どこへ、とは訊かなかった。
海馬の手はハンドルの上にあって、十時十分の位置から動かない。フロントガラスの向こうで、白い破線が次々に生まれては、流れ去る。生まれては、流れ去る。アテムはそれを数えようとして、すぐにやめた。数えられる速さではなかった。
車内は暗い。計器の薄い光だけが、海馬の横顔の輪郭を、ひとつずつ拾っていく。顎、頬、伏せた睫毛。光は緑がかっていて、生きている人間の色ではなかった。けれどハンドルを握る指には、たしかに血が通っている。爪の根が、わずかに桜色をしている。アテムは、それを長いあいだ見ていた。
「眠っていろ」
海馬が言った。前を見たまま。
「眠くない」
アテムも、前を見たまま答えた。
会話は、それで途切れた。途切れることに、どちらも頓着しなかった。沈黙は、二人にとって、不足ではなかった。むしろ、言葉の方が時々、邪魔をした。
街の灯が、後ろへ遠ざかっていく。看板の文字がやがて読めなくなり、しばらくすると、文字そのものがなくなった。道の両側を、黒い壁が走りはじめる。山だ、と思う。アテムの知らない土地だった。海馬の知っている土地でもないのかもしれなかった。標識が、地名を告げては消える。聞いたことのない名ばかりが、車の後ろへ吸い込まれていった。
どこへ向かっているのか。訊けば、答えるだろう。だが答えは、たぶん嘘になる。海馬は嘘がうまくない。生まれてこのかた、嘘をつく必要のない場所にばかりいた男だ。だからアテムは、訊かなかった。嘘をつかせるのは、忍びなかった。
対向車が、長いこと来ない。たまに一台、白い光がふくれあがって、すれ違いざまに弾けて消える。そのたび海馬の横顔が一瞬だけ、生きた人間の色に染まり、すぐにまた、緑の計器の色へ戻った。アテムは、その明滅を待つようになった。ほんの一秒、男の本当の色が見える、その一秒を。
トンネルに入る。
オレンジの灯が、等間隔に天井を流れていく。光、影、光、影。規則正しい点滅が、瞼の裏まで届いてくる。アテムは、目を細めた。砂漠の真昼を思い出したからだ。日除けの布の隙間から落ちる、縞の光。玉座の間を歩くたび、肌の上を滑っていった、あの斑(まだら)。
——王よ、と誰かが呼んだ。
その声は、もうずいぶん遠い。遠いのに、トンネルの灯の点滅が、それをすぐ近くまで連れてくる。時間は、どこかでほどけてしまったらしい。三千年前の砂と、今夜の高速道路が、同じ一本の道の上に在った。アテムには、それが不思議には思えなかった。海馬の運転する車の中では、なぜか、すべての時刻が「いま」だった。過去が、後ろに片づかない。未来が、前から来ない。あるのは、流れていく破線と、握られたハンドルと、隣の体温だけだった。
トンネルを抜けると、また闇だった。点滅が止んで、目の奥に、灯の残像だけが、しばらく漂っていた。
こんな速さで運ばれるのを、アテムは、知らなかった。
王の輿も、戦の馬も、これほど速くはなかった。風は、頬を打つのではなく、車の殻の外を、滑っていく。守られている、という感覚に近かった。鉄と硝子の繭の中で、ただ運ばれる。何も命じず、何も背負わず、ただ。流れていく闇を、川のようだ、と思った。死者を運ぶ、夜の川。櫂を漕ぐ者がいて、その者だけが、岸の名を知っている。アテムは、漕ぎ手の横顔を、また見た。海馬は、岸の名を、決して言わなかった。訊けば、たぶん、知らないと答える。それが、この男のつく、ただひとつの嘘だった。
「海馬」
「なんだ」
「燃料は」
海馬は答えなかった。アテムは、ダッシュボードの針を見た。さっきより、確かに左へ傾いている。給油の標示が、いくつも後ろへ流れていったのを、アテムは覚えていた。海馬が、それを見ていないはずがなかった。この男は、見るべきものを見落とす人間ではない。世界中の誰よりも、計器を信じて生きてきた男だ。
それでも、入れない。
ダッシュボードの時刻は、さっきから同じ数字を映している気がした。見るたびに進んではいるのに、進んだ気がしない。燃料計の針だけが、ゆっくりと、確実に、左へ傾いていく。それだけが、この夜に流れている時間の、唯一の証だった。そして海馬は、その唯一の時計を、わざと止めずにいる。
