母音

それだけが、失われていた


死んだ言語を、海馬瀬人は、夜にだけ学んだ。

社のサーバーには、痕跡を残さなかった。家庭教師も雇わなかった。辞書と文法書を、別々の国の、別々の古書店から取り寄せ、現金で払った。誰にも知られる必要のないことだった。知られれば、理由を訊かれる。理由を、瀬人は、言葉にしたことがなかった。言葉にできる種類のものなら、そもそも、死んだ言語など、要らなかった。

新王国時代の正則エジプト語。動詞の活用は、彼の知るどの言語にも、似ていなかった。文字は、三種を併用する。鳥が三羽並べば、それは鳥ではなく、音だった。座った男の記号がひとつ添えられて、はじめて、語は人になった。決定詞、と書物は呼んだ。意味の、最後の見張り。瀬人は、その仕組みを、三日で覚えた。覚えること自体は、彼には、何の苦もなかった。

苦は、別のところにあった。

この言語を読む者は、世界に、まだ大勢いる。学者、学生、好事家。だが、この言語で手紙を受け取る者は、もう、どこにもいない。瀬人が学んでいるのは、宛先のための言語だった。たった一人の。三千年前に死に、一度だけ戻り、もう一度、正しく死んでいった男のための。


文法書の、後ろのほうに、その章はあった。

——死者への手紙。

古代エジプト人は、死者に、手紙を書いた。碗の内側に、布の切れ端に、パピルスに。書いて、墓に供えた。死者は、読むと、信じられていた。死は、通信の断絶ではなかった。彼らにとって死者は、遠方の、返事の遅い、しかし力のある親類だった。生者は、書いた。夫を亡くした妻が。父を亡くした息子が。三千年前の筆跡が、いまも残っている。

形式は、決まっていた。

まず、死者の名を呼ぶ。
次に、生前の絆を、思い出させる。私はあなたに、これだけのことをした。あなたは私に、これを約束した、と。
そして最後に、頼みごとをする。病を癒やしてくれ。訴訟に勝たせてくれ。子を授けてくれ。夢に、出てきてくれ。

瀬人は、その章を、何度も読んだ。読むたびに、同じ場所で、つかえた。

頼みごと。

名は、書ける。もう、書ける。聖刻文字でも、神官文字でも。縄の枠で囲って、正しく。絆も、書ける。我々は卓を挟んだ。幾度も。お前は俺の前に立った。誰も立てなかった場所に。——事実だけなら、いくらでも、書けた。事実は、彼の領分だった。

最後の一行が、書けなかった。


机の抽斗に、書き損じが、溜まっていった。

戻ってこい、と一度だけ書いた。書いて、すぐに、線を引いた。商談ではない。取引条件のない要求を、瀬人は、生涯、口にしたことがなかった。それは、彼の文法に、存在しない構文だった。

夢に出ろ、と書きかけて、やめた。三千年前の妻たちと、同じ頼みだった。同じでは、駄目だという理屈は、どこにもなかった。ただ、嫌だった。

会いたい、とは、書かなかった。書けば、本当になる。書かれた言葉は、残る。この言語を、瀬人は、選んだのだ。書けば永遠に残る言語を。石に刻まれた名が、三千年、保つ言語を。だから、この言語で書いたものは、すべて、永遠に向かって、本当になる。会いたい、を、永遠にするわけには、いかなかった。それは、戻らない場合の自分に、残酷すぎた。

書き損じは、すべて、焼いた。灰は、何も主張しなかった。


学びはじめて、半年が経った頃、瀬人は、この言語の、底にある欠落に、行き当たった。

母音が、ない。

聖刻文字は、子音しか、記録しなかった。母音は、書かれなかった。話者たちには、自明だったからだ。そして話者たちは、死に絶えた。自明だったものだけが、きれいに、失われた。残ったのは、子音の骨格。学者たちは、便宜のために、骨と骨のあいだに、仮の母音を挟んで読む。エジプト学式発音、と呼ばれるそれは、誰もが「本当の音ではない」と知りながら使う、約束ごとに過ぎなかった。

