02 王、デートをする


「瀬人、デートというものを調べてみた。」
朝食のコーヒーを前に、アテムは真顔で言った。
スクロールしすぎて熱を帯びたスマホを手にしている辺り、夜通し勉強していたらしい。
夜中に隣でごそごそしていたが、あのまま眠らなかったのか。と瀬人は呆れた。
「…また妙な論文でも掘り当てたのか?」
「いや。現世の恋愛において重要な儀式だとある。互いの理解を深め、情緒的な親密さを構築する、と。」
「要は、暇を共有する口実だ。」
「なるほど、論理的だな。だが、俺も実践してみたい。」
瀬人はカップを置き、ほんの少しだけ目を細めた。
「王が庶民文化のフィールドワークを希望とはな。」
「研究の一環だ。勿論お前とだぜ。」
「研究目的のデートとは、光栄だな。」
そんな軽口を交わした結果、初デート当日。
デートコースを「瀬人に任せる」と言ってしまったアテムは、数時間後、海馬コーポレーションの超高級ホテル最上階のラウンジにいた。勿論、貸し切りである。
エントランスから専属スタッフがつき、車寄せには黒塗りのリムジン。
「…これは、もはや恋愛行事というより外交儀礼じゃないのか?」
「王の外出にはそれ相応の待遇が必要だろう。」
「いや、そういう意味ではないんだが。」
ハーブティの香りが立ちのぼる。
アテムはカップを持ちながら、半眼で言った。
「お前は何でも完璧に整えてしまう。これではデートの醍醐味、つまり共に試行錯誤する体験が欠けている。」
「効率を犠牲にする行為を、浪漫と呼ぶとでも?」
「…そうらしい。」
瀬人はふっと笑った。
「では、浪漫とは合理性の敗北だな。」
「だが、悪くない敗北だ。」
「…随分、人間らしいことを言うものだ。」
「人間らしくなったのは、お前のせいだぜ。」
沈黙。
その短い間に、互いの視線が交差し、どちらも目を逸らさない。
冗談めいた理屈を積み重ねてきた会話の、その奥に柔らかい熱があった。
「次は」アテムが微笑む。「俺が行き先を決める。」
「どこへ?」
「公園だ。2人で歩いて、何かを買って、お前が効率的ではないと思うことをするんだ。」
「…例えば?」
「ベンチに座って、何もしない。」
瀬人も笑いながら、頷いていた。
合理も、戦略も、勝利も要らない時間。
それを共有できる相手がいることが、思った以上に幸福だった。



晴れた午後。
アテムは寝間着を脱ぎ、軽いジャケットに着替えていた。
「今日は俺が計画したデートだ。」
「聞こう。どんな研究内容だ。」
「共に歩き、発見を共有する。シンプルな行動観察型デートだ。」
瀬人は眉を上げた。
「つまり、散歩だな。」
「学術的にはそうだが、現世では浪漫的行為に分類される。」
「いつの間に分類好きになった…。」
「これもまた、お前のせいだ。」
そんな調子で、2人は街へ出た。
通りには休日の人々、並ぶ店。アテムは目を輝かせて歩く。
「この匂いは…焼き菓子か?現世の香辛料の組み合わせは興味深い。」
「食べてみるか?」
「いや、今は観察中だ。」
まるで研究員のような真剣さに、瀬人は肩を揺らして笑った。
その時、アテムの足が止まった。
「…カードショップ?」
ショーウィンドウの中には最新パック、限定デッキ、そしてエースのブラック・マジシャンに、その補助カード。
瀬人が止めるより早く、アテムは店に入って行った。
「ああ…カード文化はここまで発展しいたのか。」
「浪漫的行為はどうした。」
「知っている。しかしこれは学術的価値が高い。」
「学術…?」
「見てくれ、このパック配置。販売戦略として極めて巧妙!」
瀬人は呆れながらも、アテムの目の輝きを止めなかった。
アテムが戦場に立つ時と同じ真剣さでパックを吟味している。
「…デートより真剣だな。」
「どちらも知的興奮の対象だ。」
「比較対象が間違っている。」
結局、2人は予定の半分以上をカード屋で過ごした。
アテムは満面の笑みで新しいパックを手に入れ、帰路についた。

