムは微かに笑みを浮かべる。
その瞳には、喜びと安堵、そして決して消えない覚悟が宿っていた。
瀬人は、まだ自覚はしていない。
しかし胸の奥で、アテムの直球な想いと手の感触が、深く刻まれていた。
「…くだらん。」
吐き捨てるように呟くが、心は揺れていた。
儀式は終わった。
だが、この瞬間から、互いの心を確かめ合う戦いへと突入していくのだった。
扉が静かに閉じられ、新婚2人きりの空間が残った。
婚姻は結ばれた。アテムは深く息を吐き、やっと肩の力を抜くことが出来た。
「無事…終わったんだな。」
その声には、安堵と緊張が混ざり、吐息のようでもあった。
瀬人はアテムの横に、無言で座っている。
儀式に宴にと、拘束時間は長かった。とうとう結婚してしまったのだ。
酒を飲み、ほろ酔いで、実に気分の良さそうなアテムに目をやり、視線を逸らす。
しかし胸の奥で、何かが静かにざわついていた。
アテムは瀬人の手を握った。
「海馬…ありがとう。」
甘さを含んだ声に、瀬人は一瞬、言葉を失った。
「…くだらん。俺は帰るぞ。」
吐き捨てるように言うが、動こうともせず、その手は微かにアテムの手を強く握り返していた。
心臓の奥で、理屈では説明できない感覚が広がる。この男を放っておけない。
まだ言葉にはならないが、胸の奥で自覚の芽は膨らんでいた。
アテムは微笑みを浮かべ、肩に凭れかかる。
「もう、何の憂いもない。お前がいてくれるから。」
確実に酔っている一言に、瀬人は小さく息を吐いた。
アテムが駆け込んできた日から、理性では否定しようとしていたが、心は反応していた。
言葉よりも、握った手の温もり、息遣い、視線の僅かな交わりが、心を確かめ合う。
アテムの安堵と甘えが、瀬人の心を揺らす。
唐突に、自覚した。
「…自覚…なるほど、これか。理解した。」
小さな独り言。そして、瀬人もまた、いつからかそれを認めていたのだ。
くだらないと思う傍ら、だが、確かに、心は動いている。
空間に、微かな熱が満ちる。
言葉にせずとも、心の奥で確かな絆が結ばれたことを、互いに感じ取っていた。
瀬人が自身の心を認め、決心を固めたことを。
その傍らで、アテムは安堵の笑みを浮かべ、まだ胸の高鳴りを抑えていた。
「これからも、末永く、よろしく頼むぜ。」
その言葉に、瀬人が無言でアテムを見詰める。
しかしその瞳が鋭く光った。
決して冷徹なわけではなく、熱を帯びた強い意思の光。
それから、面白そうに笑みを浮かべた。
「貴様、状況を…どこまで把握している。俺は大方を理解しているが?」
低く、可笑しそうにしながらも何かを確信しているような声。アテムは一瞬、体が止まる。
「状況って…俺とお前が、婚姻を結んで…?」
瀬人は迷わず握られていた手を掴み返し、アテムの手を引き寄せた。
「そうではない。」
「なら…俺はお前が…そう…で。お前も…多分…そう…で…。」
「そうだ。そして貴様、初めからそれが目的だったな。」
その言葉に、アテムは酔いも覚め、思わず目を見開いた。
目的であり第三の目標は、瀬人の心。
それを手に入れたと同時に、露呈してしまっていたという真実。
上手く攻略してきたつもりが、最後の最後で立場を逆転された気分だった。
「随分必死だと思えば…。」
「仕方がなかったんだ。お前しか頼れなかったし…。」
「駆け込み寺の如く押しかけ、婚姻を取り付け、思わせぶりな態度を取って…か?」
瀬人は軽く口元を吊り上げて、肩で笑っている。
全て、バレていた。
「だが、婚姻を結ばなければならなかったのは本当なんだぜ。」
