鎧戸の隙間から差す光が、卓上の帳簿を斜めに切っていた。セトは羽根ペンを置き、隣室の水音に耳をやる。ユギが井戸から戻ったのだ。
髪がまだ濡れていて、首筋から一滴、襟に落ちた。ユギはそれを拭かなかった。
木桶の縁が敷居に当たる音、湯の沸く音。この家の朝は音で進む。言葉はあとから来る。
「パンが固い」
「昨日のものだからな」
ほとんど毎朝、同じやり取りをする。ユギは固くない朝にも同じことを言う。台詞なのだ、と二人とも知っていて、知っているからこそ欠かさない。
祈りの文句が、信じているかどうかとは無関係に唱えられて、唱えるうちに本当になるのと同じ仕組みだった。
欠けた杯に葡萄酒を薄めて注ぎ、固いパンを浸す。杯は二つ前の街の市でユギが値切ったもので、欠けは初めからあった。欠けているから安かった、とユギは笑った。それから二度、街を移った。杯は割れずに着いてきている。欠けていない側に口をつけるのは、いつもセトではない方だ。
食事のあいだ、ユギは鼻歌を歌った。市で覚えたフランスの歌で、音程が二箇所外れている。先週も同じ箇所が外れていたが、敢えてセトは直さない。
窓の光が卓を渡っていき、葡萄酒の薄い甘さが舌に残り、ユギの素足が床板の上でセトの足に乗り上げて、そこだけ温かい。床は朝のうちまだ冷たく、重なった一点から指の付け根へ、熱がゆっくり上ってくる。足を引く理由がないので、引かない。引かないと決めるより早く、すでに引いていなかった。
何も起きない。何も起きない朝というものを、二人はここへ来るまで一度も生きたことがなかった。どちらの生にも、こういう時間は予定されていなかった。予定になかったものだけで、いまの暮らしは出来ている。それを幸福と呼ばずに何と呼ぶのか。
セトもユギもそれを知らないし、知らないままでいる。
帳簿は港の商人のものだ。セトの家は、千年を二度数えてなお足りない悲願のために数字を扱ってきた。いまは麦と樽の数を扱う。桁の小ささに最初は指が戸惑ったが、いまは戸惑ったことを覚えていない。誰の役にも立ちすぎない程度に役に立つ。それがこの街での身の置き方だった。
ユギは薬種屋の手伝いをして、量りの読みが正確だと褒められている。一グラン違えば薬は毒になる、と主人は言う。ユギは頷く。もっと粗い量り方で人が死ぬ場所を、ユギはよく知っているが、知っていることを、量りは要求しない。それがいい。
朝食が済むと、セトは帳簿を閉じて棚に上げた。ユギが壁の籠を二つ取って、片方をセトに渡す。鐘の鳴る前に、二人で家を出た。
市の立つ日だった。石畳はまだ濡れていて、香草と魚と、焼き栗の匂いが層になっている。この街に来て二度目の春で、足はもう道を選ばない。曲がる角を、体が覚えている。
パン屋の女が、先に見つけて手を振った。
「アンリ、今日は早いわね」
「鐘の前に出たんだ。昨日のは固かったからな、今日は焼きたてを取るつもりだ」
「うちのパンが固いんじゃないよ、あんたたちが買い置きするからだろ」
「そうか。なら、そういうことにしておく」
女が笑って、籠に丸パンを二つ、それから黙って小さいのを一つ余分に入れた。
国を一枚ずつ脱いでいって、最後に残ったいちばん薄い一枚が、アンリという名だった。薄いから着ていられる。セトはそれを知っていて、知らないふりをしている。
樽屋の親方が店先からセトを呼び止めた。
「クリス先生、頼みがあるんだ。倅に字を教えてやってくれんか。樽の数も書けんようでは店を継がせられねえからな」
「先生はやめろ。数字だけなら、夕方に寄越せ」
「恩に着る。礼は樽でいいか」
「樽をどうしろと言うんだ」
親方が声を立てて笑った。冗談を言ったつもりはなかったが、笑われるのも今では悪いものではなかった。この街で、セトは、字が綺麗で、勘定が速く、口の重い帳簿屋ということになっている。それ以上を誰も聞かないし、それ以上を聞かれない場所を、二人は選んで暮らしている。
