右足から

古代の作法を知っていた。それでも、破った。


冥界の玉座の間には、作法がある。
王の前に立つ者は、左足を前に出す。
心臓は、左にある。
王に心臓を捧げる、という意味だ。
三千年前からの作法であり、冥界でも変わらない。
神官は守る。
民も守る。
死者も、守る。

その作法が破られたのは、アテムが冥界の王となって、まだ日の浅い頃だった。

玉座の間の扉が、外から開いた。
警備は突破されていた。
土煙と、聞き慣れない駆動音。
現世の靴音が、石の床を鳴らす。
神官たちが色めき立つ中、その男は玉座の前で足を止め、
右足を、前に出した。
腕には、デュエルディスク。
「――決着を、つけに来た。」
海馬瀬人。
連絡もなく冥界へ還った王に、宣戦布告をしに、次元の壁を破って来た男。
アテムは、玉座から立ち上がった。
怒りは、湧かなかった。
湧いたのは、別のものだった。
それが何かを確かめる前に、決闘は始まっていた。


後日、神官の一人が進言した。
「あの者、王の御前で右足を出しております。異邦の者ゆえ、作法を知らぬのでしょう。次の機会に、教えて差し上げては。」
アテムは首を振った。
「放っておけ。」
「しかし――。」
「あれでいい。」
それ以上は、説明しなかった。
アテムは知っている。
海馬瀬人は、知らないことを放置できる男ではない。
発掘。文献。解析。
あの男は、この国の作法など、とうに調べ尽くしている。
知った上で、選んでいるのだ。
王の前で、右足を出すことを。

――お前は王ではない。神でもない。
右足は、そう言っている。
口よりも先に、毎回、言っている。
三千年、玉座の前に左足しか見てこなかった王にとって、
それが、どういう意味を持つか。
あの男は、多分、考えてもいない。
考えていないところが、いい。




それから、扉は定期的に開くようになった。

扉が開く。
駆動音。
靴音。
右足が、先に出る。
「決闘だ。」
「ああ。」
それが、始まりの形だった。

転移機は、代を重ねるごとに小さくなった。
駆動音も、静かになっていく。
コートの形が、何度か変わった。
デュエルディスクも、何度か変わった。
変わらないのは、靴音の速度と、右足だけだった。

「次だ。」
勝った日も、負けた日も、瀬人は同じことを言った。
「次で決着をつける。」
「もう何度目だ、それは。」
「記録なら残っている。確認するか。」
「遠慮しておく。」
決着は、つかなかった。
つかないように、二人で調整している――とは、どちらも言わなかった。


髪に白いものが混じり始めた頃、瀬人は冥界に泊まる日が増えた。
「現世は煩わしい。」
理由は、いつもそれだった。
会社は、とうに次の世代へ渡している。
それでも煩わしいものは煩わしいらしい。
決闘の後の夜、アテムは灯りを半分落とした部屋で、瀬人の隣に座る。
話すこともあれば、話さないこともある。
どちらでも、問題はなかった。
アテムは、いつからか、あの靴音で目が覚めるようになっていた。
扉より先に、回廊の端で分かる。
歩幅。速度。重心。
三千年分の孤独が張っていた耳は、今は、一人分の足音のためにある。


声が低く掠れるようになった頃、決闘の速度が、少しだけ落ちた。
アテムは、合わせなかった。
手を抜けば、あの男は二度と来ない。
全力で勝ち、全力で負けた。
「次だ。」
掠れた声が言う。
「ああ。」
アテムは答える。
次がある限り、扉は開く。
扉が開く限り、右足は出る。
それだけを、確認していた。




その日、扉の開く音は、いつもより遅かった。

靴音に、杖の音が混じっている。
右脚が、悪いらしい。
現世の医療も、機械の補助も、あの男なら幾らでも選べるはずだった。
選んだ結果が、杖一本なのだろう。
瀬人は、玉座の間をゆっくりと進み、いつもの位置で止まった。
そして、杖を左手に持ち替える。
神官たちが、息を呑むのが分かった。
右足が、
一拍、遅れて、
だが確かに、前に出た。