アテムは開き直ることにした。
「それを利用しただけだろう。それならそうと初めから言えば良いものを、面倒な男だ。」
「そうしたらお前は応えたのか?」
「知らん。」
「何だよ、それ。だが、お前だって今は…そう…なんだから…いいだろう。」
瀬人はアテムの顔をじっと覗き込み、口元に笑みを浮かべる。
「ほう、ならば俺も遠慮はしない。」
「…え?」
アテムが首を傾げた瞬間、瀬人は低く告げた。
「やはり状況が把握出来ていないようだな。」
「それはどう言う…。」
「俺も、形振り構わず、本気を出していいんだな?」
一瞬、心臓が跳ねた。
「な、何を…。」
アテムは戸惑い、距離を詰めてくる瀬人から後ずさる。
「覚悟は出来ているのだろうな?」
瀬人の声は鋭く、それでいて甘く絡みつく。
その目に射抜かれた途端、アテムは息を呑んだ。逃げ場がない、と本能で悟った。
瀬人が「遠慮はしない」と言った瞬間から、空気が変わった。
瀬人は元々、全てを制御する男だ。感情も言葉も、距離も。それを外した今、目の前の瀬人は、酷く静かで、なのに恐ろしく熱い。
逃げようとしたわけではない。
ただ、少し離れようとしただけなのに、視線だけで動きを止められる。
氷のように冷たい筈の青い瞳が、今は溶岩のように熱を宿していた。
これまでのやり取りすら、実は全てが前哨戦だったのだろうか。一体いつから。
瀬人の気持ちの動きを察してはいた。そのつもりだが、急にぶつけられる感情の強さや行動力の前に、アテムは動揺が隠せない。
「か…覚悟…。」
声が震える。
瀬人はアテムの腰に手を回し、身体ごと引き寄せた。
「…そんな顔をせずとも、お前が怯える理由など、どこにもない。」
声が低い。
耳の奥に残響するその響きに、心が反応する。
抗えない、そう悟るのに時間はかからなかった。
瀬人は何も乱さない。
ただ近付き、言葉を紡ぎ、呼吸の隙を奪っていく。
触れられてもいないのに、身体が熱を帯びていく。
その支配は、暴力ではなく、理解による征服だった。
「お前の中にある結論は、目的として初めから決まっていたのだろう。」
そう言われた時、アテムは思考の全てを奪われた。
否定することは出来ない。唇も動かない。
それどころか、ほんの少しだけ、心が安堵していた。見抜かれていることは、怖くはない。寧ろ、心地良い。
「お前が持ち掛け、俺が決めた。俺から離れることを許さん。」
その声には独占欲と情熱が混ざり、圧倒的な力を持ってアテムを支配する。
アテムは頬を赤らめ、目を逸らすしかない。
しかし瀬人はそれを許さない。じっと見据え、視線を絡める。
「婚姻の約束は口先だけでは済ません。今夜、この契約の意味を思い知らせてやる。」
低い声で囁かれるその言葉に、アテムは動揺と期待、そして抗えない熱を一度に感じた。
心臓は早鐘のように打ち、胸の奥が熱くなる。
自覚していた筈の自分の感情が、瀬人の勢いによって一気に揺さぶられ、理性を失いかけていた。
「そ…そのっ…流石に今夜は…酒も飲んだし…。」
先に心に気付いたのはアテムだった筈だが、もう言葉でも行動でも抵抗できない。
瀬人のスイッチが入った今、圧倒的な行動力の前に、完全に翻弄されるしかなかった。
背を押し付けられた石の冷たさが、アテムを一層追い詰める。
「か、海馬…待て、酔って…。」
「待つだと?」
瀬人は鋭い声で遮った。
「俺に、婚姻を結べと迫った時点で、お前に退路はない。」
アテムの喉がひゅっと鳴った。
視線を逸らそうとしても、瀬人の青い目に絡め取られている。
「俺は、ただ、助けを…。」
