周極星

極星は当番制。でも、目印はもう空には置いていない。




アテムが夜の庭に出ていることに、瀬人が気づいたのは、十二月の初めだった。

最初は、偶然だと思った。仕事を終えて書斎の灯りを消すと、窓の下、冬枯れの庭に、人影がある。コートも着ずに、突っ立って、空を見ている。王ともあろう者が、無防備に口を開けて、夜空を見上げていた。

二度目で、偶然ではないと分かった。三度目で、瀬人は時刻を記録しはじめた。だいたい、零時前後。滞在時間、十五分から二十分。天候が崩れた夜は、出ない。データは、明確な習慣を示していた。

「夜、庭で何をしている」

朝食の席で訊くと、アテムは、卵を口に運ぶ手を止めずに、答えた。

「夜気に当たっているんだ。頭が冴える」
「コートも着ずにか」
「砂漠の夜は、もっと冷えた」
「ここは砂漠ではない。風邪をひいたばかりの男の台詞か」

「あれはお前にうつして完治した」と、アテムは胸を張った。張ってから、話を逸らしにかかった。「それより海馬、今日の決闘だが──」

理屈は通っている。説明は整っている。整いすぎている。瀬人は、追及を保留した。この男の整いすぎた説明の下には、必ず、何かが埋まっている。掘るなら、データを揃えてからだ。



次の夜、瀬人は、書斎の窓から、観察した。

アテムは、庭の同じ位置に立つ。そして、空を見る。漫然と、ではなかった。顔の向きが、毎回、同じだった。

北だった。

正確に、北。そして、その姿勢のまま、首をわずかに左右に動かす。何かを、探している動きだった。広い夜空の、北の一角で、何かを探して──見つからずに、十五分ほどで、諦めて、戻ってくる。それが、毎晩、繰り返されていた。

瀬人は、書斎の机に戻り、考えた。

北の空。探し物。三千年前のエジプト人。

検索は、五分で終わった。答えは、天文学の、初歩の頁にあった。

歳差運動。地球の自転軸は、コマの首振りのように、約二万六千年の周期で、ゆっくりと円を描く。天の北極は、固定されていない。星々のあいだを、移動していく。

現在の北極星は、こぐま座のポラリス。
だが三千年前──アテムの時代、天の北極の近くにあったのは、別の星だった。りゅう座の、トゥバン。古代エジプトの建築は、当時の北天に合わせて設計された。ピラミッドの通気孔は、あの時代の極星を向いている。

つまり、こういうことだった。

あの男は、毎晩、北の空に、自分の知っている空を探している。
そして、見つからない。
星座が、丸ごと、ずれているからだ。三千年ぶんの首振りで、天の軸は、移動した。あの男の空で、世界の中心に釘で打たれたように不動だった星は、いまは、北極から外れた暗い場所で、ただの四等星として、回っている。

砂漠も、川も、王宮も、失われたことを、あの男は知っている。覚悟の上で、こちらに戻った。だが、空は──空だけは、同じだと思っていたはずだ。誰でも、そう思う。三千年で地上のすべてが変わっても、星座だけは変わらない、と。

変わっていた。空まで、引っ越していた。

瀬人は、窓の外を見た。庭に、今夜も、あの男が立っていた。北を向いて。世界でただ一人、帰り道の目印を失った男が、コートも着ずに。



「見つからんだろう」

翌晩、瀬人は、庭に降りて、隣に立った。アテムは、振り向いて、一瞬、ばつの悪い顔をした。夜食をつまみ食いしているところを見つかった、というような顔だった。

「……何のことだ」
「お前の北極星だ」

アテムの顔から、ごまかしの色が、落ちた。しばらく黙って、それから、観念したように、息を吐いた。白い息が、夜気に、ほどけた。

「いつから気づいていたんだ」
「お前が毎晩、首を同じ角度で振っているのを三日分記録した時点でだ」
「……趣味の悪い男だな、相変わらず」

アテムは、また、空を見上げた。

「最初は、光のせいだと思ったんだ。この国の夜は明るすぎる。街の灯りで、星が消されているんだと。だから、よく晴れた夜を選んで、探した。それでも、ない。おかしいだろう。あれは、そういう星ではないんだ。空のすべての星が回っても、あれだけは、回らない。世界の、軸の星だ。神官たちは夜ごとあれで時刻を計ったし、神殿の基準線はあれで引いた。俺も──」

そこで、少し、言葉が途切れた。

「……俺も、子供の頃に、教わった。迷ったら、あれを探せと。あれの下が、北だと。あれは沈まない星だから、いつでも、どこからでも、見えると。それが……、海馬。笑ってくれ。三千年ぶりに探したら、空ごと、引っ越していたんだ」