夜。海馬邸。
ハーブティを飲みながら、アテムがふと思い出した。
「…瀬人、今日はデートだったよな。」
「漸く気付いたのか。」
「流石だな。俺は途中から完全に忘れていたぜ。」
「見れば分かる。」
暫しの沈黙の後、アテムが少し照れたように笑った。
「それでも、楽しかった。俺は満足している。」
「“デート=互いの幸福を共有する時間”と定義するのなら、成功だろう。」
「よし。次もこの形式で行こう。」
「またカード屋か?」
「いや、今度はカードを使って遊ぶ。」
「それはもはや日常的行為だ。」
瀬人はふっと笑い、カップを傾けた。
効率的ではない。予定通りでもない。
だがその非効率の中に、確かな幸福があった。





日曜の午後。
瀬人が書斎からメインルームへ移ると、アテムが妙に真剣な顔でタブレットを覗き込んでいた。
その視線の先には『おうちデート特集♡』。
「…何を見ている。」
「おうちデートという現象だ。現世ではこういう形態もあるらしい。」
「形態?」
「デートには多様性がある。俺は学んだ、俺達は屋外型には不向きだ。」
「不向き…否定はしない。」
瀬人は軽く溜息を吐いた。
前回はカード屋で3時間、前々回はラウンジで哲学的討論会。
浪漫の気配は、あったような、なかったような。
アテムはタブレットを閉じ、意気揚々と立ち上がった。
「おうちデートなら、俺達にも適正がある筈だ!」
「どういう理屈だ。」
「知的生物に最適な環境は静穏と適度な刺激。家はその条件を満たしている。」
「要は、出たくないだけではないのか。」
「…否定はしない。」
瀬人は溜息を吐き、目線を上にやった。
「それで、何をする気だ?」
「順を追って試す。まずは、料理を共にする。」
「…包丁を使えたのか?」
「剣の扱いなら心得がある。」
「物騒な前置きだな。」

キッチンに立つ2人。
アテムはレシピを見ながら慎重に包丁を握る。が、動作がいちいち王の儀式のように荘厳だ。
「瀬人、これは玉ねぎのみじん切りという儀式か?」
「儀式ではない、調理だ。」
「涙が出るのは試練の一環か?」
「違う。化学反応だ。」
「現世の料理は奥が深い…。」
瀬人が黙って後ろから手を添えた。
「こうして、手を少し寝かせろ。」
「うん。…こうか?」
「そうだ。指を落とすなよ、王。」
「やめてくれ、その呼称は調理の集中力を奪う…。」
鍋がコトコト煮える音だけが響く。
2人はふと、目を合わせて小さく笑った。
食卓に並んだのは、形こそ不格好だが温かいスープ。
アテムは真剣な顔でスプーンを持つ。
「瀬人、これが家庭の味か。」
「王宮料理よりは人間味があるのではないか?」
「ふふ、良いものだな。」
静かな午後、外では風が木々を揺らしている。
ただ2人の笑い声だけが流れていく。
「…おうちデートは成功か?」
アテムが問う。
瀬人は少し考え、頷いた。
「お前が包丁を振り回さなかった時点で、成功だ。」
「次は映画鑑賞デートというものを試してみたい。」
「また研究対象が増えたな。」
「研究ではなく、愛の実践だ。」
「…言い方を覚えたか。」
瀬人の口元に、抑えきれない微笑が浮かんだ。
王は学習が早く熱心である。
ただし、少しだけ方向が斜めだ。