「助け以上を求めただろう。お前は全てを手に入れた。」
その覚えのあるアテムは何も言えなかった。
顔ごと他所を向こうとしても、瀬人がアテムの顎を持ち上げ、その顔を逃がさない。
逃げ道を塞ぐのではなく、逃げるという選択肢そのものを奪うように。
退路はない。息が詰まる。
「俺を婿に望んだのはお前だ。今、それを現実にしてやる。」
「なっ…。」
アテムの頬が熱を帯びる。心臓が打ち破れそうなほど脈打つ。
瀬人の声は低く、静かに告げる。
「俺は、力も立場も未来も、全て本気で手に入れに行く。その隣にお前を置くことも、例外ではない。」
アテムは言葉を失った。
助けを求め、婚姻を迫り、心を手に入れた筈が、いつの間にか、瀬人の宣告を受け入れるしかない状況になっていた。
震える唇を開き、反論しようとするが、瀬人は更に距離を詰めた。目の前に顔が迫り、真正面から見据えられる。
「言い訳も抗弁も聞かん。お前が本気で求めたのは俺だ。ならば、俺も本気で応えるまで。」
その圧倒的な熱と確信に、アテムの胸は焼き尽くされるようだった。
儀式の灯火が揺れ、影が壁に重なって伸びる。
アテムはまだ動揺の中にあった。
「ま、待て…俺は、本気って、そんなつもりじゃ…。」
瀬人はその抗弁を冷ややかに聞き流し、腕を伸ばす。
「アテム、今更『つもりじゃない』で済むとでも?」
言い聞かせるような圧と、口説いているような甘さが混在した声。
逃げ場は塞がれている。心臓は速く打ち、呼吸が浅くなる。
それでも瀬人の指が頬に触れれば、抗えない安心感が胸に広がった。
「お前は助けを求めた。俺を求めた。…その重みを、これから嫌というほど思い知ることになる。」
「っ…!」
言葉は厳しいのに、触れる手は驚くほど丁寧だった。
頬から耳へ、耳から首筋へ。まるで割れ物に触れるように撫でていく。
「海馬…本当に…。」
「お前の本気に、本気で応えるだけのことだ。」
そう言って微笑む瀬人の顔に、アテムは口を噤んだ。
恐怖と甘美さが同時に胸を締め付けた。
「アテム。」
呼ばれる声は、冥界の闇すら切り裂くように響いた。
「もう、お前は俺のものだ。」
抗う術はもうない。
だがアテムは気付いていた。抗うよりも、この男に身を委ねる方が、ずっと甘い。
吐息が触れる程の距離に、とうとうアテムは瞼を伏せた。
唇に触れる柔らかさ。
灯火が揺れ、2つの影は重なり合い、1つになっていた。
王の部屋での夜は、外の冷たさを忘れるほど静かで濃密だった。
瀬人の声が、すぐそばで響く。
「覚悟はいいな?」
何をされるのかは、分かりきってきた。
だが、それは未知の領域で、何かを失うような気がして恐怖があった。理性か、誇りか、それとも自分という輪郭そのものか。
「…海馬。」
名前を呼んだ時、瀬人の指が顎を持ち上げ、アテムは反射的に目を閉じた。
唇が触れ合えば、その瞬間、視界の全てが光に変わる。
舌が絡まり、身体が沈む。
重力ではなく、瀬人という存在に引きずられるように。
落ちていくのに、恐怖はなかった。寧ろ、漸く辿り着いた感覚だった。
逃げて、誤魔化して、それでも、瀬人の隣しか考えられなかった。
唇が離れて、息を吸う。
その空気の中に、瀬人の体温が溶けている。
「…もう、好きにしろ。」
そう言った自分の声が、どこか遠くに聞こえた。
瀬人の微笑が、それに応える。
「ああ、好きに…な。」
アテムはその視線を受け止めた瞬間、息をするのを忘れた。
いつもの瀬人ではない。
穏やかに笑うでも、理性で距離を取るでもなく、ただ真っ直ぐに、逃げ場を与えない眼差しだった。
