甘さの均衡

社長の家にお泊まりした朝の話


窓から差し込む柔らかな光が、寝室の空気を淡く照らす。
遊戯はまだ眠気を引きずりながら、瀬人の腕の中でぼんやりと目を開いた。
昨夜の、熱い程の温もりが、まだ薄く肌に残っている。
ベッドの上、絡まったシーツの皺が、昨夜の記憶を語っていた。
瀬人の横顔を見詰めれば、昨夜の余韻に頬が熱くなり、目を逸らした。
「遊戯、朝だ。」
低く穏やかな声が耳に届き、遊戯は顔を上げる。
「ん…、…海馬…まだ眠いんだ…。」
小さく欠伸をしながら、寝惚けた声で応える。
瀬人は微かに視線だけで様子を確認し、小さく笑った。
低く甘い声で囁く。
「仕方のない奴だな。もう少し横になっているか?」
「…それはいい考えだな。かなり甘い誘惑だ。」
瀬人は腕を軽く引き、耳元に口を寄せた。
「甘いだけではない、目覚めも与えてやれる。」
かかる吐息に、遊戯は思わず小さく息を漏らす。
「…それ、また夜に逆戻りするつもりじゃないだろうな?」
「ならば起きるしかあるまい。でなければ夜の続きだ。」
遊戯は、瀬人の腕の中で口元を僅かに緩める。
「そう言われると、起きられるような気がする。」
2人は暫し言葉少なに、体温と呼吸を確かめ合う。
窓の外では鳥が囀っているのだが、勿論部屋の中には届かない。
やがて瀬人がゆっくり起き上がり、寝癖のない髪を手で整えて、息を吐くように笑った。
「これ以上は寝坊だ。お前も起きろ。」
遊戯は枕に頬を押しつけたまま、くすくすと笑う。
「お前がそう言えるのか、海馬。…誰のせいで眠れなかったと思っているんだ?」
瀬人は肩越しに視線を送る。
「自業自得だろう。挑発したのはお前の方だ。」
遊戯は伸びをしてゆっくりと起き上がり、手を伸ばして瀬人の背に触れる。
目を合わせて微笑み合う。
まだ夜の余韻が残る寝室に、朝の光が差し込んでいた。





「いつまでも寝惚けていないで目を覚ませ。朝食だ。」
「ああ…うん…。」
遊戯は、未だ眠そうに、欠伸を噛み殺しながら瀬人と並んで食卓につく。
瀬人がナイフとフォークでクロックムッシュを器用に切り分ける。
遊戯はパンにバターとジャムを塗り、ゆっくり口へ運ぶ。
瀬人は横目でその様子を観察し、自分もフォークを口に運ぶ。
「…む、甘いぜ、このジャム。」
「ジャムは甘いものだ。こちらを食べてみるか?」
瀬人が一口分をフォークで刺して差し出す。
「お前からの甘さは、昨夜充分味わった。」
そう言いながらも、遊戯はそれを啄む。
静かな部屋に、カトラリーの音が控えめに響く。
食後、テーブルに置かれたのは小さなデザートとブラックコーヒー。
カップから湯気が立ちのぼる。
少し赤みがかった液に、焙煎独特の香ばしい香りが朝の空気に混ざる。
遊戯は、その香りだけで眠気が削ぎ落とされるようだった。
「…苦いぜ…。」
瀬人は微笑みを浮かべるだけで、淡々と返す。
「昨夜の甘さの反動だ。」
遊戯は目を細める。
「これでバランスを取っている、というわけか。」
「世界は均衡で成り立つものだ。甘さばかりでは崩壊する。」
瀬人の声は甘すぎて、理屈で装われた照れ隠しのようにも聞こえた。
遊戯は静かにカップを置き、瀬人を見詰める。
「お前の理屈は嫌いじゃない。…だが、俺はもう少し甘い世界でも構わないと思っているんだ。」
瀬人は小さく息を吐き、遊戯に目を向けた。
「そうか。ならば、次の夜で帳尻を合わせよう。」
「ふふ…、そうか。それは楽しみにしておく。」
2人の間に漂う香ばしい苦味は、甘さを際立たせるための前置きのように、朝の空気に溶けていく。
「だが…苦いものは苦いんだぜ。」
遊戯が再び呟く。口元には、ほんの僅か、苦味の名残。
「初めから違うものを飲めば良いだろう。変えさせるか。」
「分かってないな。俺だってコーヒーを飲みたいんだ。」
瀬人は腕を伸ばし、無言で瓶を手に取った。
「…何をするつもりだ?」
「お前が苦いと言うのだ、仕方がない。コーヒーの定義を修正する。」
瓶に入った蜂蜜を取り、スプーンでカップに垂らす。
黄金色の甘さが赤い液体の中でゆっくり溶けていく。
遊戯は小さく息を吐いて微笑んだ。
「…随分、甘い対処だな。」
瀬人は小さく笑って低く言った。
「口で言っても聞かないのだ、行動で訂正するしかあるまい。」
「訂正、か。」
遊戯は軽く笑い、カップを再び持ち上げる。
少し口をつけて、目を細めた。
「…悪くはない。」
カップを手にし、互いに静かに飲み交わす。
甘く、苦く、けれど確かな温もりが、2人の間に静かに満ちていく。
瀬人はそれを確認してから、緩く言葉を落とす。
「甘いものはそのまま甘受しておけばいい。だが、苦いと言うのなら、甘くしてやる。それだけの話だ。」
遊戯は顔を伏せ、低く笑う。
「なら…次に俺が甘くないと感じた時も、同じようにするのか?」
遊戯は視線を落とし、胸の奥で微かに震える感情を感じながら、穏やかに問う。
瀬人は一拍の沈黙を挟み、微笑の気配を見せた。
「次か。…その時は、蜂蜜では足りないのではないか?」
遊戯が顔を上げ、2人の視線が絡み合う。
甘さが喉の奥に残るのは、蜂蜜のせいではなかった。
「次は、俺がお前のを甘くしてやるよ。」
「充分だ。お前が居る時点で、俺にはこれ以上ない程に甘い。
遊戯は堪えきれず、笑った。
「そんな理屈はずるいな。お前が言うと、全部、真実に聞こえる。」
瀬人は微かに肩を揺らしただけだった。
「言葉遊びではない。お前と過ごす朝は、俺にとっては甘さだ。」
遊戯は一瞬、言葉を失った。
その声音があまりにも自然で、口説き文句ではなく、ただの事実のように響いたからだ。
遊戯の頬が熱を帯び、視線を逸らす。
静かな呼吸の合間に、カップの中の香りがふっと混ざり合う。
昨夜の余韻よりも深く、心地よい甘さが、確かにそこにあった。
「海馬。そんなに甘いと目が覚めないぜ。デザートより、また、お前が欲しくなってしまう。そうなればまた甘さに逆戻りだ。」
瀬人の指がピタリと止まる。
口元に笑みを乗せ、振り返らずに、短く言う。
「解決策ならある。」
「どうするつもりだ?」
「…定義を変えてやろう。俺が朝だ。」
遊戯の口元が僅かに緩む。
「…ああ、それなら確かに。甘い上に目が覚めるな。」
2人の間に、静かな笑いが流れる。
甘くて、少し苦くて、だけど確かに目覚める時間。
今日も、2人で始まる。そんな朝だった。





朝の光の中、2人はそれぞれの温もりを互いに感じながら、ただ静かに、けれど確かに繋がっていた。
外の世界の喧騒も、時間の制約も、その部屋には届かない。
ここは2人だけの、甘く穏やかな小さな世界だった。
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