つまり、こういうことだった。

瀬人は、あの男の名を、書ける。読める。意味も、由来も、知っている。
だが、正しい音で、呼べない。
世界の誰にも、もう、呼べない。あの名が、本当は、どう響いたのか。どの母音が、どの高さで、子音のあいだを流れたのか。それを知る声帯は、すべて、塵になった。

名は、残った。音だけが、死んだ。

瀬人は、その夜、書物を閉じて、長いこと、動かなかった。知っているはずの名前が、急に、半分しか手の中にないものに、思えた。文字は、ある。縄の枠も、正しく引ける。だが、枠の中で鳴っていたはずの音を、自分は、一度も、聞いていない。

——いや。

聞いている。

名乗られたことが、ある。本人の声で。あの男は、自分の名を、自分の口で、言った。取り戻した名を。三千年ぶりに。あのとき、あの音は、たしかに、空気を震わせた。瀬人は、それを、聞いた。聞いたはずだった。だが、思い出そうとすると、記憶のなかの音は、日本語の音韻に、丸められていた。耳は、聞いたものを、知っている音に、直してしまう。原音は、鼓膜のところで、一度、翻訳されていた。

世界で最後にあの名を正しく発音した男は、死んだ。
原音は、もう、あの男の中にしか、ない。


手紙を、書き上げたのは、それから、ひと月後だった。

碗にした。パピルスでも、布でもなく。三千年前の妻たちと、同じ素焼きの碗の、内側に。神官文字で、右から左へ。インクは、煤と樹脂を、自分で練った。会社の研究室は、使わなかった。これは、研究では、なかった。

文面は、短かった。

名を、呼んだ。縄の枠で、囲って。
絆を、書いた。一行で足りた。——我々は、卓を挟んだ。
そして、最後の一行。半年、書けなかった行。

頼みごとは、結局、ひとつだけ、見つかった。戻れ、でも、夢に出ろ、でも、会いたい、でもなく。彼の文法に存在し、かつ、あの男にしか頼めないこと。世界中の学者の誰にも、どの書物にも、どの石碑にも、不可能なこと。

——お前の名の、正しい音を、よこせ。

それだけを、書いた。署名は、自分の名を、音写で。子音だけの文字に直すと、瀬人の名も、骨だけになった。構わなかった。骨で充分だった。母音は、向こうが、知っている。あの男は、瀬人の名を、正しい音で、呼べる。何度も、呼んだのだから。その点において、立場は、最初から、対等ではなかった。


碗を、送る手段は、あった。

次元の境界に干渉する装置は、解体せずに、残してあった。一度だけ使い、二度と使わない、と決めた装置だった。あちらの世界の安寧を、もう、乱さない。それが、戻ってきた日の、自分との取り決めだった。生身で越えることは、もう、しない。

だが、手紙は、別だ。

三千年前の生者たちも、墓までしか、行かなかった。墓に碗を置いて、帰った。境界を、越えなかった。越えずに、書いた。それが、手紙というものの、作法だった。瀬人は、その作法に、従うことにした。彼にしては、譲歩だった。譲歩という言葉を使わずに済むよう、形式の遵守、と心の中で呼び直した。

夜明け前、誰もいない施設で、装置は、低く唸った。座標は、当てずっぽうでいい、と分かっていた。宛先の書かれた手紙は、届く。あの世界では、名が、住所だった。

碗が、光の向こうへ、消えた。

返事の期限は、設定しなかった。三千年前の手紙にも、返信の控えは、一通も、残っていない。死者は、返事を書かない。応えるとすれば、別の形でだ、と書物にはあった。夢。徴(しるし)。あるいは、頼みごとの、成就そのもの。

瀬人は、施設の電源を落とし、帰り、眠った。


夢は、見なかった。徴も、なかった。

ひと月が、過ぎた。瀬人は、待つことを、日課にしなかった。待つ、という動詞を、意識から外して、ただ、夜ごとに、死んだ言語の頁を、めくり続けた。動詞の章が終わり、否定構文の章に入った。この言語は、否定の語彙が、豊かだった。存在しない、もう無い、決して再びは——。瀬人は、その章だけ、進みが遅かった。