心臓が鳴る。胸の奥で、静かに何かが弾けた。
「…そんな目で、見ないでくれ。」
言葉が震えるのを、止められなかった。
「好きにしろと言ったのは誰だ。」
瀬人の指先が頬をなぞる。力など殆ど込められていないのに、それだけで背筋が粟立つ。
押し込めてきた感情の蓋が、いとも容易く外されていく。
抗う方が怖いのか、委ねる方が怖いのか、もう分からない。それでも、抗う理由はもう思い出せなかった。
「…その、俺…し、知らないし…。」
小さく囁く声に、瀬人は淡い笑みを浮かべる。
アテムの声は震え。安堵と期待、そして少しの恐怖さえ、混ざっていた。
瀬人はその声に応え、手を伸ばす。アテムの身体を引き寄せ、しっかりと抱き込んだ。
指先が耳の後ろを撫でる。それだけで、呼吸が揺れる。
皮膚の表面に、熱が浮き上がるのが分かった。
「問題ない。感じろ。お前が誰のものなのかを。」
低く、冷たくもあり、しかし熱を帯びた声がアテムの耳に響く。アテムの胸の奥で熱がこみ上げる。
「俺は、お前の…。」
唇が触れる。息が絡み合い、身体も心も瀬人に引き寄せられていく。
瀬人は躊躇しない。アテムを完全に包み込み、心も身体も支配する。
装束に、手が掛かる。幾重にも重なったそれを、瀬人は一枚ずつ、丁寧に落としていく。
「そうだ、俺の伴侶だ。」
伴侶。その一言で、アテムの思考は更に溶けていった。
もう身に纏うものは何もない。アテムはその断定的な声に甘え、とうとう身体を預けた。
「…俺…もう、離れられないじゃないか…。」
その声を聞くと、瀬人は微かに笑みを見せる。
「離すつもりはない。冥界の制約も、現世の時間も、関係ない。」
瀬人が自分の着ている装束を一枚ずつ、脱いでいく。
互いの肌が直に触れた時、アテムは小さく頷き、安心したように目を閉じた。
胸の奥にある不安も、瀬人の力強さに包まれることで溶けていく。
冥界の時間は止まらず、現世との繋がりも続く。
だが、互いの存在を確かめ合うことで、どんな制約も超えられると感じていた。
瀬人の指先が肩から背中に滑り、体の曲線をなぞる。息が触れ合う瞬間、全身に痺れが走る。
その手は、まるで知っているかのようにアテムの身体の敏感な所に触れる。
「……ん、っ。」
仰け反り、浮いた背中に腕を回され抱き起こされる。体中に落ちる唇は、その度に赤い痕を刻んでいく。
舌先が、首筋から鎖骨を伝い、胸元へ辿り着く。
その小さな突起を口に含み、吸い上げ、甘く噛まれれば、アテムは小さく声を上げた。
仄かに笑った瀬人の吐息すら、アテムの体中を熱くさせる。
その間にも手は鳩尾、腹を通り過ぎ、反応を見せ始めている中心を包みこんだ。
「あっ、待っ……ん、んっ。」
焦らすような触れ方に、アテムの腰が揺れる。
「…待つのか?」
「ぁっ…や……それ、は…。」
上気した頬、眉尻を下げ、見上げる潤んだ瞳には、困惑と期待。
しかし瀬人はそれに笑みを向けただけで、手を離した。アテムの目が切なげに揺れる。
「これはオイル…香油か。」
瀬人は、いかにも、と言った風に置かれていたその中身を確認し、指を浸す。月明かりに、濡れた指先が光る。
指はアテムの目の前を通り、下腹部を通り過ぎ、窄まりに触れた。
鼓動は跳ね、アテムが目を見開く。
「待っ…やめ…。」
「怖がることはない。」
それは、言葉とともに、挿入された。
「あっ、違っ…お前、慣れて…。」
アテムのその言葉に、瀬人は二度瞬いた。
「…ああ、それか…。」
僅かに目を細め、瀬人は息を吐いた。
瀬人は穏やかに言葉を零したが、アテムの中で蠢く指の動きは止まらない。