アテムは、玉座の肘掛けを握った。
立ち上がりそうになる自分を、そこに縛りつけるために。
駆け寄れば、支えれば、この男の七十年を、否定することになる。
「……決闘だ。」
掠れた声が言う。
「ああ。」
アテムは答えた。
声が揺れなかったことだけが、その日の、王の勝利だった。

決闘は、成立した。
速度は落ちても、読みは落ちていなかった。
むしろ、深くなっていた。
「次だ。」
帰り際、瀬人は言った。
いつもの言葉。
いつもの形。
アテムは頷き、いつもの場所まで見送った。
転移の光が消えるまで、その背中を見ていた。
杖の音が、光の向こうに消えた。

それが、扉の開いた、最後の日になった。




扉は、開かなくなった。

アテムは、待った。
政務をこなし、決闘の腕を鈍らせず、玉座の間の、いつもの位置を空けたまま。
神官たちは、何も言わなかった。
言わないことが、答えだった。
現世の時間は、冥界と同じ速さで流れる。
それを教えたのは、あの男だった。
だから、分かってしまう。
今、何日が過ぎたのか。
数えるのは、得意だった。
得意にさせられたのは、三千年前だ。
今回は、指を折らずに数えられた。
それだけが、あの頃との違いだった。

――冥界の王には、分かる。
新しい魂が、西の門を潜る時。
その名が、王の識るべき名である時。

その瞬間、アテムは政務の途中で立ち上がった。
パピルスが床に落ちた。
神官が何か言った。
聞こえなかった。
王は、走った。
王が走るのを、冥界の民は初めて見た。

西の門。
死者は、西から来る。
沈む陽を背に、逆光の中、人影が一つ。
駆動音は、ない。
杖の音も、ない。
現世の靴音だけが、まっすぐに近付いてくる。
若かった。
決闘の速度が、最も速かった頃の姿だった。
魂は、最も己であった時の形を取る。
つまり、あの男にとって最も己であった時間は――。
考えるより先に、男は目の前で足を止め、

右足を、前に出した。

「……連絡もなく来たな。」
アテムの声は、少しだけ掠れた。
「お前が最初にやった事だ。」
即答だった。
七十年ごしの、意趣返し。
アテムは、笑った。
笑いながら、視界が滲むのを、止められなかった。
「決着をつけに来た。」
瀬人は言う。
夕陽が、その輪郭を縁取っている。
「今度は、時間切れはない。」

アテムは、一度だけ、深く息を吸った。
「海馬。」
「何だ。」
「王の前では、左足を出すものだと――知っていたか。」
「知っている。」
迷いのない答えだった。
「知った上で、七十年、右足を出し続けたのか。」
「当然だ。」
瀬人は、何を今さら、という顔で眉を寄せる。
「お前は王でも神でもない。俺の好敵手だ。心臓を捧げる相手ではない。」
一拍。
「対等の相手に捧げるものなど無い。――賭けるだけだ。」

アテムは、俯いた。
落ちるものを隠すためではない。
落ちる場所を、選んだだけだ。
「……扉が開いて。」
声が、震えた。
今度は、隠さなかった。
「その右足が出るたびに、俺は、王でも神でもなく――お前の好敵手でいられた。」
顔を上げる。
「ずっと、左足しか見てこなかった俺に、お前は七十年、右足を見せ続けたんだ。」
「礼なら要らん。」
「言うつもりもない。」
アテムは、濡れたまま笑った。
「代わりに、勝つ。」

瀬人は、何も言わなかった。
ただ、右手を上げる。
あの日の――バトルシティの終わりに交わした、ハンドサイン。
闘いのロードは、見果てぬ先まで続いている。
アテムは、同じ形で応えた。
約束は、七十年かけて、ここまで届いた。
ここから先は、期限がない。

二人は、西の門から歩き出す。
玉座の間へ。
決闘の場へ。
沈む陽が、長い影を二つ、並べて落としていた。
歩幅は、違う。
だが、右足が先に出るのは、二人とも、同じだった。
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