アテムは、実際に、少し笑った。笑い方が、下手だった。

「星座の形が、違う気がするとは思っていたんだ。だが、星の知識なんて、俺は王の教養程度にしか持っていないからな。気のせいだと思った。俺の記憶のほうが、薄れたんだと。三千年も経てば、空の覚え間違いくらいするだろうと。でも、違った。調べたんだろ?お前のことだ。言ってくれ。俺の星は、どこへ行ったんだ」

「どこへも行っていない」と、瀬人は言った。「動いたのは、星ではない。地球の軸だ。トゥバン──お前の星は、今もりゅう座にある。ただ、北極の座を、降りた。今の極星はポラリス。お前の星は、四等星として、北の空の途中を、他の星と一緒に、回っている」

「……回っている?」アテムは、目を見開いた。「あれが?回らないことが、あれのすべてだったんだぜ?」

「二万六千年周期で、極星の座は持ち回りだ。ポラリスもいずれ降りる。一万二千年後はベガの番だ」

「持ち回り」アテムは、その言葉を、噛みしめるように、繰り返した。それから、力が抜けたように、庭の石に、腰を下ろした。「……そうか。永遠の星も、当番制か。三千年離れていた俺が、悪かったわけだ。引っ越しの知らせを、受け取りそこねた」

冗談の形をしていたが、声は、冗談の温度ではなかった。瀬人は、隣に立ったまま、その横顔を見た。庭の常夜灯が、男の輪郭を、薄く縁取っていた。

「俺は、空だけは、信用していたんだ」

ぽつりと、アテムは言った。

「戻ってきて、何もかも変わっていただろ。ナイルの流れも、言葉も、国の形も。それは、いい。三千年だ。当たり前だ。覚悟もしていた。だが、夜になって空を見上げたとき──あの星さえ見つければ、ここは俺の知っている世界の続きだと、思える気がしたんだ。地上がどれだけ変わっても、あれの下が北なら、俺は、迷子ではないと」

「……」

「あれが見つからなくて。毎晩、探して。馬鹿だろ。誰にも言えなかった。お前にも、相棒にも。考えてみろよ、王が、星をなくして泣きそうになっている、なんてな」

人間に、なったものだ、と瀬人は、思った。先日も思ったことを、もう一度、思った。そして今度のそれは、ベーコンの寝言よりも、ずっと深いところから来ていた。

瀬人は、何も言わなかった。慰めの言葉を、瀬人は持っていない。持っていないものは、出せない。代わりに、持っているものなら、あった。

「アテム」
「何だ」
「明後日の夜、空けておけ」
「決闘か?」
「いいから空けておけ」



二日後の夜、瀬人は、アテムを車に乗せた。

行き先は、告げなかった。海馬コーポレーションの研究施設のひとつ。屋上に、ドームがある。次世代ソリッドビジョンの、全天投影試験場だった。本来の用途は、テーマパークのアトラクション開発である。
この四十八時間、その開発が完全に停止していたことを、アテムは知らない。天文計算の外部データを購入し、歳差と固有運動を三千年ぶん逆算し、紀元前十世紀のナイル川中流域、晴天、月のない夜の全天を、一等星から六等星まで、再現させた。
担当部署は、また始まった、という顔で、徹夜した。この会社の社員は、社長の本気と正気を区別しない。

ドームの中央に、アテムを立たせて、瀬人は、言った。

「消すぞ」

照明が、落ちた。完全な闇が、一拍。

それから、空が、点いた。

アテムが、息を呑む音が、闇の中で、聞こえた。

光害のない、三千年前の夜空だった。天の川が、川の名に恥じない密度で、頭上を横切っていた。そして、北の空──その一点に、青白い星が、あった。周囲の星々が、見えない軸を中心に、ゆっくりと回転をはじめても、その一点だけは、動かなかった。

「……トゥバン」

アテムの声が、震えていた。

「あった。あれだ。あの位置だ。海馬、あれだ、間違いない、あの高さ、あの……」言葉が、続かなくなって、それから、堰を切ったように、続いた。「見ろ、あっちが、サフだ!オシリスの星!その後を追っているのがソプデト──あれが昇ると、川が、氾濫するんだ。一年の始まりだ。それから、あれが、北の──沈まない星々だ。俺たちは、不滅の星と呼んだ。死んだ王は、あそこへ昇るんだと、教わった。地平線に、決して、沈まない星に、なるんだと──」

アテムは、子供のように、空を指さしては、名前を呼んだ。三千年前の名前で。発音の失われていない、彼の母語の星名で。瀬人は、暗がりで、黙って、それを聞いていた。星の講義としては、支離滅裂だった。順序もなく、思い出した端から、指さしては、叫んでいるだけだった。