時折、香油を足しては何度も出し入れし、入口を広げていく。
アテムの、吐息のような小さな甘い声と、増した香油の水音だけが空間に響くようだった。
後ろで三本目の指を呑み込まされ、アテムは身を震わせる。
内壁を擦り、奥を押し、中を広げていく。
「かい、ば……あ、ぁっ。」
「どうした。」
「…お前、ほんと…は、んっ、誰か……。」
アテムは困ったような、切なそうな顔をして瀬人を見上げた。
不安と嫉妬。これ以上続ければどうなるのか。瀬人はそれらを正確に読み取る。
小さく笑って目元に口付けた。
「基礎知識を頭に入れて来ただけだ。」
その声は、誂うでも誤魔化すでもなく、まるでアテムの不安を断ち切るために選んだ音のようだった。
アテムは心底、安堵していた。表情は相変わらず泣きそうだが、甘い、信頼に満ちたものへ変わる。
アテムの体を横たえ、そっと覆い被さる。
先端が触れて、アテムの胸が緊張と期待に高鳴る。
瀬人は目を合わせたまま、自身を挿入した。
「ん、あぁっ……!」
律動を始めれば、アテムは眉根を寄せて震えるが、完全に目を閉じることはなかった。
触れる熱い吐息。揺さぶれば漏れ出す控えめな喘ぎ声。耐える表情。全てが扇情的で、瀬人は思わず息を呑んだ。
頬を寄せ合う程に身を寄せれば、アテムが首に腕を回した。
「アテム…。」
耳元で囁く声に、耳の奥から頭の中までじわじわと響く何かがある。アテムは意識が宙に浮いているような心地良さを感じていた。
突かれ、揺すられ、目の前の相手以外には何も考えることが出来ない。
「あ、ぁっ…んっ…んんっ…!」
声量を抑えることも忘れ、羞恥心は消え去り、瀬人を受け入れる程に、大胆になっていく。
アテムの視界や思考に居るのは自分だけ。そう確信すると、瀬人は口元に笑みを浮かべ、一層激しく腰を打ちつけた。
「やっ、ん……んっ…!」
距離は完全に縮まり、息遣い、鼓動、温もりが重なる。言葉は少なくとも、心も身体も確かに結びついている。
アテムの求めに応え、瀬人は全力でその存在を守り、愛を示す。
ただ、互いを求め、互いに委ね、激しくなる時間は、深くまで続いた。
婚姻の約束は、単なる形式ではなく、心と身体を結ぶ強い契約になった。
瀬人はアテムを閉じ込めたまま、静かに囁く。
「願い通り、俺がお前を守る。誰にも渡さん。」
アテムはその言葉に、微笑みながら、胸の奥で温かく感じていた。この男は、これからもずっと、自分の傍にいる。
冥界の冷たい空気も、現世の喧騒も、届かない。
ただ、2人だけの時間と、永遠に続く愛が確かに流れていた。
窓から淡い光が差し込み、静かな部屋を照らす。
アテムは薄く目を開けた。
視線の先には、見下ろしている瀬人の姿があった。
「…起きたか。」
低い声。
アテムは昨夜の断片的な記憶が蘇り、頬を赤らめ、目を逸らした。
酔っていて、全てを覚えていないのではないことは分かっていた。
「お前…本気、って、ああいう…。」
「状況を、把握出来たか?」
瀬人は皮肉げに口角を上げた。
「…ああ。嫌と言うほど思い知った。」
アテムは苦笑しつつ、つい、瀬人に目が吸い寄せられる。
心も身体も、まだ熱が残っているのを自覚してしまう。
瀬人は暫く黙っていたが、ふと真顔に戻る。
「後悔はさせない。」
「誰がするものか。」
即答するアテム。その迷いのなさに、瀬人は満足そうに笑った。
「そうか。」
瀬人はゆっくりと寝台の縁に腰を下ろし、アテムの髪に指を通す。
「ならば、これからも覚悟しておけ。冥界が何を言おうと、現世がどうあろうと。お前は俺の伴侶だ。」