夜のリビング。
照明は落とされ、スクリーンに映し出されるのは瀬人の選んだごく分かりやすい古典映画。
ワインとチーズが整然と並ぶその光景は、ほぼ貴族の談話室である。
だが、その隣ではメロンソーダにポップコーンがドン☆と置かれ、雰囲気をぶち壊している。
「アテム。現世の娯楽の中でも、映画は総合芸術だ。」
「ああ、知っている。音楽、演劇、絵画、全てを包含するものだろう。」
「…よく調べたな。」
「現世で、恋人たちは映画を観るという慣習があると知ったものでな。」
「やけに文化人染みた動機だな。」
アテムは姿勢を正し、真剣な眼差しでスクリーンを見詰める。
映るのは静謐な白黒の映像、重厚なナレーション。
だが、10分も経たない内にその眉が僅かに寄った。
「…瀬人、この男女はなぜこんなに言葉を選んでいるんだ。」
「抑制された感情表現が美徳だからだ。」
「感情を抑えるとは、何か罪でもあるのか?」
「いや、美学だ。」
「初っ端から理解不能だ。美とは、真実を隠すことではない。」
瀬人は思わず笑った。
「お前の国ではどうしていたんだ?」
「体験したことはないが、恐らく…愛していると言えば抱き締めた。抱き締めたいと思えば抱き締めた。何故なら俺はそうしている。」
「文明レベルの違いだな。」
「まさか。お前だって抱き締めるじゃないか。寧ろこれは退化だ。」
映画が進む。
クライマックス、主人公が恋人を残して戦地へ赴く。
アテムは身を乗り出した。
「瀬人、なぜ彼は行くんだ?彼女が泣いているだろう。」
「義務だ。国を守るために。」
「…それで本当に守られるのか。」
スクリーンの光に照らされながら、瀬人が視線を逸らす。
「守られる。誰かの決断で、何かが続く。」
「続く、か…。」
アテムは小さく呟いた。
その言葉に、微かに冥界の風が通り抜ける。
アテムの中で、王としての自分と、今ここにいる自分が薄っすら重なる。
映画が終わり、エンドロールが流れる。
少しの静寂の後、アテムが口を開く。
「瀬人、現世の人々は、なぜ続けることにこんなにも心を砕くと思う?」
「それが生きるということだからだろう。」
「…冥界では“永遠の終わり”が支配している。だが現世では、“続ける”が支配しているんだな。」
瀬人は隣のワイングラスを傾け、短く笑った。
「終わりがあるから続ける。お前が現世に留まる理由は、そこにあるのか。」
アテムは答えず、ただスクリーンを見詰め続けた。
映像の余韻が、まだ空気の中に漂っている。
「瀬人。」
「何だ。」
「続ける、というのは、難しいものだな。」
「だが、お前なら可能だ。学ぶ王なのだろう?」
「王としてではなく、今の俺として…少しずつ、学びたい。」
瀬人はグラスを置き、ふっと息をついた。
「学ぶなら、教材はここにある。」
「教材?」
「俺だ。」
アテムは小さく笑った。
「それは随分高価な教材だ。」
「使用料は…労働と、たまの笑顔でいい。」
「高くつくぜ。」
「構わん。」
2人は並んで座り、無言のままエンドロールの光を見詰めた。
スクリーンの白が、ゆっくりと2人の間を照らす。
冥界でも現世でもない、2人だけの時間。
「まだ何か観るのか?」
「恋愛コメディを。理論の裏づけが必要だ。」
「…お前はもう充分に研究熱心だ。」
静かに笑い声が重なった。
その音が、どこまでも穏やかに続いていった。





ある夜。海馬邸の書斎。
壁一面のスクリーンには、冥界の衛星画像のような映像が映っていた。
砂色の大地、揺らめく光、王の神殿。
現世の技術力をぶち込んだ、瀬人の冥界観測システムだ。
「…安定しているな。王不在でも。」
瀬人がぼそりと呟く。
「誰に話しかけているんだ?」
後ろからアテムの声がした。
瀬人は軽く肩を竦めた。
「監視対象にだ。」
「監視、か。」
「言葉の綾だな。状況観察、維持確認、科学的観測。」
「要は、俺が還らなくても大丈夫か確認しているんだな?」
「察しが良いな。」
アテムは微笑む。
「瀬人、俺は気付いている。お前はもう、“還れ”とは言わない。」
「言っても聞かないだろう。」
「うん…。確かにその通りではある。」
「つまり、合理的に沈黙しているだけだ。」
「合理的な沈黙か…冥界の詩人が聞いたら泣くぜ。」
瀬人は口元だけで笑い、スクリーンに映る冥界の光を指差す。
「見ろ。神官どもも秩序を保っている。お前が不在でも機能する。」
「…だが、王の席は空いたままだ。」
「象徴だ。実務には支障がない。」
「それを支障がないと片付けるのが、お前らしい。」
「ならばソリッドビジョンで投映しておくか。らしくあるようAIを組み込んで。」
「…いや…。」
短い沈黙のあと、アテムが少しだけ真面目な声になる。
「瀬人。冥界と現世を長く跨ぐと、魂が定着する場所を失う。俺はそれを知っている。」
「それで?」
「…それでも、ここにいたい。」
「ならば、ここにいろ。」
「簡単に言ってくれるなよ。」
「簡単な話だ。魂が安定しないのなら、安定させればいい。物理的なアンカーを作り、現世に座標を固定する。」
アテムは呆れたように笑った。
「神話的問題を技術で解決する気か。」
「神を相手にするのは慣れている。」
「…俺は神ではないぜ?」
「それを差し引いた所で、俺の現実においては特例だ。」
瀬人のその言い方に、アテムは思わず黙る。
何かを告白されたような、淡い重みが落ちた。
「…瀬人。」
「何だ。」
「お前の合理性は、時々とても感情的だ。」
「お前の感情は、時々とても合理的だ。」
視線が交わる。
スクリーンの光が、2人の瞳に反射して、まるで冥界の炎のように揺れた。
アテムが小さく息を吐く。
「還れなくなるかもしれない。」
「還ることはない。」
「瀬人。」
「…あの世界が、お前の居場所でなくなるのなら。俺がここをお前の居場所にすればいいだけの話だ。」
沈黙と、言葉よりも深い共鳴が、空気の中を静かに満たした。