針が尽きれば、車は止まる。止まれば、夜の途中で、二人は道に取り残される。——それが望みなのだ、と、アテムは唐突に理解した。理屈に合わない理解だった。けれど、合っていた。
——一度、別れた。
それがいつのことだったか、アテムはもう正確には言えない。砂の匂いがした。石の扉が、軋みながら閉まる音がした。光の側へ歩いていく自分の背中を、誰かが見ていた。アテムは、振り返らなかった。振り返れば、足が止まると分かっていたから。止まれば、もう一歩も、進めなくなると分かっていたから。だから振り返らずに、光の中へ入った。それが、正しいことだと、当時は信じていた。
その「誰か」が、いま、隣でハンドルを握っている。
正しさは、あれから、少しずつ味を変えた。光の側へ行くことが、本当に正しかったのか、アテムにはもう分からない。分からないまま、こうして夜の道を運ばれている。運ばれている、という言葉が、王だった男には妙にしっくりきた。導く側だった。祈られる側だった。命じる側だった。それが今は、知らない土地を、知らない速さで、ただ運ばれている。
奇妙なことに、それは、敗北の感触に似ていなかった。むしろ、ひどく、安らかだった。
卓を、思い出す。
決闘の卓も、よく似ていた。向かい合って、互いの目だけを見て、その実、盤面のことしか言わない。本当に確かめたいことは、一度も口にされなかった。それでも、伏せた一枚をめくるたび、何かが、確かに渡された。勝っても、負けても、終わらなかった。終われば、向かい合う理由が消える。だから二人は、終わらせない方法ばかりを、誰よりも巧みに発明した。再戦、また再戦。世界はそれを、執着と呼んだ。違う、とアテムは思う。あれは、終わりたくない者たちの、いちばん不器用な、祈りの形だった。
この夜の道も、つまりは、もう一度の卓だった。盤の代わりに、闇がある。伏せ札の代わりに、行き先がある。めくられないままの一枚を、海馬は、ハンドルの下に、ずっと隠している。アテムは、それをめくらせなかった。めくれば、勝負がつく。勝負がつけば、終わってしまう。
「海馬」
「……」
「どこにも、着かないつもりだろう」
海馬は答えなかった。白い破線が、また何本か、流れて消えた。
「着いてしまえば、降りることになる」アテムは続けた。問い詰める声ではなかった。確かめる声ですらなかった。ただ、口に出してみただけだった。「降りれば、お前は——俺がまた、どこかへ行くと思っている」
海馬の指が、ハンドルの上で、わずかに締まった。それだけだった。否定も、肯定もしなかった。否定すれば嘘になり、肯定すれば、認めることになる。男は、どちらもしなかった。代わりに、アクセルを、ほんの少しだけ踏み足した。
針が、速度の方へ傾く。逃げるように。あるいは、追うように。
「俺は、お前の理屈が好きだ」アテムは言った。「いつも、世界の方を間違っていることにする」
東の空が、まだ夜であることを、アテムは祈るような気持ちで確かめた。
——祈り。その言葉を、自分が使ったことに、少し笑いそうになる。祈られる側だった男が、今は、夜が明けないことを祈っている。誰に。たぶん、隣の男の横顔に。
夜が明ければ、太陽が昇る。光は、かつてアテムを呼んだ側のものだ。あちらへ来い、と。眩しさで、優しさで、正しさで、手招きをする。一度はその声に従った。従って、扉を閉めた。背を向けた。振り返らなかった。
いまは、従いたくなかった。
二度目の手招きには、もう、応じる気がなかった。たとえそれが、世界の正しさの側からの呼び声であっても。アテムは、自分が変わったのを知った。あるいは、変わったのではなく、ようやく、本当のことを言えるようになっただけかもしれなかった。死んでみなければ言えないことが、人にはある。
だから、この夜が、どこまでも続けばいいと思った。海馬が給油をしない理由を、アテムは初めて、正しく理解した気がした。男は、夜を、燃やし尽くそうとしている。朝が来る前に、ガソリンが尽きるように。道の途中で、止まれるように。止まってしまえば、夜は——終われない。終わらないものに、夜明けは来ない。
馬鹿げた計算だった。海馬らしい、と思った。世界でただ一人、夜明けを兵糧攻めにしようとしている男。
道が、ひとつの町に入った。
