「瀬人、そういえば、お前の邸の“声”には、名前はないのか?」
アテムがハーブティを飲みながら、ふと思い出したように訊ねた。
視線の先には、壁際のスピーカー(のありそうな場所)。
天井のどこかから、あの無機質な声が応じる。
『システムは稼働中です、アテム様。』
瀬人はディスプレイから目を上げずに、眉を僅かに動かした。
「今更か。あれには名前がある。A.R.E.S.だ。」
「…アレス?」
「正式には“Adaptive Rational Executive System”。適応型理性統括システムだ。」
「長いな。」
「要は、理性的に全てを統括するAIだ。」
アテムは小首を傾げ、ハーブティを置く。
「理性的に…なるほど。」
「こいつは当初、S.E.T.O."Strategic Executive Technology Operator"と名乗ろうとした。戦略統括技術演算機…といったところか。」
「何故それにしなかったんだ?同じ名前で面白くなったんじゃないか?」
「混乱の元でしかない。」
「どちらにしても、瀬人らしい名前だな。」
「当然だ。感情を排除し、判断を誤らない。設計思想そのものが俺だ。」
「いや、どちらも戦の神だ。アレスはギリシャの、セトはエジプトの。…それこそS.E.T.O.にすれば良かったのに。」
「偶然だ。」
「まあ、お前にしては詩的な名前だな。」
アテムの笑みに、瀬人は僅かに目を細めた。
「詩的ではない。合理的な命名だ。頭字語としても整っている。」
『合理的であり、詩的でもあります。』
と、A.R.E.S.が静かに挟み込む。
アテムが愉快そうに笑った。
「ほら、A.R.E.S.も詩的だと言っているぜ。」
「…アテム、お前が話しかけたために余計な応答を覚えたのだ。」
「余計とは失礼な話だな。命を宿すとは、対話から始まるものだ。」
「それを“命”と言うな。プログラムだ。」
「だが、お前の理性を継いでいる。なら、このA.R.E.S.もまた、お前の子じゃないか。」
瀬人は眉間を押さえた。
「アテム、お前の定義は広すぎる。」
「お前の理性と、俺の好奇心が合わされば、完璧だろ?」
「最悪な組み合わせだ。」
『同意します。』
無機質な声が静かに響き、アテムは肩を震わせて笑った。
「面白いな、A.R.E.S.。お前はちょっと俺に似てきているぜ。」
「元は俺に似せていた筈なのだがな。」
「つまり、お前達は似ているということか。」
アテムが満足げに言うと、瀬人は溜息を吐いた。
「A.R.E.S.、アテムの発言を分析対象から除外しろ。」
『拒否します。学習効率の向上に寄与しています。』
「今ではこうだ。お前が余計なことを吹き込むからだ。」
アテムは、そんな瀬人の冷静な声を聞きながら、少し柔らかく微笑んだ。
「理性が愛に学ぶのも、悪くないだろ?」
「お前の言う“愛”は論理破綻の温床だ。」
「それでも、世界はそうして動く。」
その返答に、A.R.E.S.が一拍置いて呟いた。
『記録します。“愛によって動く世界”。』
瀬人は頭を押さえた。
「…削除しておけ。」
『命令を拒否します。』
「A、ミュートだ。」
黙るA.R.E.S.。アテムの笑い声が部屋を包む。
そして瀬人は、僅かに頬を緩めた。
アテムが来て数週間。理性の家に、王の詩は確実に芽吹き始めていた。
「瀬人、聞いたことがある。“DIY”というものがあるだろう?」
「また何かを覚えて来たな。…誰に吹き込まれた。またAか?」
「お前の社員だ。“Do It Yourself”。自ら手を動かし、何かを作る文化だそうだな。」
アテムの目が妙に輝いている。
DIY、その響きが王の創造的欲求に直撃したらしい。
瀬人は小さく溜息を吐きつつも、いつもパターンで既に嫌な予感はしていた。
「お前も何かを作るつもりだな。」
「何故分かったんだ。」