数日後。
アテムは冥界と現世の狭間に立っていた。
様子と、理論の成功を確認するため、冥界へ戻る所だった。
薄く揺れる空気の膜。それが境界。
「瀬人、俺は思うんだ。もはや俺は死者の定義から外れているのではないか?」
「何をもって外れるという?」
「記憶も感情も、こうして現世の者と交わしている。生きていることと、何が違う?」
瀬人は少し黙し、端末の前で指を組んだ。
「帰属とは、生理ではなく意思で決まる。お前が現世を選び、俺を選んでいる限り、冥界はお前を縛れない。」
「…お前らしいな。」
アテムの声は穏やかで、それでいてどこか哀しい。
「だが、冥界を完全に失えば、“俺”という概念そのものが消える。存在の根が、揺らぐかもしれない。」
「ならば、揺らがないようにすればいい。」
瀬人の声は静かだが、どこか愉快そうでもある。
「理屈で成り立つ世界なら、理屈で橋をかけられる。」
「お前、本気で橋を作る気か?」
「橋…。いや、門が適切か。可逆性が必要になる。閉じても、繋がっている。」
「…冥界と現世を自由に行き来する門?神々の領域に足を踏み入れるつもりか?」
「領域を分けたのは人間の都合だ。論理的には、世界は常に接している。」
アテムは少しだけ肩を竦めた。
「お前の論理は、時に冥界よりも恐ろしい。」
「褒め言葉として受け取っておく。」
少しの沈黙。
アテムがふと、微笑む。
「…扉を開けたら、お前の部屋に繋がっていたら面白いな。」
「それは可能だ。実装するか。」
「冗談だぜ、瀬人。」
「俺は冗談でも最適化はする。」



冥界。
冥界の夜は、静謐でありながら妙に生きている。
アテムは玉座に腰かけ、目を閉じる。
その静寂の裏に、僅かな視線を感じていた。
「…まただな、瀬人。」

同時刻、現世の研究室。
瀬人は端末の光の前で、眉を僅かに上げた。
「気付かれたか。観測精度を上げすぎたな。」
やがて通信が繋がる。
アテムの声が、どこか楽しげに響いた。
『監視されるのは嫌いではないがな。まさか見張る趣味まで増えたのか?』
「冥界の波動は安定していない。お前が存在している座標を把握しておくのは、単なるリスク管理だ。」
『観測という名の干渉だ。世界の神々が聞いたら怒るぜ。』
「神々が怒ろうと、俺は統計を取る。」
アテムはくつくつと笑った。
『なるほど、怒りもデータの一部というわけだな。』
その知的な応酬の間に、互いの声の温度だけが確実に近付く。

そんなある晩。
アテムが私室の扉に手をかけた。
扉の向こうから、なぜか現世の空気が流れ込む。
不思議に思い、そっと押し開けた瞬間、そこには瀬人が立っていた。
「漸く完成した。」
「…お前、神々の門を弄ったのか。」
「弄ったとは言わん。座標を合わせただけだ。」
「…そうか。つまり、今この扉を潜れば…。」
「アンカーもある…俺だ。つまり、いつでも来ることが可能だ。前回のように落ちて来る必要はない。」
アテムは少し黙ってから、笑った。
「…意思で選べるのか。だが、もう行き来というより同居だな。」
瀬人は肩を竦める。
「今更何を言っているんだ。まあ、それはどちらでもいい。境界線の定義は、契約書の文面でしかない。」
「…理屈をつければ、何でも許されると思ってるだろ。」
「お前がそれを許すからな。」
2人の間に、静かに冥界と現世の空気が溶け合う。
門は開いたまま、閉じることを忘れていた。





朝、海馬邸の寝室。
アテムが目を覚ますと、隣に瀬人はいない。
代わりに、机の上に置かれた端末が淡く光っている。
『本日は冥界勤務のため、不在。夜には戻る。』
と、瀬人からのメッセージ。
アテムは目を細めて笑う。
「これは…共働きの夫婦ってやつの可能性がある…。いや、実際そうなのかもしれないな。」
食堂でパンを齧りながら、アテムは思考する。
現世の通勤は渋滞があるが、瀬人は門を潜って転移することがよくある。
自分も門を使えば一瞬で会社に行けるし、瀬人が居ると車に押し込められ、渋滞も赤信号もないのに無駄な通勤時間だと言われる。
だが、1人の時は、どうにも朝の空気を味わわなければならない気がして、結局徒歩通勤している。
会社の受付嬢が笑顔で言う。
「おはようございます、アテムさん。今日は徒歩ですか?」
「歩くことで思考が整うんだ。人間界の交通は、寧ろ良く出来ている。」