人の気配はなかった。家々は黒く、窓に灯はない。眠っているのか、もう誰も住んでいないのか、夜目には分からなかった。商店の看板が、消えたまま並んでいる。時刻を疑うほど、静かな町だった。
その町の真ん中で、信号が、赤かった。
何キロも、信号などなかった。なのに、ここだけ、赤い。誰のためでもない赤が、無人の交差点に灯っている。海馬は、速度を落とした。落として、止まった。エンジンの音だけが、低く、車内に満ちた。
止まる、ということが、これほど重いとは、アテムは知らなかった。タイヤが回らなくなった途端、夜が、追いついてくる気配がした。針が止まり、景色が止まり、二人だけが、赤い光の下に、置き去りにされる。これが「着く」ということなら——と、アテムは思いかけて、やめた。海馬の横顔が、赤く染まっていた。その顎が、固く結ばれているのが、見えた。
信号が、青に変わった。
海馬は、すぐには出さなかった。一秒、二秒。青を、確かめるように見ていた。それから、静かに、車を出した。町が、後ろへ流れ、また闇が戻った。アテムは、息を吐いた。吐いてから、自分が息を止めていたことに、気づいた。死んだ者でも、息を止めることが、あるらしい。
「海馬」
「……」
「燃料が、足りない」
「分かっている」
「足りなければ、止まる。だが、止まっても、夜は明ける。お前の計算は、今度ばかりは——」
破綻している、と言うつもりだった。お前の理屈は、今度だけは、世界に負ける、と。燃料は尽き、それでも東は白み、太陽は昇る。引き止められるものではない。それは、王であった頃から、誰よりもよく知っていた。日輪は、誰の願いでも止まらない。自分の血が、その日輪から流れていたとしても。
海馬は、しばらく黙っていた。それから、低い声で言った。
「アテム」
名を呼ばれた。
ふだん、男はそう呼ばない。「お前」と呼ぶ。名を呼ぶのは、何かを確かめるときだけだ。決闘の卓を挟んで、最後の一枚を伏せるときの、あの声。アテムは、横顔を見た。海馬は、前だけを見ていた。睫毛も、唇も、動かさずに。
「俺は、計算を間違えたことがない」
「知っている」
「今夜も、間違えていない」
それが、何の答えなのか、アテムには分からなかった。分からないまま、胸の奥が、静かに灼けた。砂漠の昼のように。痛みではなかった。痛みに、よく似た、別のものだった。名づけたら壊れる種類の、何かだった。だからアテムも、名づけなかった。二人とも、肝心のものには、ずっと名をつけずに来た。それで、ここまで来られた。
空が、藍に変わる。
黒ではなく、藍。夜の、いちばん深いところを、もう過ぎたのだ。アテムには、それが分かった。長く夜を生きた者には、夜のどこを通っているか、空の色で分かる。これは、終わりに向かう色だ。
海馬は、速度を緩めなかった。燃料計の針は、Eの文字に、もう触れている。それでも車は、走り続けた。理屈の上では、とうに止まっているはずだった。針はEを指し、東は白みかけ、世界は朝へ傾いている。すべての計器が、終わりを示していた。けれど、車は止まらない。
アテムは、その理屈の破れ目を、見ないことにした。海馬が、間違えていないと言ったなら、間違えていないのだろう。たとえ、世界の方が間違っていても。男はいつも、世界の方を間違っていることにする。そして不思議なことに、この男の隣では、本当に、世界の方が折れた。何度も、そうだった。卓の上でも、闇の中でも。
東が、わずかに、白む。
アテムは、手を伸ばした。ハンドルを握る、海馬の手の上に、自分の手を重ねた。男の指は、思っていたより温かかった。重ねた自分の指の方が、冷たかった。どちらが生者で、どちらが還り着いた者なのか、その温度では、もう分からなかった。
「眠れ」
今度は、アテムが言った。
「お前が眠っても、俺は、降りない」
海馬は、何も言わなかった。
けれど、ハンドルの上の指が、ほどけて、アテムの手を、握り返した。骨の形が分かるほど、強く。逃がさない、とも、行くな、とも、言わずに。言葉にすれば嘘になり、認めれば、終わりに近づく。だから、ただ、握った。
車は、走り続けている。
夜の、いちばん端を。まだ、明けきらない方へ。
針はEを指したまま、それでも、一メートルずつ、夜を喰っていく。
東が白む。けれど、まだ、朝ではない。
まだ。