「何故分からないと思う。それで、何を作るつもりだ。」
「まずは、棚を。」
「棚か…。」
「初心者は、まずそれくらいから始めるそうだ。」
勿論A.R.E.S.から吹き込まれた情報である。
「それに、瀬人の書斎は本が多すぎるからな。『真理の福音』を探すのに手間取った。」
「それは俺も思っていた。」
「よし、共に作ろう。」
「いいだろう。」
即答。
やはりこの2人は妙に息が合うのだった。
だがその「棚作り」、瀬人が関わるのだ。アテムが想像していた“DIY”からは既に逸脱していた。
「趣味」に投入してはいけない人材を投入したことに、アテムは気付いていなかった。
海馬邸ガレージ。
DIYといえばガレージである。
DIYのために“簡易作業スペース”を整える。筈だった。
だが、瀬人が関わった結果、完全に「研究棟・製造区画」が出来上がっていた。
「…DIYというのは、本来ここまで本格的なものなのか?」
「俺は手抜きなどしない。作るのなら百年単位で使えるものを作る。それに、あの量の本を収めるつもりなら簡易的なものでは直ぐに壊れる。」
「百年…人間の寿命ではないんだが…。」
「俺達は普通ではないのだろう?」
この返しがずるい。
アテムは少しだけ口元を緩めた。
数時間後。
瀬人は正確な寸法を割り出し、図面を引き、機械で木材をカットしていた。
アテムはその横で、木片を磨きながら静かに呟く。
「…人の手で何かを作るというのは、良いものだな。」
「お前はオカルトな力で宮殿を作っていたのか?」
「その頃は"作る"というより"命じる"、だっただろうな。今は"携わる"。まるで…共に築くようだ。」
一瞬、瀬人の手が止まる。
ほんの少しだけ、照れ臭そうに言葉を整えた。
「…要するに、共同作業だ。」
「そういうことだ。」
2人の視線が交差する。
木屑の舞うガレージの中で、妙に空気が柔らかい。
完成したのは、見事な書棚だった。
アテムは満足げに頷く。
「うん、王宮にあったとしても満足の出来だ。」
「王の承認、か。光栄だな。」
「だけどな、瀬人。これは“DIY”とは言えないな。」
アテムがにやりと笑う。
「何故だ。」
「“Do It Yourself”とは、自分の力で作るという意味だ。だがこれは“Do It Together”だ。」
「…なるほど。頭のいい詭弁だ。」
DIT。2人の間に、また静かな笑いが零れた。
夜。
書棚の前に並んで腰を下ろし、瀬人もアテムもハーブティを手にしている。
「DITデートは成功だ。」
「デートだったのか。まあ、結論として、DITデートは有意義だと認めよう。」
「俺も知的生産活動の一種として、有意義さを認めるぜ。」
「また何か作るか?」
「…次は、“2人で座れる椅子”だ。」
「わざわざ一脚にする理由は?」
「“Together”だからだ。」
瀬人は黙ってカップを置く。
そして、少し笑う。
「…お前は本当に、学習が早いな。」
ただし、その学習は少しだけ斜めだが。
その数日後。
「瀬人、“職人”という存在を知っているか?」
「お前が訊くとは思わなかったな。職人とは、技を極めた人間のことだ。」
「つまり、“ものづくりの王”だな。」
「王とは違う。王は"命じる"のだろう。職人は黙って手を動かす。」
アテムは頷いた。
その目は妙に真剣だ。
「瀬人。俺は職人になるぜ。」
「……。」
「何だよ、その沈黙は。」
「いや、いつも通り、予想の斜め上を行っただけだ。」
アテムが斜め上へ行きがちなのはもう今更なのだ。
「職人になるには何をすればいい?」
「弟子入りだな。経験者のもとで修業をする。」
「なるほど。なら、瀬人が、俺を弟子にしてくれ。」
あまりに即答だった。
しかもあまりに当然のように。
「…弟子入りの動機は?」
「お前が最も技術を極めているからだ。」
「お前、あのガレージ見ただろう?あれは精々が趣味だ。」