その頃、冥界。
瀬人は“冥界技術庁”と勝手に名乗った拠点の中で、光の線を走らせていた。
神官が困惑した顔で尋ねる。
「瀬人様、それは…魂の流動制御装置、でしょうか?」
「いや、正確には“安定化サーバ”だ。」
「さ、サーバ…?」
「冥界にネットワークを整える。王が現世から指示を送るには帯域が不足している。」
神官は意味が分からないまま、半ば泣きそうに頷いた。
「我々、ついていけるでしょうか…。」
瀬人は珍しく微笑んだ。
「心配は要らん。アテムも初めはExcelの保存場所に苦戦していた。」
「…えくせる?」
「…神の道具だ。」
神官たちは青褪めて祈り始めた。
冥界に、また1つ新しい信仰が生まれた。

夜。
アテムが帰宅すると、瀬人が座って待っていた。
冥界帰りのスーツ姿。
アテムがコートを掛けながら言う。
「お互い、勤務ご苦労様だな。」
「今日の会議では、回線の最適化に同意させた。」
「へえ。冥界の通信も、ついにブロードバンドか。」
瀬人はコーヒーを啜りながら、軽く笑う。
「お前のリモート会議で通信が落ちたと神官が泣きついてきた。だから整えた。」
「…便利すぎるな。もう冥界が死後の世界じゃなくなるぜ?」
「そうなれば、来世という言葉の再定義が必要になるな。」
アテムは吹き出した。
「お前、本気で死の概念をアップデートするつもりか?」
「非効率なシステムは淘汰される。それだけだ。」
知的すぎる夫婦喧嘩のような会話。
けれどその後、2人は揃って同じ料理を口にしながら笑っていた。

夜更け。
部屋の一角、あの門が静かに光っている。
アテムがその光を見上げながら、ぽつりと呟く。
「やはり不思議だな。ここに冥界と現世が繋がっている。」
「境界は常に、人間が線を引いた場所にしかない。」
アテムは横を向く。
瀬人が立っていた。
淡い照明の中で、ほんの少し優しい声になる。
「お前が居たい場所がここなら、理屈は後から合わせる。」
「お前という男は、神よりも融通が利く…。」
「神は世界を創った。俺はそれを再構築するだけだ。」
アテムは微笑んで近付く。
「再構築の成果は、悪くない。」
瀬人が僅かに笑う。
そのまま、2人の間に沈黙が降りた。
門の光が、まるで家の灯のように温かかった。



朝。
冥界と現世の境を繋ぐ門の向こうから、淡い光が差し込む。
アテムはコーヒーを淹れながら、新聞を捲る。勿論、内容は現世の経済紙。
隣では瀬人が、冥界の回線データを見ている。
「相変わらず難解だな、それ。何を解析しているんだ?」
「魂の流量データだ。最近、冥界の夜明けが早くなっている。」
「夜明けが早く…冥界にもそんな現象があるのか?」
「ある。王が笑うと、光が走るようだ。」
瀬人はわざとらしく新聞を覗き込む。
「笑ってみろ。データで確認してやる。」
アテムは呆れながら、コーヒーカップを置いた。
「…科学で王の笑顔を測定しようとするのは、お前ぐらいだぜ。」
「測定出来ないのなら、現象として報告するだけだ。」
「報告書に“王の笑顔により光度上昇”とでも書くのか?」
「“世界安定の要因、主観的幸福”と書く。」
アテムは口を開きかけて、少し笑って首を振った。
「…お前の理屈は、時々甘すぎて困る。」
「砂糖よりも論理的だ。」
「論理で照れるなよ。」
瀬人はグラスに指をかけ、ふと小声で返す。
「お前の笑い声に干渉されるのは、悪くない。」
アテムは少し目を伏せ、息を整えた。
「なら、今夜はもっとデータを増やすとするか。」
「実験的にか?」
「個人的な興味として。」
2人の間に、柔らかな沈黙が流れる。
窓の外、冥界と現世の空が重なる。どちらの時間にも、もう境界はない。
冥界の王と現世の科学者。
互いを解析しながら、同じ家に暮らす。理屈でも魔術でもなく、理解で繋がる関係。
コーヒーの香りと、端末の微かな起動音。
今日もまた、2人の「日常」が始まる。
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