アテムの胸に安堵と熱が広がった。
自ら選んで求めた道だと、改めて思い知る。
「…海馬。」
小さく呼ぶ声に、瀬人は穏やかな視線を向ける。
「これからも…俺を見捨てるなよ。」
その言葉に瀬人は一瞬だけ目を細め、唇の端で笑った。
「安心しろ。既にお前の逃げ場はない。」
静かな冥界の朝、2人の間に生まれた空気は、甘く重い余韻を漂わせていた。
来訪.瀬人
冥界の宮殿に瀬人が現れると、侍女や高位者たちは一斉に頭を下げた。
「王の婿殿、ご来臨を。」
瀬人は眉を顰め、舌打ちした。
「貴様…話が違う。俺は単なる婚姻の形式上の相手なのだろう。」
しかしアテムはにこやかに笑い、手を握りながら言う。
「そうなんだが…まあ、周囲が勝手にそう呼ぶんだ。ふふ、海馬、似合ってるぜ。」
瀬人は小さく吐き捨てる。
「知ったことか。」
しかし頭の中で考えるのは、アテムに微笑まれた時の胸の高鳴り。
王の婿殿として扱われるのは少々面倒だが、冥界に来る理由が増えると思えば…いや、認めたくはない。そんな思いが拮抗する。
周囲の高位者たちはぴしっと礼をし、瀬人は腕を組んだまま、仕方なくアテムの横に立つ。
「ならばこの称号、もう少し慎重に使え。」
アテムは手を握り、くすくす笑った。
「だが、嬉しそうだぜ?」
瀬人は苦々しい顔をして、目線だけ宙を見上げて溜息を吐いて見せた。
「…くだらん。」
もう何度目になるか、同じ言葉を空気に溶かすが、そこには苦笑が混じる。
「お前、ずっとそればっかりだな。」
胸の奥はしっかりアテムに捕まれたままだった。
来訪.アテム
アテムは窓辺に座り、外の庭園を見つめながら、静かに息を整えている。
「…まだ来ないか。」
そう呟く声には、以前の焦燥感はなく、どこか落ち着きと期待が混じっていた。
婚姻後、瀬人が現れるその度に、アテムの心は僅かに跳ねる。
扉の音が響く。
「海馬。」
振り向くと、そこにはいつもの涼し気な目をした瀬人が立っていた。
「待ちきれなかったのか?約束ならしただろう、俺はお前を離すつもりはない。」
冷静な声にはいつもの威圧感もあるが、アテムに向けられる視線には、優しさと独占欲が混ざっている。
アテムは軽く頬を赤らめ、にこりと笑った。
「…待っていたんだ。」
その一言だけで、瀬人は歩み寄り、手を取ってアテムを近くに引き寄せる。
「それにしては、随分と落ち着いた顔をしているな。」
アテムは手を握り返し、少し甘えるように肩を預ける。
「お前が来ると分かっているから、安心して待っていられるんだ。」
瀬人は小さく笑い、背中を撫でる。
「…そうか。まあ、その顔も悪くはない。」
その指先の温もりに、アテムは自然と顔を近づけ、静かに甘える。
冥界の空気は変わらない筈なのに、2人の間には温かく濃密な時間が流れていた。
待つ時間も、訪れる瞬間も、以前とは全く違う。
アテムは、瀬人の存在を肌で感じ、心を預ける喜びに満たされる。
そして瀬人も、アテムを守り、傍に置くことの喜びに心が揺れていた。
日常は変わった。
それでも変わらないのは、互いを求め合う気持ちと、婚姻で結ばれた確かな絆だった。
顛末.遊戯
遊戯は、自分には訊く権利があると思っていた。
アテムが結婚に怖気付いて逃げ出してきた時に力を貸した。
瀬人が結婚式に乗り込み、花嫁だか花婿だかを攫って来た夜にも力を貸した。
しかしやめた。瀬人に叱られながら、見つけてしまった。首筋にキスマークを、そしてその手に指輪を。
それは懐かしさを感じる輝きを放つ、金色の指輪だった。