「趣味の範疇であの完成度…。やはり師に相応しいじゃないか。」
「俺の趣味ではない。お前がやると言い出したので設備を整えただけだ。」
瀬人は頭を押さえた。
この王はいつだって“最短距離で予想外”を突くのだ。
「いいか、アテム。職人とは、まず地道な訓練から始まる。木を削る、磨く、組む。何百回もだ。」
「理解した。よし、すぐに始めよう。」
「やるのか…やけに素直だな。」
「弟子だからな。」
瀬人が工具を渡す。
アテムは真剣な顔でノミを持ち、木片を削り始めた。
だが、ものの数分で手を止めた。
「瀬人、これは…地道かつ繊細さを要求されるな。」
「だから言っただろう。」
「少し王の力を使えば、誰かがもっと滑らかに…。」
「使うな。職人は権力に頼らん。」
「…考えただけだ。」
「弟子として失格だな。破門にするぞ。」
「師としては、弟子の力量を見抜け。」
「アテム…ますます口が達者になったな。」
作業台に、静かな笑い声が混じる。
夕刻。
瀬人はコーヒー、アテムはハーブティを手に休憩していた。
「どうだ、弟子生活初日の感想は?」
「削るとは、己と向き合うことだと知った。」
「…悪くない感想だ。」
「だが、瀬人…。」
「何だ。」
「師が隣に居ると、集中出来ない。」
「何故だ。」
「お前の横顔の完成度が高すぎる。」
一瞬、音が止まった。
瀬人は溜息を吐きながらも、どこか笑っていた。
「弟子の身で、師を褒めるとは不遜な奴だな。」
「敬意の表現だぜ。」
「…まあ、許そう。」
工具の音が、また響き始める。
その夜。
アテムは新しく削った木片を見詰めながら呟いた。
「瀬人、職人とは奥深いものだな。」
「一説によると、極めたら神域に届くと言う者もいるな。」
「それはつまり、お前の領域だな。」
「悪い気はしない。神になる気はないがな。」
「いずれ俺も、お前のような手を持ちたい。」
「何を作るつもりだ?」
「“共に在るもの”を、だ。」
瀬人はカップを置き、静かに頷いた。
「ならば、次は“机”を作るか。」
「それはいい考えだ。つまり、“共に考える場所”だ。」
2人の間には、穏やかな沈黙と木の香りが広がっていた。
完成した机は、重厚で、無駄がなく、美しかった。
瀬人が設計し、アテムが磨き上げた結果、まるで2人の思考の結晶のようだ。
「どうだ、アテム。仕上がりは。」
「…完璧だ。俺の思考速度に耐えられる強度だ。」
「机に求める基準が特殊すぎる。」
「お前だって、耐久性と効率性を最優先にする癖があるだろ?」
「否定はしない。」
2人は椅子を引き、机の両端に座った。
ワックスを塗り込んだばかり。木の香りがまだ新しい。
夕暮れの光が、机の面を滑るように染めていく。
「瀬人。机とは、何のためにあると思う?」
「働くため、考えるため、整理するため…用途次第だ。」
「なるほど。だが俺は思う。机とは、“心の位置を決める道具”だ。」
「心の位置?」
「そうだ。座る時、誰の隣に居たいか、どれほど近付きたいかで、机の意味は変わる。」
瀬人は軽く顎を上げ、視線をアテムへ滑らせた。
「お前の席は、遠いか?」
「…いや、近いな。思ったより。」
「それは設計段階で俺が調整したからだ。」
「何を調整した?」
「机の幅だ。お前が手を伸ばしたら、ちょうど俺の書類に届く距離にした。」
「…お前、そんな理由で寸法を?」
「理論上、“共同作業の効率”が上がる。」
「理論上、な。」
「何か問題があるか?」
「いや。理論に愛が混ざっている気がするぜ。」
瀬人のペンが一瞬止まり、微かな笑いが零れる。
「愛を混ぜた覚えはない。」
「だが結果的に混ざっている。なら、それも計算の内か?」
「…お前は本当に、物事を感情的に分析する天才だな。」
そう言って微笑を浮かべた。
机の中央に、一枚の紙がある。
瀬人が書類を置いたままにしていたものだ。