青物の前で、ユギが籠を覗き込んだ。
「玉葱か」
「先週も買っただろう」
「先週のは食べたぜ」
「……そうだったか」
「お前は数字以外を数えていないのか」
「数えるほどのことが、他にないだろう」
それは悪口の形をした別のものだったが、どちらも訳さなかった。チーズ売りの女が二人を見比べて、兄弟かい、と聞いた。似ていないだろう、とユギが返す。じゃあ何だい。セトが先に答えた。
「連れだ」
女は、ふうん、と言って、大きい方の塊を切ってよこした。
人混みで一度はぐれかけて、すぐに横に戻った。見なくても分かる。半歩内側の空気が、その側だけ少し温い。
何でもないところで、ユギの指がセトの袖に掛かった。掛けたいから掛けた、というだけの掛かり方だった。
隣家の子供が走ってきて、ユギの袖を引いた。
「抜けた」
掌に乳歯が一本載っている。
「見せてみろ。……いい抜け方だな」
「川に投げると、次のが強くなるんだって」
「誰に聞いたんだ」
「母さん」
「そうか。それなら本当だ。投げるときに、後ろを向くなよ」
子供は重大な任務を帯びたような顔で走っていった。ユギがその背中を見送る横顔を、セトは見ていた。見ていたことは言わなかった。
蜂蜜の壺の前でユギの足が少し緩んで、また進んだ。
布の露店の前で、カレー帰りの羊毛商人が立ち話をしていた。
「──海を渡った者まで、残らず呼び戻すおつもりらしい。恩赦だか、それとも──」
笑い声と、そして、話は別の荷の値段に移った。ユギの足は止まらない。ただ、セトの袖に指が一本、何も言わずに掛かった。
セトは来た道を戻り、蜂蜜の壺を買った。値切らなかった。樽屋の親方には、倅の件は次の市の日に、と使いの少年に言付けた。
川沿いの、長い方の道を歩く。水鳥が飛び、対岸で誰かが網を打っている。歩幅を、袖の指に合わせて、合わせていると気取られない速さで。
「……海の匂いが、した気がする」
「ここに海はない」
「うん。分かっている」
ユギは少し笑った。ないものの話は、それで終わりだった。橋の手前まで来ると鼻歌が戻ってきて、音程はやはり同じ二箇所で外れた。袖に掛かっていた指がほどけて、籠の持ち手に戻る。
それでいい。掛けたいときに掛ける場所がある、というだけのことが、この道を長い方にする理由だった。
川を大きく回って戻る頃には、日が傾いていた。
家に着くと、セトは火を熾し、朝のパンを薄く切って炙り、蜂蜜を厚く垂らした。皿に載せず、一切れずつ手から渡した。ユギは三切れ目で笑うのをやめて、ただ食べた。
それでいい、とセトは思う。笑ってみせる必要のある相手は、この部屋にはいない。笑ってみせることと笑うことが、ここでは同じ場所にある。
食べ終わったユギの髪に、セトは指を通した。櫛より遅く、丁寧に。
捨てたものの話を、二人はしない。しないのは、触れれば壊れるからではない。手が一杯だからだ。焼きたてのパン。欠けた杯。袖に掛かる指。パン屋のおまけと、樽屋の笑い声と、川に投げられた乳歯。今日あったものを今日のうちに確かめるだけで、夜が来てしまう。
数える指が、他のものには余らない。国一つ分、千年二回分の空白は、確かにどこかにある。あるが、この部屋には置く場所がない。この部屋は、狭くて、温かくて、満杯だった。
火が落ち着くと、することがなくなった。セトは商人から借りた本を開いたが、二頁で同じ行を二度読んでいるのに気づいて、それきり頁をめくらなかった。ユギは床に座って、爪を切っている。切った先が膝から落ちて、拾わずにそのままにした。