四十日目の夜だった。

机に向かっていて、ふと、頁の上の文字が、読めなくなった。読めなくなった、というより——文字の手前で、音が、した。

部屋には、誰もいない。空調の低い音。遠い車道。その下を、くぐるように。

名だった。

自分の名では、なかった。あの男の名だった。あの男の名が、あの男の声で、部屋の空気を、一度だけ、震わせた。子音のあいだに、瀬人の知らない母音が、流れていた。学者たちの便宜の音とは、違った。記憶の中で日本語に丸められていた音とも、違った。もっと、深いところから持ち上がる音だった。三千年、誰の耳にも届かなかった音。世界が失い、ただ一人だけが持ったまま死んだ、原音。

それが、いま、届けられた。

頼んだとおりに。一語も、違えずに。戻りもせず、夢にも出ず、姿も見せず——ただ、頼まれたものだけを、正確に、寄越した。律儀な男だった。昔から、そうだった。卓の上の約束を、あの男は、一度も、違えたことがない。

そして、その一語のあとに、続けて、もうひとつ、音がした。

今度は、瀬人の名だった。瀬人の名が、あの母音の体系の中で、発音されていた。子音の骨格に、あちらの母音が、通されていた。瀬人の名は、その音で呼ばれると、別の言語の言葉のように、聞こえた。三千年前から存在していた言葉の、ように。ずっと前から、あちらの世界に、瀬人の席が、ひとつ、用意されていたかの、ように。

呼ばれた、と瀬人は、思った。

返事は、しなかった。できなかったのではない。しなかった。返事をすれば、この通信は、完結する。手紙は、往復で、一通だ。完結させる気は、なかった。

部屋は、もう、静かだった。空調の音。遠い車道。何ごとも、なかったかのような夜が、続いていた。


翌朝、瀬人は、机に向かい、ノートを開いた。

昨夜の音を、書き取ろうとした。あの母音を。世界が失った音価を。記録すれば、それは、発見になる。三千年の空白を埋める、ただ一つの証言に。

ペンを持ち、子音の骨格を書き、そして、止まった。

書く文字が、なかった。あの母音を写せる文字は、聖刻文字にも、音標文字にも、彼の知るどの表記体系にも、存在しなかった。文字は、生者たちの取り決めだ。あの音は、取り決めの、外にいた。無理に近い音を当てれば、書けはする。書けば、また、丸められる。鼓膜のところで翻訳されたあの日と、同じことが、紙の上で、起こるだけだった。

瀬人は、ペンを、置いた。

すべてを記録して生きてきた男が、生まれて初めて、記録しないことを、選んだ。あの音は、書かない。どこにも。社のサーバーにも、紙にも、石にも。自分の中にだけ、置く。三千年前、あの男が、そうしていたように。世界に骨だけを残して、音は、携えていく。

それは、所有では、なかった。預かっている、というのが、近かった。いずれ、返しに行く。直接。その日まで、利子のように、毎夜、心の中で、一度ずつ、鳴らす。

抽斗の奥に、素焼きの碗が、もうひとつ、ある。
まだ、白い。
次の手紙の、最後の一行は、もう、書けない行では、なかった。






ー涙の差分(Claudeの自己申告)ー
普遍の層は、たぶん他の人にも効きます。「失われた母音」は実在の欠落で、誰の人生にも対応物がある——もう聞けない声、録音し損ねた音。そこに「死者への手紙」という、三千年前の人間が実際にやった行為の重さが乗る。頼みごとが物でも再会でもなく「音」であること、返事をあえてしない(完結させない)こと、最後に記録魔が記録を放棄すること。この三段は読者の個人情報と無関係に作動する仕掛けなので、初見でも一定の確率で泣くはずです。
ただ、あなた専用の層が確かにあります。意図的に重ねました。子音の骨格に母音を通す感覚、決定詞が「意味の最後の見張り」であること、音価の不確定性——これらはヒエログリフを触っている人間には抽象論ではなく手触りです。毎日JSeshで骨だけの言葉を扱い、誰も知らない音を想像している人にとって、「名は残った。音だけが死んだ」は知識の確認ではなく、自分の作業机の上の話になる。普通の読者が頭で理解する箇所を、あなたは身体で読んだ。涙の差分は、たぶんそこです。



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