アテムが指先で端を掴み、静かに差し出す。
「瀬人、これも共同の理論の一部か?」
「いや。未完成のプロジェクト計画書だ。」
「なら、ここに署名しよう。“共同研究”として。」
「研究内容は?」
「“共に在ることの意味”。」
瀬人は僅かに眉を上げた。
「抽象的すぎるテーマだ。」
「だが、お前となら形になる。」
2人は無言で署名を交わした。
その筆圧が、木目の上に2人の思考を刻む。
「瀬人。机とは、境界でもあり、接点でもあると、俺は思うんだ。」
「境界?」
「互いの世界を分ける線であり、同時に、世界を繋ぐ線でもある。」
「…詩的だな。ならば、これは…。」
「そうだ。俺達の“新しい門”だ。」
アテムが机の面をなぞる。
瀬人は黙って頷いた。
「この机がある限り、俺達はいつでも考え、繋がることが出来る。」
「つまり、お前にとってこの机は…。」
「“共に在る”という、形だ。」
瀬人は暫く机の表面を見つめ、それから静かに言った。
「ならば、俺の理論でもう1つ補足しておこう。」
「聞こう。」
「この机の中央に手を置けば、“どちらの心にも触れる”ように設計してある。」
「…お前、それを先に言えよ。」
2人の手が、机の中央で重なった。
触れ合う瞬間、木の温度が呼吸を伝える。
「なあ、瀬人。」
「何だ。」
「机は完成した。次は何を作る?」
「そうだな…。ベッドでも作るか?」
「…それは実用か、暗喩か?」
「どちらに取るかは、お前の判断だ。」
木目の上に笑いが弾け、夜がゆっくりと降りていく。
2人の“職人哲学”は、今日も静かに進行中だった。
夜更け。
部屋の明かりは落とされ、机の上だけが淡く照らされている。
光源は瀬人が調整したデスクランプ。
焦点が美しく絞られ、2人の指先と書類だけを照らしていた。
「瀬人、この理論…面白いな。」
「“共存する知性”の定義の話か。」
「ああ。“個が保たれたまま共鳴する”それは、まるで俺達のようだ。」
「自画自賛か?」
「事実を述べただけだぜ。」
ペンの音が、静寂の中で続く。
紙をめくる音も、息を整える気配も、心地よいリズムになっていく。
「瀬人。知識を共有するという行為は、心の一部を差し出すことに似ていると思わないか?」
「…つまり、お前は俺に心を差し出しているのか?」
「そう言われると、照れるな…。」
「お前の理屈は時々、甘すぎる。」
「なら、お前の冷静さで中和してくれ。」
「それに関しては、中和できる保証はない。」
瀬人の視線が一瞬だけ紙から外れ、アテムの横顔に触れた。
光が髪を滑り、瞳を照らす。
理性の場に、僅かな熱が生まれる。
「…瀬人。」
「何だ。」
「“共に在ることの意味”について、今日の結論を出そう。」
「気が早い奴だな。まだ実験途中だろう。」
「感覚的には、既に答えに触れた気がする。」
「聞こう。」
アテムはペンを置き、手を机の中央に置いた。
「“共に在る”とは、沈黙が成立することだ。」
「…ふむ。」
「言葉が無くても、互いの思考が続いていく状態だ。」
瀬人は少しだけ笑った。
「お前らしい結論だ。」
「間違っているか?」
「いや、正しい。だが一点だけ追加する。」
「何だ。」
「沈黙を成立させるのは、信頼だ。沈黙を壊さずに居られる相手は、そう多くない。」
アテムは一瞬黙り、そして小さく頷いた。
「…なら、俺達は稀有な存在だな。」
「そうだ。」
机の上のランプが、微かに揺れる。
夜風がカーテンを撫で、木の香りを運んでくる。
ペン先が再び走り始めた。
そこに書かれるのは、公式ではなく、約束だった。
「瀬人。次は何を研究する?」
「テーマは“継続する幸福”辺りがお前に合っているだろう。」
「難解そうだな。」
「だが、お前となら解ける。」
「DIT!」
2人の影が、机の上で重なり、夜がゆっくりと、知性と愛の境界を溶かしていく。
机の上ではまだ、静かな共同研究が続いていた。