窓の外で、どこかの戸が閉まる音がした。誰の家かは分からない。犬が一声鳴いて、やんだ。蝋燭の芯がぱちりと鳴る。ユギが大きく欠伸をして、目に滲んだものを手の甲で拭った。何も言わない。セトも言わない。読まれない本が、開いたまま膝にある。そういう時間が、しばらく続いた。
やがて薪が崩れて、火の粉がひとつ立った。ユギの頭が肩から滑って、膝に落ち着いた。セトは姿勢を変えなかった。眠りの浅いことは、息で分かった。
浅い眠りの底で、ユギは水の中にいた。沈んでいる。冷たくない。水には鼓動があって、それが自分のものなのか、外から聞こえるのか、分からない。海だ、と思う。ここにはないと言われた海。沈むほどに明るくなる、逆さまの海だった。
息は苦しくない。苦しくないことが、岸がもう要らないという意味なのだと、夢の中の理屈で分かっている。底はなかった。底の代わりに、よく知っている体温があった。水より濃くて、肌より手前にある熱。溺れる、と思う。思うだけで、手は伸ばさない。伸ばさなくても、落ちていく先は同じだから。
名を呼ばれた気がして、薄く目を開けると、暖炉の残り火と、セトの顔があった。
「夢を、見ていた」
「いい夢だったか?」
「……海で、溺れていた」
近くで見るセトの目に、火が映って揺れている。それを見ていたら、続きの言葉がしばらく出てこなかった。
髪を梳く指が止まりかけて、また動いた。
「いい夢だな」
「うん」
ユギは目を閉じた。どちらが先に見ていた夢なのか、もう分からなかった。
セトはユギを抱え上げた。眠った体は昼より重く、首筋がセトの鎖骨に当たって、そこだけ熱い。
起こさない重さの抱え方を、腕はもう覚えている。寝間着越しに胸の鼓動が伝わってくる。速くない。何百回も腕で覚えた速さのはずだった。なのに今夜も、鎖骨のその一点だけ、慣れない。
寝台へ下ろすと、熱の当たっていた鎖骨が、急に夜の温度になった。
それから卓に戻り、蝋燭を寄せて、帳簿を最後の数字まで付けた。商人に返す分を揃え、別の紙を一枚出して、数字の手本を書く。一から百まで、樽の数を付けるのに要るだけ。樽屋の倅の名を上に書いて、帳簿に挟んだ。礼は要らない。樽も要らない。
それから、寝台の下から革の鞄を引き出した。最初に手に取ったのは欠けた杯で、布で包んで、鞄のいちばん奥に納める。そこがこの杯の席だった。どの街でも最初に荷に入り、新しい街で最初に荷から出る。欠けたまま三つの街を渡って、まだ割れていない。
衣擦れの音がして、ユギが寝台を降りた。何も訊かなかった。蝋燭を一本だけ灯し、自分の衣服を畳み始める。畳み方は速く、迷いがなく、量りの読みのように正確だった。怯えの速さではなかった。市へ出る朝の、籠を取る手と同じ速さだった。
蜂蜜の壺を、ユギが鞄に入れた。セトが頷いた。パンの残りも全部入れた。明日には固くなる。固いパンから始まる朝なら、どの街でも、同じ台詞で始められる。
夜明けまで、まだ少しある。二人で寝台に入った。
ユギの足が、朝と同じように、セトの足に乗り上げてきた。今度は床の冷たさがない。重なった所から、どちらの熱とも分からないものが、ゆっくり混ざっていく。
セトは腕を伸ばし、ユギの背に回した。引き寄せるというより、収まる場所に収めるような動きで、ユギの頭がセトの鎖骨の下に来た。運んだときと同じ位置に、今度は起きたまま、自分から。ユギの腕も、ためらわずにセトの腰へ回る。掌が背の真ん中で止まって、軽く押した。もっと近く、という意味の、言葉にする必要のない合図だった。
セトはユギの髪に口をつけた。蜂蜜の匂いがかすかに残っていた。昼に鞄へ詰めた壺と、同じ匂い。
持っていくものと、ここに置いていくものの匂いが、同じだった。国一つ分も、千年二回分も、この匂いの中にはない。匂うのは、いま腕の中にあるものだけだ。
ユギが小さく息を吐いて、力を抜いた。眠るための息ではなかった。背に回った腕は、ほどけなかった。
灯が、消えた。