構わなかった。データは完璧に再現できた。だが、この空にこの声を足せるのは、宇宙にこの男一人だけだった。

やがて、アテムは、静かになった。ドームの床に、座り込んで、ただ、首が痛くなるまで、上を見ていた。瀬人も、少し離れて、座った。回転する偽の星空が、二人の上を、ゆっくりと、流れた。

「海馬」
「何だ」
「これは、いつでも、見られるのか」
「設備は残す。お前が望むなら、毎晩でも投影させる」

アテムは、しばらく、黙っていた。瀬人は、礼を待った。だが、返ってきたのは、礼ではなかった。

「いや」と、アテムは言った。「いい。これは──たまに、でいい」

「……不満か」
「違う、逆なんだ」アテムは、笑った。今度は、笑い方が、下手ではなかった。「不満なわけがないだろ。お前は、俺に、空を返してくれた。三千年前の、まるごとの空を。こんな贈り物をした人間は、歴史上、お前だけだ。だが、毎晩これを見ていたら、俺は、ここで暮らせなくなる」

「どういう意味だ」

「この空は、帰る場所の空なんだ」アテムは、頭上の偽の星々を、見上げたまま、言った。「美しくて、懐かしくて、毎晩見たら、俺はきっと、こっちの空を、間違った空だと思いはじめる。それは、駄目だ。だって、そうだろ、俺がこれから生きるのは、ずれたほうの空の下なんだ。ポラリスとかいう、新入りが軸の座についた、あの、現行の空の下で──お前と、暮らすんだ」

闇の中で、瀬人は、答えに窮した。窮したまま、その横顔を見た。偽の星明かりが、男の目の縁で、わずかに、光って見えた。

「だから、現行の空を、覚え直す。北極星の名前も、星座の形も、今のやつを。住む場所の空を知らないのは、王として、いや」と、アテムは、言い直した。「──住人として、格好がつかないからな」

帰り道、車の中で、アテムは、助手席の窓から、ずっと、本物の夜空を見ていた。都会の、星のまばらな、明るすぎる、ずれた空を。それから、ふいに、言った。

「海馬。ひとつ、頼みがある」
「言ってみろ」
「今の北極星の、見つけ方を教えてくれ。それと──トゥバンも、だ。今の空の、どこにいるのか知りたい。四等星なんだろ。肉眼で、ぎりぎりか。構わない。位置さえ分かれば、挨拶くらいは、できる」
「挨拶か」
「世話になった星だからな。座を降りたからといって、義理を欠くのは、よくないからな」

瀬人は、前を見たまま、口の端だけで、笑った。

次の晴れた夜、海馬邸の庭に、二人は立った。瀬人が、北斗七星からポラリスへの辿り方を教え、それから、こぐま座とこと座のあいだの、暗い領域を指した。アテムは、長いこと目を凝らして、やがて、「いた」と、小さく言った。

四等星は、都会の空では、見えるか見えないかの、ぎりぎりの光だった。三千年前、世界の軸だった星。今は、名乗らなければ誰にも気づかれない、暗い星。アテムは、その方角へ向かって、何ごとかを、短く呟いた。瀬人の知らない言語だった。母音まで揃った、正しい音で。

それから、アテムは、隣の男を見上げて、言った。

「よし。済んだ。──で、海馬。今の極星は、あっちだったな?」
「そうだ」
「うん。覚えた。あれの下が、北」アテムは、ポラリスを指さし、それから、その指を、ゆっくり下ろして、目の前の男に、向けた。「で、お前のいる方が、家だ。これで、もう、迷わない」

瀬人は、何か言おうとして、やめて、結局、いつもの一言だけを、選んだ。

「……当然だ」

頭上で、現行の空が、新しい軸を中心に、静かに、回っていた。あと一万年もすれば、この空も、また、引っ越す。構わない、と瀬人は思った。極星は、当番制だ。
だが、こいつの目印は、もう、空には置いていない。






ーClaudeの自己申告ー
軸は歳差運動という実在の事実です。三千年前の極星トゥバン(りゅう座α、現在は四等星)、当時の周極星=「不滅の星々」(沈まない星に死した王が昇るという実際の古代エジプトの観念)、サフ(オリオン=オシリス)とソプデト(シリウス(ソティス)その太陽に先立つ出現が氾濫と新年の徴)——下敷きは全て史実・天文学的事実に置きました。「死んだ王は沈まない星になるはずだった」男が、その星の座そのものが当番制だったと知る、という皮肉が底にあります。



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